比 翼

− 3  冬の始まり −

5. 神 子



接見の間を出た政子は、回廊に出た。 国守に付き従う者達が控えた庭を横に見ながら歩く。 その回廊が鍵の手に曲がる少し手前に、庭に下りる階がある。 政子は狐火の揺らめく眼で、そこを見据えた。 階の下に、両手を揃えて膝を付いているのは、見間違えようもないあの娘。
恭順の意を示すような姿勢を取りながら、 真っ直ぐこちらに向けた眼は、強烈な意志を放っている。

政子はくすり…と笑った。
水軍の副頭領が胃の腑の辺りを抑えて呻き、 熊野別当が身を翻して庭に駆け下りたのが分かったからだ。

――どうやら、夫に無断でここまでやって来たようね。
仕方のないお嬢さんですこと。
でも、あの生意気な男をここまで動揺させるなんて、大したものですわ。
政子はもう一度、くすりと笑う。

政子は歩を進め、階の上から望美を見下ろした。 そしてあきれ果てたといった表情を作り、その通りの口調で言う。
「熊野は闖入者を呼び込むのがお好きなのね」
望美は怯むことなく、政子を見上げて答えた。
「失礼の段、お詫びします。ここには、私の一存で参りました。
政子様に、お礼とお別れの言葉を申し述べるためです」
政子は両の眉を上げた。
「仰る意味が分かりませんわ。
源氏の元を離れた神子が、今さら何のご用かしら」

離れた場所にも、二人の会話は聞こえていた。
接見の間にいた国守から、簀の子に控えた郎等までが皆 庭に下り、耳を澄ませている。
しかしながら、全員が我が目と我が耳を疑っている始末だ。
政子はあの娘を神子と言った。ならば間違いないのだろうが、あれが本当に源氏の神子なのか?

形としては、もう政子は退席済み。その気安さから、遠慮ないざわめきが起こる。
「あれは何というか…普通の娘…のようだが」
「龍神の神子とは、もっとこう…」
「そうだな、威厳があるというか」
「神々しいというか」
「落ち着いているはずというか」
「あれで本当に龍神の加護があるのだろうか…」

泰衡だけが動じることもなく経緯を見守っている。
――あれだけ腹の据わった娘が、普通なものか。
頼朝の北の方相手に、物怖じもせず言いたいことを言うつもりのようだ。
それにしても……
泰衡はフッと笑った。
この部屋を転がり出た時のヒノエの顔、一生覚えていよう。

「望美!」
駆け寄ったヒノエを、すっと手を差し出して制し、 望美は臆することなく言葉を続けた。
「突然この世界に来て、途方に暮れていた私と私の友達を、
九郎さんは源氏の軍に迎え入れてくれました。
源氏の棟梁の頼朝様にお礼を言いたいのは、
私に居場所を与えてくれたことです。
けれど戦の後、頼朝様にお別れの挨拶ができないまま、
私は源氏の軍を去って、熊野に行きました。
なので今改めて、お別れを申し上げたいのです。
そして、頼朝様にお伝えいただけますか。
全ては私自身の意志だったということを」
「姫君! 言わなくていい!」

政子は顎を上げると、鋭い声を浴びせた。
「世話にはなった。でも、勝手に出て行った。
あなたにとって源氏の神子の名は、
そのように軽いものだったのかしら」
望美は政子の視線を真正面から受け止めた。
「私、白龍の神子だったことを誇りに思っています。
だからこそ、その誇りにかけて、嘘は言えません。
源氏の神子を名乗る資格の無い私が、
その名にこだわってよいものでしょうか」
「よく覚えておきなさい、お嬢さん。
一度背負った名は、たやすく消せはしないのよ。
あなたが源氏の神子であったことは事実…。
あなたの振る舞い、あなたの存在には
それだけの重さが伴うことをご存知かしら」

「今の私が神子ではないことも、事実です。
戦が終わった後、白龍は天に還りました。
その時に私の役目も終わったんです。
今ではもう白龍の声も聞こえません。
戦の後、源氏を去り、ヒノエくんと一緒に熊野に行ったのは…」
望美は上げていた手を、ヒノエに向けた。
その手をヒノエが握りしめる。
「この私、白龍の神子でも源氏の神子でもない…
春日望美という、一人の人間なんです!!」

この娘……!
政子の眼が燃え上がった。

「何だと」
「ということは」
「もう龍神の加護はないのか」
「では、熊野が特別というわけでは…」
ざわめきが次第に大きくなる。

とその時、全ての音が消えた。
全ての動きも止まった。
ヒノエの指先も、凍り付いたように動かない。

何…?
どうしたというの?

