比 翼

− 3  冬の始まり −

1. 潜 行



寒風の中、祇園の八坂神社は今日も参拝の人々で賑わっている。

人が集まれば、噂話に花が咲く。 話題の中心は、源九郎義経の捕縛だ。
九郎義経といえば、知らぬ者はいない。 平家との戦で大手柄を立てたことは、まだ記憶に新しいのだ。 それが、源氏の御家人を斬り捨てたとあれば、 噂話の格好の材料となる。
あることないことまくしたてる者もいれば、 したり顔の憶測を口にする者もいる。まことしやかな作り話が 一気に広まっていく。

だが、噂話に興じながらも、皆の口の端にしばしば上るのは 「どうにも腑に落ちない」の一言であった。
巷間伝えられてきた九郎の人となりからは、此度のような事は想像し難い。 戦で手柄を上げた武勇の人でありながら、 地震の後には六条堀川の居館を開放して街人の救済にあたっていた。 その折に九郎に会ったことのある者達は、「何かの間違いだよ!」と異口同音、 声高に主張する。
つまりは、これまで京のために九郎が成してきたことを考えると、 捕らえた者を無惨に斬り捨てるなど、人々はどうしても信じられないのだ。

今日も今日とて、ここ八坂の神社のそこかしこでも、噂話に花が咲いている。

「どうにも、おかしなことが多すぎるよ」
「なあ、そう思わんか、お若いの」
そんな言葉に曖昧に相づちを打ちながら、くたびれた烏帽子をかぶった街人が 二人、参道を歩いている。

その一人が、小声で隣の男に耳打ちした。
「さすが九郎様だな。ここまで慕われているとは」
もう一人が頷いた。
「もちろんだ。だが…此度のことを御館がお知りになったら」
「叶わぬことを願っても仕方ないぞ」
「くそっ、源氏のために戦ってきた九郎様を…」
「しっ…声が大きい、春信」

「全くだ」
二人の横を、野太い声が通り過ぎた。
不意を突かれた二人だが、そこで動揺した様子を見せないところは、 ただ者ではない証左か。
「三郎か、脅かすな」
二人は男を眼で追うこともなく、そのまま本殿に向かう。

三郎と呼ばれた野太い声の男も、ぶらぶらと歩きながら本殿に行く。
雑踏の中で、三人が並んだ。
低い声で、短く言葉を交わす。
「右後ろの男、気付いているか」
「ああ」
「政子様は、九郎様とは直接会わないようだ」
「上洛してもう数日が経つぞ」
「ということは、護送か、あるいは…」
「早まるな」
「分かっている」
「次は」
「北野」

三人は人混みに紛れ、いずこへともなく姿を消した。
見張りの男は踵を返して神社を後にする。 歯がゆい思いに、その男は思わず舌打ちした。
あの三人は、義経配下の中心ともいうべき者達。 お互いに接触しようとするところを妨害し、見張るだけでよいのだろうか。

「手を下してはならぬ、との命令だ」
ふいに男の後ろで声がした。
「分かって…おります」

二人とも、六条堀川の母屋の床下で機を窺いながら待機していた男だ。 その時と変わらず、陰で動く者に特有の暗い気を纏っている。
「しかし、一人だけでも追い詰めて始末しておけば…」
見張りの男はなおも言い張った。

と、相手の男が低い声で呟く。
「逆らうのは、堀川に続きこれで二度目か。お前は…危険だな」

言い訳か詫びか、あるいは悔悛の言葉か、それを発する前に、 見張りの男はどうと倒れた。 チ…と刀を鞘に収める音だけが宙に残る。

そして、何事もなかったように、
「新しい命令だ」
男は誰もいない周囲を見回して言った。 木立の間から、幾人もの男達が現れる。 街人、武士、商人、様々な風体だが、皆一様に暗く鋭い眼光をしている。

短い指示を出し、最後に男は言った。
「御台様より直々のご下命。時を過つこと無きように」
「承知」

木々が影を落とす坂道の上から、参拝の帰り道らしい男達の声が聞こえてきた。 かすかな金属音と重々しい足音。武士の一団らしい。

その場にいた男達は、瞬時に走り去る。 息絶えた見張りの男の身体も、そこにはもうなかった。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



六波羅の源氏の館。
執務の行われている母屋から遠く離れた西の対に、九郎はいる。
申し訳程度に小さな燈台の置かれた塗籠が、今の九郎の居所だ。 牢に入れないのは、頼朝の弟という九郎の立場をそれなりに慮ってのことだろう。
だが、見張りの者が交代で扉の外に二人ずつ付いている。 一日中、彼らは言葉を交わすこともなく黙ったままだ。 食事を運んで来る者もいるが、きつく命じられているのか、九郎とは口もきかない。

彼らが九郎に懐柔されることを恐れているのか。
薄闇と沈黙の中に置くことで、追い詰めようとしているのか。

いずれにせよ、頼朝の北の方政子はとうに京に到着しているはず。 当然、堀川で起きたことの一部始終は耳にしていることだろう。
いや……とうに知っているはずだ。しかも事の起こる前から……。

