3. 向き合う者
堀川襲撃の翌日、薊は人の声で目覚めた。
眼を開けば、たくさんの見慣れぬ顔が自分をのぞき込んでいる。
逃げなければ! と咄嗟に動こうとした瞬間、身体を貫く痛みが前夜の記憶を蘇らせた。
薊は、歯を食いしばってうめき声をこらえる。
「無理に動かない方がいいよ」
「痛むんだね、かわいそうに」
薊を囲んだ人々は粗末な衣を着た老若男女。
ぜえぜえと苦しそうな息をする者もいれば、身体を押さえて呻いている者もいる。
――弁慶の患者か。人の心配をする立場でもないだろうに。
そう思った時、薊の目の前に暖かな湯気の立つ椀が置かれた。
「はい、これ…」
年端のいかない女の子の声。
囲炉裏を使って、人々は勝手に煮炊きしているようだ。
「置いただけじゃ飲めないだろう。この人は動けないみたいだ」
別の声がした。
「傷口を動かさないようにすれば、起きられるんじゃないのか」
「そうだ、弁慶さんに教わった通りにすれば」
「だいぶ弱っていなさるようじゃ。手を貸すから、汁を少し飲むといい」
「じいちゃんじゃ無理だ。おいらが手を貸すよ」
「ったく、きれいな娘さんだからって、病人が張り切るんじゃないよ。
男はどいてな」
次々に言葉が降ってくる。
――何なんだ。このお節介なやつらは…。
そして結局、薄い野菜の汁を飲むことになった。
「あんたも災難だなあ、こんな時に弁慶先生がいないなんて」
「こんなひどい怪我人を置いていくなんて、よほどのことがあったんだよ。
だから、弁慶先生を悪く思わないでおくれ」
薊は居心地が悪い。だが武蔵坊弁慶という源氏の軍師が、
人々から深く信頼され、慕われていることだけは察しがついた。
人々は話を続けた。
「あんたは知らないだろうが、夕べ六条堀川で騒ぎがあったんだ」
「弁慶先生は、戦の時に九郎様に仕えていたお方でね、
きっと助太刀に行ったんだよ」
――やはり、事は起きたのか。六波羅で漏れ聞いた言葉の通りに。
薊は我知らず瞑目した。堀川の館に居た頃のことが蘇る。
仮の居場所であった。暗い復讐心と不思議な充実感が心に交錯した時間でもあった。
あそこが斬り合いの場所となったのか。
薊の心の臓が、ドクリと打った。
かまびすしい一日が過ぎ、弁慶が戻ったのは深夜のこと。
静かに扉が開き、頭まで覆う黒い外套に身を包んだ法師が入ってくる。
患者の一人が熾していってくれた囲炉裏の火を見つめながら身を横たえていた薊は、
その時初めて武蔵坊弁慶の姿を見た。
息が、止まる。
昨夜、傷の手当を受けた時は、穏やかな声を背に聞くだけだった。
「お前は……」
忘れもしない。勝浦の街で薊を尾行してきた男だ。
――私は…熊野別当だけでなく、こいつにも助けられたのか…。
またもや敵に情けをかけられたのか。
左右に眼を走らせ、無意識に武器を探す。囲炉裏の脇に置かれた小枝が眼に止まった。
弁慶が扉を閉めようと後ろを向いた隙に手に掴む。
「すみません、怪我人を長い間放っておくなんて、僕はとんでもない医者ですね」
弁慶は静かな声で言った。昨夜と変わらぬ落ち着いた口調だ。外套を脱ぐと、
薊が身体の陰に隠した小枝を取り上げ、囲炉裏にくべた。
「お前があの時邪魔をしなければ!」
薊は動く方の手を振り上げた。が、手首を掴まれ、そのまま肩を押された。
身体が反転し、昨日と同じ態勢になる。
「この姿勢が一番楽なはずですが、どうですか。
少しはよくなったみたいでほっとしましたが、あまり動くと傷に障りますよ」
微塵の怒りも動揺もない声だ。薊の眼に、悔し涙が滲んだ。
「まだ出血しているようですね。布を取り替えましょう」
「やめろ…私に触るな!」
こんなことしか…怒鳴ることしかできない……。薊の涙が、筵にぽたぽたと落ちる。
弁慶の手が止まった。
しばしの沈黙の後、ぎしっと床をきしませて、弁慶が立ち上がった。