望美が見上げると、そこには政子の凍てつくような微笑があった。
階の上と下。
二人の女の視線がぶつかり合う。

ひぃぃぃぃぃん………

息苦しくなるほどの威圧感が、望美を押しつぶそうとする。
「ま…政子…様?」

しかしそれは一瞬のことだった。
ざわめきが、途絶えた時と同じように唐突に戻り、ヒノエの手も柔らかくあたたかい。

今のは夢?……それとも……

眼をしばたたいた望美と、その隣のヒノエを 政子は冷ややかな眼で見下ろした。
「お嬢さんも別当殿も、すぐに熊野にお戻りなさい。
先ほども申し上げましたわね。これは命令ですのよ。
そして熊野に戻ってからのことも、忘れないで頂きたいものですわ」
そう言い捨てると、政子は昂然と歩み去った。

「う…うううむぅ…」
副頭領は腹を両手で押さえたまま、大きく呻いている。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



「ふんふんふ〜ん」
景時の鼻歌が、京邸の庭に流れていた。

「兄上、珍しいわね。少しは時間ができたのかしら」
朔が庭に下りてきて、洗濯物を干す景時の隣に立った。

「う…うん、ずっと働きづめだったからさ、
半日だけ、お休みをもらったんだよ」
「まあ、たった半日?」
「でもさ、ちょうどよかったんだよね〜。
その半日が、こんなにいい天気になるなんて」

景時につられて、朔も空を見上げた。
寒い曇天の毎日が続いていたが、今日は透き通るような青空だ。

「いいよねえ、こんな日は。日射しが柔らかくてあたたかくて…。
毎日、こうだったらいいのにね」
顔を空に向けたまま、景時は言った。
かすかな淋しさと苦さの混じったその声に、朔が理由を問おうとしたのと同時に、 景時はあっけらかんとした笑顔で朔を見た。拍子抜けして朔は口をつぐむ。

景時は唐突に話を変えた。
「そういえば朔、望美ちゃんとはいつ会うの?」
「政子様との謁見が終わったら、と文に書いてあったわ。
ヒノエ殿の親戚筋に当たる藤原家で会うことになっているの。
ここで会えればと思ったのだけれど」
「そう………京邸には来てもらえないのか。残念だったね」
「でも、最後に望美と会えるなら、私、どこでもかまわないわ」

そう言って静かに笑った朔に、景時は洗濯物を干す手を止めた。
「じゃあ、望美ちゃんと会ったらすぐに、朔は大原に行くんだね」
「ええ。もうこれ以上引き止めないでね、兄上」
「や、やだな〜、オレ、引き止めたりしてないよ。むしろ…」
「え? むしろ…何なの?」
景時は、しまったといった様子で頬を掻いた。
「あ…まあ…オレもいつまでも京にいられるとも限らないでしょ。
そうなると、朔を京邸に一人にしておくのも心配だから」
「兄上、鎌倉に……」
言いかけて、朔は胸の前で手を組んだ。
「兄上、まさか九郎殿を…?」
景時は両手を挙げて否定する。
「い、いやいやいや、そういうわけじゃないけど…。
だってさ、そんな命令もらってないし」

しかし朔は黙って、真剣な眼で景時を見上げている。 その肩に手を置き、景時は真顔で言った。
「でもね朔、梶原家は鎌倉殿の御家人なんだよ。
朔も武士の家に生まれて今日まで来た。
だから、もしも鎌倉殿から命令が下されたなら……。
この意味は、分かるよね」