九郎は唇を噛みしめる。
だが、ここで悔やんでも悲しんでも何もならない。

自分がここにこうして在るのは、兄、頼朝の意志なのだから。

燈台の小さな炎を見つめ、背筋を伸ばして座したまま、 九郎は考え続けている。

京に来ているのに、政子は大事を起こした「首謀者」である九郎に 会って詮議するどころか、何の沙汰も寄越さない。

このことが意味することは、一つ。
処断は、とうに決まっているのだ。

六条河原に引き出されるか、あるいは鎌倉に送られてからか…。

身にやましいところは一つもない。
源氏を思う心にも、一点の曇りもない。

それでも、館の者達に罪を負わせることはできなかった。
なので、九郎は六波羅守護、江間四郎に主張したのだ。

「咎は全て、この九郎義経が負う」と。

彼らは元々、九郎を慕って集まってきた者達ばかり。 ほとんど皆、源氏とは何の縁も無い。
特に、佐藤継信春信の兄弟は奥州藤原氏の郎等。 戦も終わり、九郎に仕えよとの御館からの命は二人とも立派に果たした。 ならばそろそろ平泉へ…との話をしようとしていた矢先のことだった。 このようなことで罪に問われたなら、あまりに理不尽だ。

だが、何とか無事に逃げおおせているようで、よかった…。

九郎は手の中の小さな紙を広げた。
そこには、見慣れた弁慶の文字で一言。
「皆無事」
とだけ、あった。
九郎の一番の気がかりがどこにあるか、よく分かっている。

この紙は、食事の椀の底に、菜に紛れて入っていたものだ。 膳を運んできた下男は、黙ったままにやりと笑い、 椀を指さして出て行ったのだった。

その男の顔つきで、その方面に鈍い九郎にも分かった。

――買収したな。
油断も隙もないやつだ。
監視の目の中で、どうやったのか分からないが、
弁慶のことだ、こういうことはお手の物だろう。

だがそれほどの金、いつの間に手にしたんだ?
あの診療所がそれほど儲かるとは思えん。

九郎は首をひねる。
だが……

もう一度九郎は紙に目を落とし、かすかに微笑むと、 それを燈台の火にくべた。
じじっと音がして、小さな紙はすぐに燃え尽きた。

これで俺は、揺らぐことなく待つことができる。
九郎はぐっと口を引き結んだ。

炎の向こうに、幼い頃の思い出が浮かぶ。
繰り返し、心に刻んだ師の言葉。

「どのような危難に遭おうとも、必ず機は訪れると信じなさい。
大切なのは、あきらめぬことだ。
あきらめた者の眼に、好機は見えない。
だがあきらめなければ、ただ一度の機を逃すことはない」

――鞍馬で、奥州へ逃げ延びる道中で、戦の中で、 俺は幾度も危機に陥り、それでも先生の言葉の通り、最後まであきらめなかった。 そして、機を掴んだ。

このままむざむざと、兄上に俺の命を差し出しはしない。




江間四郎は機嫌が悪い。 今も執務の机を離れ、部屋を歩き回っている。

鎌倉の命令を遂行することが、御家人の一義と心得てはいる。 だが若い四郎にとって、大がかりなだまし討ちともいうべき 堀川の事件は、どうにも後味の悪いものだったからだ。
罪に問われた九郎が、武士らしい潔い態度を見せているとあれば、なおさらだ。

咎を一身に背負うことで、九郎は配下の者達を罪に問わぬよう、要求した。 それに対し、源氏の元から放逐すること、 京から退去することを条件に、江間四郎は彼らの命を保証すると約束したのだが…。

九郎の配下は、散り散りになった。 しかし四郎の姉、政子の命により、弁慶だけが五条の診療所にいる。 早々に診療所を閉鎖するようにと言い渡してはあるが、 九郎の配下では一番の大物であり、最も油断ならない 人物である弁慶が野放しとは、全く解せない。

四郎はため息をついて庭に降り立った。 冷たい大気と足元の枯葉が、冬の到来を告げている。

診療所が即刻閉鎖とならなかったのは、 源氏の評判を落とすことを嫌ったためか。 貴族の中には、九郎捕縛にあからさまな嫌悪を見せる者もいるくらいだ。 検非違使庁に行った時など、上の者から下の者までが 冷たい視線を送ってきた。

――人望が厚い九郎殿を、うまく利用すればいいのに。

四郎はもう一度ため息をつくと、執務に戻った。
上洛してきても、姉は六波羅に顔を出さず、堀川に居座っている。 参内を前に、法皇はじめ朝廷の大物達への挨拶もあるのだろうと、 それを言い訳に、こちらから行くこともない。 堀川という場所のせいもあるが、どうにも気が進まないのだ。

昔はこのようなことはなかったのに、なぜだろう。
血を分けた姉のことを考えているというのに、四郎は思わず身震いしていた。




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− 2  秋から冬へ −

[1. 京 鞍馬・五条]  [10. 雌伏]

− 3  冬の始まり −

[1. 潜行]  [2. 確信]  [3. 向き合う者]  [4. 名残]  [5. 神子]
[6.隠されたもの]  [7. 別れ]  [8. からくりの一]  [9. からくりの二]
[10. からくりの三]

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新章、開始です。がんばります!

冒頭の九郎の仲間三人は、有名な方ばかりご登場願いました。
ヒノエくんルートで源氏が勝利したからには、佐藤継信は絶対生きているはず!
ということで、弟・春信とセットで(笑)。
三郎はもちろん、「伊勢」です。
せっかく出てきた三人ですので、
今後も活躍の場ができるとよいのですが…(←自分でも分かっていなくてごめんなさい)。

さて、第3章の主な舞台は京です。
熊野別当夫妻、藤原泰衡、政子様、梶原兄妹、と役者が京に勢揃いですので、
皆様には思い切り暴れて?もらいたいと思っています。
相変わらずのペースですが、少しずつでも進めていきますので、
どうかよろしくおつきあい下さいませ。

2008.12.26