比 翼

− 3  冬の始まり −

9. からくりの二



副頭領がヒノエに渡したのは烏の羽根。そこには、幾つかの印が血で描かれている。 知らぬ者が見れば、ただの薄気味悪い羽根だ。しかし、描かれた形にそれぞれ意味がある。

「ヤマシギからだね。六波羅を探っているはずだけど」
「はい、商人として厨に出入りしております。
ここ数日姿を消していましたが、何か掴んだようです」

烏には、独自の連絡網がある。 常であれば、ヒノエへの報告に当たるのは、情報の元締めに当たる古参の烏に限られている。
だが、情報は生き物だ。 膠着した伝達方法では、いざという時に遅れや行き違いが出る。 そのために、末端で動く烏がヒノエ自身に直接情報を伝えることもあれば、 例外的に、別当が烏の元へと赴く場合もあるのだ。

届けられた羽根は、ヒノエが烏のいる場所へ大至急足を運ぶよう、依頼するものだった。

その羽根をしばし見つめた後、ヒノエは顔を上げた。
「六波羅か…。こいつは無視できないね」
「はっ」
「副頭領、ノスリ、一緒に来てくれ」
しかし副頭領は、腹を押さえて抗議した。
「ヒノエ様、護衛が少なすぎます」
「間者と会うのに、ぞろぞろ団体で行くのかい?」
ノスリと呼ばれた古参の烏が副頭領に答える。
「他の烏が、隠れてご一緒します」
「う…うむう、頼むぞ」

ヒノエは水軍衆を一渡り見回した。
「いいか、留守居の野郎共、姫君をしっかり守るんだぜ」
「ははあっ!」


しかしその頃、藤原の屋敷を物陰から見張っている者がいた。 景時と、烏を捕らえた者達の一人だ。

「…あ〜、やっぱり行っちゃったね」
ヒノエ達が屋敷を出ていくのを見て、景時は小さなため息をつく。
「あの烏は嘘偽りなく鳴きましたゆえ、当然かと」
「烏が鳴いた…か。政子様が自ら動いて下さったとはね」
「畏れ多き事にて…梶原殿」
「ああ、次に動くのはオレだ」
「我らを使わなくてよろしいのですか」
「騒ぎは起こしたくないんだ」
「しかし別当のいない今なれば、最も確実な方法かと」

軽い口調で話していた景時の声が、ぞっとするほど冷ややかに変わる。
「指揮を執っているのは誰か、分かっているのかな」
「出過ぎました。ご容赦を。我ら、ご指示のままに」

しばしの間があった。やがて、
「行ってくる。後は手筈通りに」
それだけ言うと、景時は乗っている黒馬の腹に軽く合図を送った。 馬はおとなしく、藤原の屋敷に向かい、歩を進めていく。

景時の背を見送った男が合図をすると、潜んでいた男達が、屋敷の四方に散った。

その動きを感じ取りながら、景時は屋敷の表門の前に立った。
――オレが裏切る素振りでも見せれば、後ろから刃が振り下ろされるんだろう。
でも、オレは……後戻りはしない。
オレの仕掛けたからくりは動き始めて…もう、止めることはできないんだ。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



「九郎殿」
塗籠の外から声がかかった。
その改まった調子で、九郎は用向きを理解できた。 予想に違わず、入ってきたのは江間四郎。 六波羅の主だ。

「鎌倉へ護送、との御沙汰が下った。準備が整い次第出立となる。
心して待たれよ」
「承知した」
「それだけか?」
「それ以外に何がある?」

四郎は立ち上がった。そのまま九郎を見下ろし、 息を一つ、ついて言う。
「九郎殿の潔さ、武士として感服している。
せめて、道中が無事であれと祈る」
九郎は両の拳を床につき、軽く頭を下げた。

そのまま四郎は出て行き、しんとした薄闇が戻る。

――潔い?
あのような陥穽を仕掛けた兄上の命ずるまま、
従容として刑に処されることが、 武士として潔いのだろうか。
いや、それは命を無駄に散らせるに等しい。
武士とは、道を貫くもの。 潔さとは、己に恥じぬこと。
俺は、己に恥じぬ道を貫く。

九郎は一挙動で立ち上がり、音もなく宙へ飛び上がった。 くるりと前方に一回転すると、寸分の揺るぎもなく着地する。 間をおかず、今度は後ろに飛び、両手をついて回転する。
狭小な場所でありながら、無理のない身ごなし。呼吸を乱すこともない。 幽閉の日々にあっても、その動きに衰えはない。
「その時」に備え、鍛錬は欠かさず続けてきたのだ。 剣の稽古はできずとも、腕の力、足の力を維持するように。
これから向かうのは戦場。瞬時の判断に応える身体でなければならない。

