2. 熊野 勝浦
「これで、裏切り者をあぶり出すことができましたね」
「弁慶様、お見事でした!」
水軍の男が、副頭領に高々と持ち上げられて、じたばたと暴れている。
かねてより熊野内部の情報を流していたのが、この男だ。
夏に、別当屋敷を襲った曲者の手引きをしたのも、
捕らえた曲者共に自害のための毒針を渡したのも、
この男と見て間違いないだろう。
しかし、偶然、別当屋敷の庭係の男と鉢合わせしたことから、足がついた。
その時ヒノエは不在だったが、ちょうど弁慶が熊野に来ていたのが、
この男の運の尽き。
弁慶の仕掛けた罠に、あっけなくはまりこみ、
こうして捕らえられた、というわけだ。
副頭領は、必死な抵抗など全く眼中にない様子で、
男をぐるぐる巻きに縛り上げた。だがなぜか、その表情は冴えない。
「ううむ…、捕まえてはみたものの、どうしたものか。
また以前のように自害されても……」
そう言って副頭領は苦い顔をしながら、男に猿轡を噛ませた。
「すぐに、白状させればいいのではありませんか?」
弁慶が言うが、副頭領はさらに苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「これだけしぶとく逃げ隠れしていたヤツですから、
そう簡単に何もかも…とは」
「その役目、僕が引き受けましょうか。
洗いざらい話すように、説得してみます」
弁慶は微笑みながら、捕らえられた男を見やった。
熊野水軍にあって、弁慶の名を知らぬ者はいない。
優男の僧侶という外見に、騙されてはいけないことも。
哀れな男の額に汗が滲み、たらたらと流れる。
「そ、それは願ってもないことで」
「では、屋敷の小屋を使わせてもらいます。
終わるまで、誰も近づかないで下さいね」
弁慶は、男を軽々と持ち上げて、歩き出した。
そして、ぶら下げた男に向かって、穏やかな口調で話しかける。
「ああ、君もあまり暴れないで下さい。
間違って地面に落ちると、きっと痛いですから」
落ちるんじゃない、落とすんだろう。
頼まれても、小屋には近づきたくない。
裏切り者とはいえ、可哀想なヤツだ。
副頭領は、弁慶の姿が見えなくなってから、
やっと、自分が息を止めていたことに気づいた。
そして数日後……。
夜の庭に、虫の声が響いている。
星明かりの下で、湛快は一人、酒を呑んでいた。
と、人の気配に虫の声が止む。
振り向くこともなく、湛快は自分の隣を指し示した。
「まあ、座れ」
大きな手で、肴を載せた小さな皿を運んできたのは、
水軍の副頭領だった。
皿を湛快に渡すと、「失礼します」と言って、
その隣にどすんと腰を下ろす。
「肴を運んでくるのは、きれいどころと決まってるじゃねえか。
少しは気を利かせろ」
「すみません」
「久しぶりだ。一緒に呑むか」
もう一度「すみません」と言って、副頭領は首を振った。
「底なしのお前が、どうした」
「ここのところ、酒は断ってますんで」
「そうか、まあ、お前に本気で呑まれたら俺の分が無くなるしな」
「そんな、頭り……いえ、湛快様ほどには呑めません」
途切れた会話の間に、虫たちが、再び一斉に鳴き出した。
「ヒノエが一人前になるまで我慢……ってか?」
湛快が、杯に残った酒を、ぐいっとあおる。
「め、滅相もありません!」
副頭領は、慌てたように言った。
「坊ちゃ…じゃなくて頭領は、一人前どころか、
すばらしい熊野別当様です」
「心配性なんだよ、お前は」
「すみません…。私の勝手な願掛けみたいなもんです。
何か事が起きた時に、酒を喰らって大いびきなんてことになったら、
と思いまして…」
「そんなこと気にするタマか、あいつが」
湛快は、空になった瓶子をころんと転がした。
「その時はその時だ。手駒の中で何とかするのが、
男の器量ってもんじゃねえのか」
「いえ、そんな、頭領の器をどうこうなんて、
そんなあつかましいことは…」
「だったら、呑め。やつを信じてな」
「……はい、ありがとうございます、頭…湛快様」
湛快は苦笑した。
「いいかげん、慣れろや。俺はもう隠居の身だ」
「すいません、目の前に湛快様がいらっしゃると、つい…。
決して悪気はないんで…本当です」
「お前の悪気ってのにも、一度くらいお目にかかりたいもんだ」
湛快は笑って、副頭領に杯を押しつけた。
副頭領が、ありがたく酒をすすり、うっとりとしたところに、
湛快が言った。
「で、弁慶はどうした」
副頭領は真顔になり、杯を脇に置く。
「後のことは任せる、と仰って、慌ただしく戻られました」
「内通者の後ろに、そんな大物がいたのか?」
「いいえ、弁慶様がやつを説得して聞き出したところでは、
どうという力もない、京の中流貴族でした」
「説得ぅ?」
「はい、あくまでも説得と」
「よく言うぜ。で、その後は」
「夏の一件でのお礼に加えて、今回のことでお世話になりましたので、