薊の前に来て腰を下ろす。弁慶は薊の射るような視線を受け止め、真顔で口を開いた。
「そんなに追い詰められた眼をしないで下さい。
君を傷つけるつもりはありませんから。
いや、むしろ僕は君に感謝しているんですよ」
弁慶の顔に、かすかに笑みが浮かぶ。
「九郎は、生きています」
薊の肩の力が、ふっと抜けた。だが…
「お前は…血の臭いがする。怪我をしているのか?」
笑みに似合わぬ苦いものが、弁慶の声に混じる。
「これは、僕に染みついた臭いです。堀川は…戦場でした」
弁慶は一部始終を語った。
二重に仕掛けられた周到な罠。九郎にも、土佐坊という御家人にも
逃れる術はなかったということか。そしてそれを仕掛けたのは……。
薊にも、やっと事の全貌が見えてきた。
「一瞬の闇に紛れて土佐坊昌俊を斬ったのは、
君を襲った男達の仲間と見ていいでしょう。
奥駈道で、熊野から戻る僕に傷を負わせたのも、そして…」
弁慶の声が低くなった。
「熊野で君達を、最後の最後に裏切ったのも」
薊は驚愕した。なぜ? どこまで知っているんだ、この弁慶という男は…。
「ああ、驚かせてしまいましたか。不思議なことではありません。
たまたま、僕が熊野にいる時に事件が起きただけなんですよ。
僕は、九郎とも熊野とも腐れ縁があるので、
そのせいでいろいろ厄介事が多くて困ります」
弁慶は、にこやかに淀みなく説明する。が、こういう時の言葉は信用できないと、
薊は薄々分かってきた。
弁慶は真顔になって続けた。
「熊野で暗躍していた君達の数は、あまりに少なかった。
別当の座を狙うなんて、無謀というより不可能だったはずです。
強力な後ろ盾があれば別ですが……」
薊は思わず頷いていた。
「舟競べの日、勝浦の群衆の中には怪しい男達が数多く潜んでいました。
けれど男達を追っていた烏によると、彼らは舟競べが始まるとすぐに
何もせず街を出たんです。これが何を意味するか分かりますね」
「そんなに早く、やつらは勝浦を去っていたのか。
我らの下に、援護の手勢が一人も現れなかったわけだ…」
「彼らは、事の行方を見定めていたんですよ。
法皇暗殺が成功したなら、すぐに動く手筈になっていたんですね?」
「そうだ」
「彼らは、法皇が水軍衆の舟に乗った時点で、撤退を決めたのでしょう。
狙った相手が相手だけに、絶対失敗できなかったのですから」
薊はぎりっと唇を噛んだ。
「今回、彼らに命令を下していたのは、鎌倉殿です。
となれば、君達と組んでいた彼らに命令を与えたのも」
「源氏が後ろ盾になった…と兄上が言っていたのは、このことだったのか」
「その時はさぞ、心強かったことでしょう。
源氏の棟梁の助力が得られるのですから」
薊の手の下で、きつく握られた筵がびりびり…と破れていく。
嗚咽の声を聞かれないように堪えるのが精一杯だ。
「傷の手当を、させてもらえますか?」
弁慶の問いに、薊は顔を伏せたまま、頷いた。
あでやかな装束に身を包んだ政子が、しずしずと部屋に入ってきた。
居並ぶ国守が一斉に頭を下げるのを見渡し、一段高い上座に着く。
広間の南に広がる庭を、政子は見やった。冬の穏やかな日射しが降り注ぐ
堀川館に、先日起きた事件の痕跡はもう無い。
「頭をお上げなさい」
これは、頼朝の名代として、京での最後の勤めになる。
戦の後に行われる報奨は、頼朝に与して戦ってきた
豪族、国守にとって最大の関心事。
大きな不満を残せば、鎌倉の政権にとって、
足元を揺るがす火種ともなりかねない。
だが、より多くを求める者達の中にあって、
あの男だけは……。
政子は庇にほど近い下座にいるヒノエに眼をやった。
こちらを見ることもなく、端正な横顔に微笑みさえ浮かべている。
ふと、政子は異質な気を感じた。
眼を上げ、庇の下に並ぶ者達を見る。
彼らは随行してきた各国の重臣達。
その中に、異質な者はいる。