朔の大きな瞳に強い光が閃き、すぐにその光は水面に潜るようにして消えた。 だが何も答えず景時に向けた背中が、何よりも雄弁に朔の気持ちを物語っていた。




* * * * * * * * * * * * * * * * * *



六波羅にある源氏の拠点は、日々新しい槌音が響き、 まだまだ大きくなる様子だ。
そこに詰めた武士の数は、かつての平家の時代も凌ぐほど。 彼らの仕事の補佐をし、建物の維持管理やら馬の世話、 食事の用意等のためには、さらなる人数が必要となる。 下人、雑仕女、出入りする人の数も大層なものだ。
そんな中、古くからこの界隈で魚の商いをしている男が 病を患い、若い男を手伝いに雇った。なかなかに 気の利く若者で、商いの飲み込みも早く、ほどなくして源氏の館に魚を運ぶ役目も、 男に代わって引き受けるようになった。

今日も若者は干した魚を台盤所まで届けに入り、 ついでに世間話もしている。
上の者達がいかに口を閉ざそうと、 館の内実が自ずと下の方に知れてしまうのは仕方のないことかもしれない。 食事を摂らぬ者は誰一人としていないのだから。
賓客が来るとなれば、それ相応の材料が調えられる。 人の増減に伴って、仕入れの量も変わる。 館の主立った顔ぶれに変化があれば、 口の端にも上ろうというもの。

軽口を叩き合いながら、若者は周囲をさりげなく見回し、 隅に置かれた見慣れぬ荷に気づいた。

(ほしいい)か…。
若者の眼が光った。

「またいい魚を頼むよ」
「任せて下さい。どうか、いい値で買って下さいよ」
「若いくせに、抜け目がないなあ」
「冗談ですよ。またお世話になりますんで、よろしくお願いします」

笑いながら建物を出ると、若者は裏の通用門へ真っ直ぐに向かう。
まだ日中。人目が多い時に動き回ることはできない。

糒のことが、頭に引っかかっている。
何に備えてのことか。
北の方が鎌倉に戻るための準備にしては、多すぎる。
あれは、かなりの野宿を想定している量だ。 北の方にそのようなことを強いはしないだろう。

それとも、このところ頻繁に出入りしている軍奉行梶原景時のためのものか。
政子護衛の任には、鎌倉から同行してきた別の御家人が就いている。 景時ほどの御家人に与えられる別の任があるとするならば……。

今考えられるのは、九郎義経のこと。

他に際だった変化は見られないが、見過ごしてよいこととも思われない。
僅かな情報からでも、別当殿は的確な判断を下される。

………!
その時若者は、異変を察知した。
瞬時に身をかわして路地に入ると、低い垣に飛び上がる。

かすかに遅れて、小刀が地面に突き刺さった。

尾けられていたか。
向かいの垣に飛び移ろうとした瞬間をねらい澄ましたかのように、 四方から石つぶてが投げられた。 咄嗟に腕で頭を覆い、かろうじて倒れることなく着地した若者を、 地上で容赦ない一撃が襲う。 みぞおちに拳が深々と入り、痛みよりも衝撃に息が詰まった。 気を失わずにすんだのは、鍛錬の賜か。

鎌倉方の危険な集団が暗躍している――
烏の仲間から伝えられていたのは、こいつらか。
だが、こいつらは俺に一撃でとどめを刺さなかった。
ということは……

後ろから首をつかまれ、若者の口に轡が押し込まれた。

「舌など噛まれては困るのでな。お前には、生きていてもらわねばならぬ」
がくりと膝を付いた若者の頭上に、暗い声が漂う。
「もうしばらくの間…だが」

まだ陽の高い六波羅界隈。
烏が一羽消えたことに気づく者は、誰一人いなかった。





次へ




− 3  冬の始まり −

[1. 潜行]  [2. 確信]  [3. 向き合う者]  [4. 名残]  [5. 神子]
[6.隠されたもの]  [7. 別れ]  [8. からくりの一]  [9. からくりの二]
[10. からくりの三]

[比翼・目次へ]

[小説トップへ]


2009.2.10