多少の色をつけてお渡ししました」
「宋銭か」
「いいえ、金で欲しいと」
「………」
湛快は腕組みすると、柔らかな光を帯びた水平線に目をやった。
遅い月の出だ。
「隠居の俺は、貴族の名前なんぞに興味はねえ。
それより、裏切ったやつは、水軍で何をしていたんだ?」
さすがに、的を射た所を聞いてくる。
そう思いながら、我知らず副頭領は声を潜めた。
「帳簿を…」
「そういうことか」
湛快はため息ともつかぬほど、長く息を吐き出した。
帳簿…つまり、熊野の物資や銭の出入りの記録。
それらを知るということは、ある意味、
熊野という国の裏側を把握することでもある。
中流貴族ふぜいが知ったからといって、どうにかなるものではないが、
その価値の分かる者にとっては、計り知れない意味を持つ。
情報が京に留まったまま、ということは、考えられない。
「気に入らねえ」
湛快は呟いた。
「だが、遅かれ早かれ、こういうことは起きるもんだ。
ヒノエにも、知らせたんだろうな」
「はい、烏が京に向かっています」
「弁慶をあてにしないのは、いいことだ。
十中八九、やつは近いうちに雲隠れするぜ」
「そ、そうでしょうか。まだ何の動きも…」
「あれでも、軍師様だ」
「けれど今は、ただの薬師として、働いていらっしゃるのでは」
「……どうだかな。まあそれは、やつの決めることだ。
だが、生き方なんて、そうやすやすと変えられるもんじゃねえ」
細い月が、しずしずと上ってきた。
つつましやかなその光は、沖の波浪を照らし、小島の影を浮かび上がらせる。
「勝ちすぎたな…熊野は」
湛快は、独り言のようにぼそりと言った。
「面白くねえと思ってるやつがいるのは、
ヒノエも分かってるはずだ…」
「はあ…」
副頭領は、同意とも、ただのため息ともとれる曖昧な返事をして、
頭の後ろをぼりぼりと掻いた。
「頭領に、京で大事がないといいのですが…。
熊野三山の神職として行くのだから、水軍は同行しなくてよいと」
湛快は笑い声を上げた。
「やっぱりそれか。水軍がいなくても、烏が一緒だろうが。
だから心配性だって言うんだよ、お前は」
「そうでしょうか」
「法皇に呼ばれた者に、おいそれと手出しはできねえさ。
たとえ鎌倉…といえどもな」
副頭領の巨躯が、一瞬動きを止めた。
湛快は、淡々と言葉を続ける。
「まだ、探り合いの段階だろう。何かあるとすれば、次だな」
「何か…とは」
「どういう順番かによるな」
「は?何の順番でしょう」
「目障りなものを潰していく順番だ」
「………といいますと」
「可哀想だが、一番最初は源氏の総大将殿だろうな」
「ええっ?!く、九郎殿ですか」
「国を潰すより、簡単だろうが」
「しかし、そのようなことをすれば、源氏の中に…」
「だからこそ、だ。
戦の場に出た者達にとって、総大将はどんな存在だ?
勝ち戦を自分の側に呼び寄せてくれたのは、誰だ。
総大将義経、源氏の神子、そして熊野……。
決して、頼朝じゃねえ。
やっこさんは鎌倉から動かず、戦上手かどうかもわからない。
九郎が指一本動かせば、源氏の御家人の中には、
頼朝を見限るやつも出てくるだろうぜ」
副頭領はかぶりを振った。
「九郎殿は、そういうことをするようなお方とは思えません」
「だから、恐いんだろうよ」
湛快は瓶子から直接酒をあおった。
「上に立つ者が変わるたびに、同じことが起こる。
後ろからばっさりやられたいヤツなんざ、いねえからな」
「平家が源氏に勝った時のように…ですか?」
「そうだな。あの時は、清盛のお情けで頼朝も義経も生きながらえた。
そのお陰で今日の源氏がある……となれば、今度は」
その言葉の先を想像し、副頭領は、大きな体をぶるっと震わせた。
湛快は、夜の空を見上げた。
満天の星。
涼やかな風が、ほろ酔いかげんの火照った顔をかすめて
吹きすぎていく。
「お星さんが、いっぱいじゃねえか。
手を伸ばせば、届きそうだ」
ひょい、と空ではなく真横に伸ばした手に、副頭領が新しい瓶子を握らせる。
「俺達の生臭え話を聞いて、笑ってるみたいだな」
副頭領は何も言わず、小さな杯を一気に干した。
[1. 京 法住寺]
[2. 熊野 勝浦]
[3. 京 六条堀川]
[4. 熊野 奥駈道 京 梶原邸]
[5. 奥州 平泉 京 梶原邸]
[6. 京 六波羅 ・ 梶原邸]
[7. 吉野山 京 六条堀川]
[8. 京 梶原邸 ・ 六条堀川]
[9. 京 六条堀川]
[10. 京 法住寺 熊野 勝浦]
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補足です。
冒頭に、弁慶が内通者を罠に掛けたというくだりがありますが、
その経緯は、小説部屋の
「さらば零零七番」
に書かれています。
こちらはギャグSSですので、さらっと読めると思いますが、
未読のままでも、この後も問題ありません。
2008.6.17