ヒノエに同行してきた熊野の男達の一人だ。
政子は薄く笑った。
「では、頼朝様より下されました報奨の儀、これより申し渡しますわ。
まずは……」
次々と報奨が言い渡され、最後に熊野の番となった。
「熊野別当藤原湛増殿、これへ」
ヒノエは中央に進み出て、政子と向き合う。
「熊野は此度の戦において、大きな力となってくれました。
熊野水軍の参戦を、鎌倉殿はことの他頼もしく思われたとのことですわ」
誠意のない言葉に応えて、ヒノエは誠意のない礼を返す。
政子の口元が冷笑にゆがんだ。
「けれど、別当殿は欲がないのね。上総の所領はいらない…と、
私の父上に言ったそうね」
「ああ、時政殿上洛の時にね」
ざわざわと周囲がざわめいた。
――所領が要らないなど、考えられない。
では代わりに何かを願い出たのだろうか。
戦の一番手柄は熊野だ。その熊野の処遇如何では、我が所領もいずれ危ういことに…。
「くすくす…別当殿は無欲すぎて、こちらが困ってしまいますわ。
では、熊野には守護を置かないことにしましょうか」
ヒノエの眼が光った。大変な譲歩だ。
ということは、より大きな代償を求めてくるということか。
「嬉しいけど、その代わりは何なんだい」
政子は驚いた、とでも言いたげに眼をしばたたいた。
「まあ、疑り深いのですね。そんなに警戒なさらなくてもよいのよ。
所領は今まで通り。別当殿は水軍衆を率い、熊野三山を統べる。
これでいいかしら」
沈黙しているヒノエに、すっと眼を細めて政子は付け加えた。
「条件は簡単よ。別当殿が二度と、熊野の地から出ないこと」
ほう…。
居並ぶ者達は一様に安堵した。熊野にも、その功労に対して絶妙の均衡で報奨が出された、と。
――オレの動きを封じにきたか。
オレがいなければ、水軍は動かない。
例え戦が起きても、熊野は打って出ることができなくなる。
「悪いけど、京と熊野は縁が深いんでね。
別当のオレが行き来できないと何かと不都合が出るんだ。
特に、御幸の時はね」
政子は袖を口元に当てた。
「仕方ありませんわね。せいぜい粗相のないように務めなさいな。
あなたは熊野が何よりも大事なのでしょう?
ならば、守護の代わりに別当が、熊野の安寧に力を尽くすべきではなくて?」
政子はすっと手を挙げ、ヒノエに指を向けた。
「これは頼朝様からの命令。
龍神に選ばれた源氏の神子を我がものにした熊野には、少なすぎる代償と思いなさい」
最前よりさらに大きなどよめきが部屋を包んだ。
「何と、大それたことを」
「戦の後に、神子の噂を聞かぬと思っていたら」
「熊野だけに、龍神の加護が与えられるというのか…」
そのどよめきの中で、政子は笑っている。
――くすくすくす……どう?坊や。欲深い人間は、こうして操るのよ。
「すぐに熊野に戻りなさい、熊野別当藤原湛増。
そして……」
政子は庇に控えた泰衡に視線を向けた。
「お前は熊野水軍の者ではないわね」
その場は騒然となった。
皆、半分腰を浮かせて、泰衡を見る。
隣の水軍副頭領は身を固くし、脂汗を浮かべた。
政子は詰問する。
「熊野別当、何者を紛れ込ませたの」
周囲が固唾を呑んで見守る中、泰衡は立ち上がり、
政子の真向かいへと進み出た。
その表情は、いつもの如く眉間に深い皺を刻んだまま。
泰衡の声が、堀川館に朗々と響く。
「初めてお目にかかる。
私は奥州国守藤原秀衡が嫡子、藤原泰衡」
ヒノエは端座したまま、不敵な笑みを浮かべた。
[1. 潜行]
[2. 確信]
[3. 向き合う者]
[4. 名残]
[5. 神子]
[6.隠されたもの]
[7. 別れ]
[8. からくりの一]
[9. からくりの二]
[10. からくりの三]
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2009.1.21