深き緑に(まばゆ)き青に  〜5〜




深夜、暗い街の、さらに暗い陰から陰へと、足を忍ばせ進む者がいる。

その者が、急に歩みを止めた。
こちらの気配を感じ取ったようだ。

どう動く。

その者の判断は素早かった。
互いの力量を探り合うこともなく、その者は退いた。

自ら追うことはしない。

戦うことではなく、情報を得ること。
それが使命と心得ている。
しかし、相手を捕らえられれば、なおよい。

アザミの宿に配された烏は、秘かな合図を仲間に送ったが、
その者は辛くも逃げおおせ、姿を隠した。





数日後、
「おはようございますっ」
旅の装いで、朝早く宿に現れたヒノエと望美に、
アザミは長い身体を二つに折って深々と礼をした。
深夜の曲者の件は知らされていない。

アザミは手に箒を握りしめている。
まだ、壊してしまった戸板の分は返せていない。
それどころか、張り切って勢い任せに動いたため、
塀も一部破壊してしまい、弁償に上乗せ分が加わった。

「あの、どこかへいらっしゃるんですか?」
アザミは、まぶしそうにヒノエを見ながら言った。
「ちょっと、那智までね」

「いいですねえ」
ほっとため息をつきながら、今度は望美に小声で言った。
「うらやましいです。仲が良くて」

「お仕事がなかったら、一緒に行けるのにね」
望美の言葉に、アザミは真っ赤になって首をふるふると振った。
「めめめ滅相もありません」






中辺路を行く熊野詣での人々の中に、子供たちの姿がある。
血色の良い母の背に一人。その後ろに五人。
本宮から那智大社に至る道は、幾つもの峠を越え、急峻な坂も続く。
幼い子にはさぞきついことだろうが、皆健気に母親の後をついて黙々と歩いている。

しかし、峠道の向こうに熊野灘が見えた時には、全員が思わず足を止めた。

山々の狭間にきらめく海は、思わず眼を細めるほどにまぶしい。

「ここで少し休もうか」
母親が言うと、子供たちは歓声を上げて遊び始めた。

母親はといえば、高い木の根本に座り、背中の幼子を下ろして、
一番大きな女の子に預けた。
そして、子供に向けたのと同じ笑顔のまま、海に目を向け
誰に言うともなく話しかける。

「私に、何か御用でしょうか」

木の上から、言葉が返る。
「気づいてたのかい」

「はい」

「敵だとは思わなかった?」
「襲うなら、幾度も機会がありました。
万一そうだとしても、今なら子供たちは逃げられます」
言っていることとはうらはらに、顔には笑みが絶えない。
そして
「熊野の……偉いお方でいらっしゃいますね」

少しの間があった。
「理由は?」
「噂を、耳にしております。自ら足を運ぶお方だと」
「へえ、そんなこと、誰が言っているのかな」
「ご存知でいらっしゃいましょう。私の仕事」
「陰の仕事の仲立ちって、噂話まで流すのかい」
「人の噂話は貴重なものでございます。
それを集めるのも、仕事の一つ」

「そのにこにこ顔も、作戦の内ってことだね」
「はい、人は内緒事こそ話したがるもの。
いつも笑っている丸顔のおばさんには、警戒心も薄らぎます」

「これだから恐いね。やつもあんたの掌で踊らされていたってわけ」

笑顔が消えた。
「違います。だから、罠かもしれないと思いながらも熊野に来たのです」
真っ直ぐ、木の上の人影に視線を注ぐ。
「あの人は無事ですか」

沈黙が下りた。
ややあって、小さなため息。
「無事でなければ、あなた様がここに来ることもない。
主に向かい、とんでもないことを申してしまいました」

「じゃ、要点だけ頼むよ。
オレが知りたいのは、あんたのダンナの雇い主じゃなくて、
あんたへの依頼主が誰かってこと」

「申し訳ありません。仲介の者が依頼主と直接会うことはないのです」
「やっぱりね。お互いのためにはその方がいい…か」
「その通りでございます。余計なことを知る必要はございません。
上の者は下の者を知らず、下の者は上に命じられるままに動きます」

「つまりは、雇い主の線を追っても何もないってことかい」
「おそらくは。今となって思えば、夫への依頼は、行き止まりを作ること」
「手の込んだことをするもんだね」
「大きな目的のためでしたら、いくらでも」
笑顔が、少し悲しげに見えた。






「ヒノエくん、用事はすんだ?」
那智大社で待っていた望美が、息を切らせて走ってきた。

大きな目的?
それとも私怨か?
単なる小競り合いのうちの一つか。

「宮司さんが探してるんだよ。
法皇様の御幸の相談を早くしたいって」

御幸……時期が早くなったという報せが来ていた。
準備が間に合うか。
……御幸………。

「ヒノエ様〜〜」
大勢の神官が待っている。

「姫君は冷たいね。せっかくオレが戻ってきたのに、
すぐに野郎たちの中に追いやるのかい?」
「もう、ヒノエくんてば、遅いから心配したんだよ」
「オレのために?それとも野郎たちのために?」
「意地悪…」
「じゃ、神職のオレになる前に、ちょっとお前の顔を見せて」

ちゅ…

「ヒノエくんっ」
真っ赤になった望美の耳元に、さらに強烈な愛の言葉を囁くと、
ヒノエは神社の中へと入っていった。

ありがとう、姫君。
神官たちがオレを探しに来ないように、止めていてくれたんだね。

あの時、源氏の軍を止めたように。


確証はまだない。
だが、確信はある。

あの簪は宣戦布告。
狙いは望美ではなく、熊野だ。

守る側は不利。
最悪の事態を想定しても、
読み切れずに裏をかかれたら終わりなのだから。

ならば、オレが熊野を落とすと考えよう。
熊野を揺るがすのに一番有効なの手は、何か……。



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