伏して時を待ち続け、それは目の前まで来た。

――いつでも来い! 弁慶。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



寒風の吹き抜ける中を、ヒノエ達は京の町外れへと急いだ。 東の山の麓にひっそりと建つ、寂れた社の前で馬を下りると、 そのまま奥へと進んで行く。 細い道の両側には、葉を落とした冬木立の斜面が続いている。

「別当様!」
付き従っていた古参の烏が叫んだ。同時に、ヒノエは後ろに飛ぶ。 それを追って、幾本もの矢が射かけられた。
「罠か…」
長い櫓を振り回して、矢を叩き落とした副頭領がうなる。

「ろくな護衛も付けずにやって来たようだな」
頭上から暗い声がした。
高い木の上に、男が立っている。 その横の枝には、若い男が逆さに吊るされていた。 鬱血した顔は赤黒くなり、鼻からぽたりぽたりと血が滴っている。
「ヤマシギ!」
ノスリが吠えた。

「ほう、こいつはそう呼ばれていたのか」
男は刀を抜いた。
「名は明かさなかったが、別当の呼び出し方は素直にさえずった。
可愛い鳥だな」

「何だと!」
ノスリは叫んだ。間者として、命に代えてもしてはならぬことだ。それを…烏が…。

ノスリの動揺ぶりに、面白そうに口を歪めた男は、いきなり刀を振りかざした。
「というわけで、こいつはもう用無しだ。返すぜ!」
言うなり、ヤマシギを吊した縄をブツリと断つ。
「ヤマシギ!」
真っ逆さまに落下する若者にノスリが駆け寄るより早く、 副頭領の手から錘を付けた縄が飛んだ。 縄はヤマシギの身体に巻き付き、びんっ!と張ったと同時に、 副頭領が手元にたぐり寄せる。 どさり、と縄と共に飛んできたヤマシギを受け止めると、 副頭領はそっと枯れ草の上に横たえた。
「ひでえことしやがって…」
怒りで顔を紅潮させ、副頭領は木の上の男をにらみつけた。

「間者に同情か? 余裕だな」
男の合図で、再び矢の雨が降る。射手は五人。狙いは正確だ。
「ヒノエ様! お逃げ下さい!」
しかし、後退したヒノエ達の前に、どこから現れたか、 さらに三人の男が立ち塞がった。
散開して攻撃をかわす。 五人から矢の届く範囲にいては不利だ。 ヒノエは、一番端の射手がいる木の下を駆け抜け、死角に身を寄せた。
反対側の木で、ノスリが同じことをしている。 副頭領は追ってきた男達相手に櫓を振り回して暴れている。 めちゃくちゃに動いているように見えるが、その動きは確実だ。 男達がヒノエに近づかぬよう、巧みに牽制している。

ノスリが死角から姿を現した。ヒノエの木の男が、そちらに弓を向けた。 その瞬間、低い枝に飛び上がったヒノエの手から、動きの止まった男に向かって小刀が飛ぶ。 腕をやられた男が弓を取り落とし、自分も木から落下する。
その間にノスリは隣の木へと移動し、下の大枝にぶら下がって大きく揺らした。 足元の揺らいだ男に向けてノスリは立て続けに礫を投げた。 そのノスリに射かけられた弓を、副頭領の振り回した縄が弾く。
木から木へ、ヒノエとノスリがめまぐるしく走り、樹上の射手を 翻弄し、その中央で、仁王立ちになった副頭領が地上の男達の動きを抑える。

「これほどやるとはな。だが、ここまでだ」
ヒノエ達を上から見ていた男が呟いた。 断ち切った縄を見やり、弓を構えた男達に合図する。 男達は一斉に地上へと飛び降りた。
それと同時に、ヒノエが指をぱちんと鳴らした。
「もういいぜ!」
潜んでいた烏が一斉に姿を現す。 ヒノエ達が逃げ回るふりをしている間に、 周囲を取り囲んでいたのだ。

「ちっ…いつの間に…」
「伏兵がいたのか」
ヒノエは、すっと退がっていく。
「奥の手は、最後まで隠しておくってね」



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



「お話中、失礼いたします」
屋敷の家人が、望美と朔のいる部屋の外から声をかけた。
「なあに?」
「梶原景時殿が、おみえになっております。朔殿に急ぎのお話があるとか」
「景時さんが?! すぐにお通しして。ううん、私迎えに行く!」
しかし家人は言った。
「梶原殿は、入ってすぐの小部屋でお待ちです。
すぐに戻らなければならないからと…」

二人は顔を見合わせた。
「何だろう。私も一緒でいい?
景時さんとはずっと会ってないし」
「もちろんよ望美。あなたと会えたら、兄上もきっと喜ぶわ」

しかし、二人を待っていた景時には、再会を喜ぶような雰囲気は微塵も感じられなかった。

「景時さん、お久しぶりです」
「や…やあ、望美ちゃん、本当に久しぶりだね。元気そうで、何よりだよ」
だが、その言葉とは裏腹に、景時の眼は笑っていない。
嫌な予感を抱きつつ、朔が尋ねる。
「兄上、急ぎの用というのは?」

景時は望美から眼を背けるようにして答えた。
「九郎が鎌倉に護送されることになった。
それで、オレがその役目を仰せつかったんだ」
「ええっ! 九郎さんが鎌倉に?!」
「そんな…それでは九郎殿が…」
景時はそれに答えることなく、早口で続ける。
「急に命が下ってね。これからすぐに出立しないといけないんだ。
ごめんね、朔、見送りに行けなくて」

呆然として、朔は言った。
「兄上、京邸の人達には…」
「ああ、ここに来る前に寄ってきたよ。
朔のことは、留守居の郎等に頼んできたから、心配要らない。
ちゃんと大原のお寺にも送っていくようにってね」
「そんな…そんなことじゃないの……私…」

「景時さん! 九郎さんはどうなるんですか?!」
望美の脳裏に、初めて時空を渡った時の悪夢が蘇る。 九郎さんは鎌倉に行って…そして……。
今は、あの「時」とは違う。でも頼朝さんは、 あの時も、まるで罠にかけるようにして九郎さんを罪人にした。 それは今と同じ。
だったら…また…。

「全ては頼朝様がお決めになることだ。
オレがとやかく言うことなんてできないよ」
景時の言葉に、望美は思わず叫んだ。
「だめ! 鎌倉に送ったら…九郎さんは!」
「オレに、止めろと言うの?」
「だって、景時さんは九郎さんの仲間でしょう?!
九郎さんを死なせたくないでしょう?」

景時はすっと立ち上がった。
「話は終わりだ。オレは行くよ」
「兄上!」
「景時さん!」

景時は、冥い眼で望美を見下ろした。
「望美ちゃん、少しは自分の立場をわきまえてくれないか。
熊野が源氏の内部に口出しするなんてことは、できないんだよ」
「そうじゃない! 九郎さんも景時さんも、私には大切な仲間なんです!」
景時は冷ややかに言い捨てた。
「仲間? 君はもう源氏の神子でも白龍の神子でもない。
自分でそう言ったんだよね。
それなのになぜ、オレに指図するのかな」
「兄上!」
朔が立ち上がり、怒りに燃えた眼で景時を見た。
「なぜそんなに酷いことを言うの! 望美に謝って!」

景時は大きく息をつくと、口元をかすかに歪めて吐き出すように言った。
「悪かったね、少し言い過ぎた」
「景時さん…、私こそ…すみません……」

景時は二人に背を向け、扉に手をかけた。
「時が流れれば…何もかも変わるんだよ。
それに抗っても、溺れるだけだ」
扉を開き、振り返る。
「弁慶の診療所も、今度こそ閉鎖される。
今日の夕方までに京を離れて西国に行くようにって、
弁慶に命が下りたんだ」
「そんなに急に…」
景時は自嘲するように言った。
「弁慶は危険人物だよ。野放しにて、鎌倉に向かわれてもね」

二人の目の前で扉が閉じられ、その向こうから景時は言った。
「望美ちゃん、かつての八葉として、一つだけ忠告する。
君は何もしちゃいけない。
自分のことだけを…考えればいいんだよ」
「どういうことですか、景時さん」
「兄上!」

答えは返らず、足音だけが遠ざかっていく。


――どうしたら…どうしたらいいんだろう。
何もできないの?

何もできないまま、九郎さんが鎌倉に送られたら、
あの時と同じことが繰り返される。

そして、景時の言葉を思い出して望美は総毛立つ。

弁慶さんが、もしも九郎さんを助け出したとしたら……
その後、落ち延びる先は……

平泉。

そこでは、私の世界と同じ歴史が、繰り返されるのだろうか。

どちらの「時」を辿っても、その先に待つのは悲劇…だけなのだろうか。





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− 3  冬の始まり −

[1. 潜行]  [2. 確信]  [3. 向き合う者]  [4. 名残]  [5. 神子]
[6.隠されたもの]  [7. 別れ]  [8. からくりの一]  [9. からくりの二]
[10. からくりの三]

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2009.3.5