比 翼

− 3  冬の始まり −

7. 別 れ



午後の日射しが長く伸びて、部屋の内まで明るく照らしている。 朔は、きれいに片付いた自分の部屋を見回した。

間もなくここを去り、二度と戻ることはない。 身の回りのものも、何もかも置いていく。 俗世を離れた静かな祈りの生活に、 余計な物は要らないのだ。 この身一つ……それだけを持っていけばいい。

しかし朔は、扇を手にしばし逡巡している。 肌身離さず持ち歩いてきた扇だ。 数え切れないほどの思い出が詰まっている。 戦の間もいつも朔の懐にあり、 望美に舞を教えた時に使ったのも、この扇だった。

これだけは、持って行ってもよいかしら。

しかしそのこだわりこそが、仏道を歩む者の障りとなる、と朔は思い返す。

置いて行かなくては…。
扇一つで、今になって心が揺れるなんて、だめね…私。

扇を開き、冬の陽にかざす。
心に楽を描き、朔は一差しの舞を舞った。

見る者のいない舞。
だが朔の心には、一つの姿がある。
丈高く、長い黒髪と深い色の瞳。

あなたが……静かな思い出になる日が、いつか来るのかしら…。

高く澄んだ冬の空は何も答えない。

そうよね。これは、私が乗り越えなければならないこと。
答えを求めてはいけないわ。
自分が答えを出さなくてはならないのですもの。
そのために、私は寺に行くのですもの。

舞を終えると、朔はそっと扇を閉じて文机に置く。
扇袋を取り出そうとした時、扇から、ぱきん…と小さな音がした。
見れば、要に近い骨に、亀裂が走っている。

戦の時でも、このようなことはなかったのに……。

空に一筋の雲がよぎり、すっと陽が陰った。
朔の心に漠然とした不安が広がっていく。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *




泰衡が皮肉混じりの口調で言った。
「フッ…何やら賑やかな集まりだったな」
「刺激的だったね」
「だが、諸国の趨勢、国守の顔も掴めたのは収穫だ」
「収穫はそれだけかい?」
そう言って、ヒノエはからかうように続けた。
「それにしても、あんたがあれほど言が立つとは思わなかったよ」
泰衡は鼻先で笑う。
「必要な時に必要な事を伝えるための言葉なら
不自由なく使えるつもりだが?
どこかの軽々しい男とは一緒にしないでほしいものだ」

「ふうん、そんなに軽いヤツを知ってるのかい」
「ああ。だがその男は、相手から話を引き出す術を心得ていたようだ。
俺にはそちらの方が意外だった」
「交渉事は、相手にしゃべらせるに限るよ。
こちらが退くと、かさにかかって北の方は言いつのっていたからね。
優位に立っていると思えば思うほど、雄弁になるんだ。
おかげで、確信が持てたよ」

泰衡の片眉が動いた。
「確信…だと?」
ヒノエは片頬で笑ってみせる。
「ああ、そうだよ。一番確認したかったことだ。
鎌倉の熊野攻めは…無い」

泰衡の顔が険しくなり、ヒノエは真顔に戻った。
「奥州にとっては、好ましくないんだろうね」
「他国の不幸を喜ぶほど狭い了見はしていないが」
「でも、鎌倉にとっては、熊野と同じ…いやそれ以上に
目障りな国があるんじゃない?」

言外の意味は、望美にも分かる。 熊野でなければ、奥州…ということだ。
背筋がうそ寒い。
――私の世界の歴史と同じ事が起きるのだろうか。 今私の目の前にいる泰衡さんは、平泉もろとも自滅してしまうのだろうか。
……とてもそんな人には見えないけれど。

泰衡は低い声で言った。
「鎌倉には、熊野攻めの決定的な口実は無い。
代わりに、熊野と国守達を分断しようとしていたな。
そこにつけこんでお前の言質を取りたかったのだろうが」
「ああ、だからあえて逆らわなかったよ。
よほどの理由が無ければ、熊野攻めの院宣なんて下りないからね。
何しろ熊野は、歴代の天皇、法皇がこぞって参詣に訪れている地なんだから」

「大した自信だな。しかし根拠はその程度か。
鎌倉が本気になれば、院に脅しをかけるくらいは、平気でやるはずだ」
「いいや、平家との戦の時と同じ理由がある。
西に向かって兵を動かすと、鎌倉は奥州に背後を突かれるだろう?
頼朝が戦を弟たちに任せて、自分は動かなかった理由の一つさ。
頼朝自身が参戦しなくても、兵を出せば鎌倉は手薄になる。
今なら西国の所領に出兵させることはできるんだろうけど、
旧平家に与していた国が多いからね。
疑り深い頼朝は信用できないのさ」

泰衡の眉間の皺が深くなった。
「お前に熊野を出るなと命じたのは、その逆の意味もあるということか。
熊野水軍の動きを止めておけば、
奥州攻めに際し、熊野に邪魔されることはなくなる」
「そういうことだろうね」

あの場でのやりとりの裏で、ヒノエくんも泰衡さんも、こんなにいろいろなことを 考えていたんだ。
望美は小さくため息をついた。
控えの間で、とぎれとぎれに聞こえてくる声に耳を傾けていた時には、 緊迫した言葉の応酬に、胸がきりきり締め付けられるようだった。 でも、二人はその言葉の裏を読み、相手を推し量り、 堂々と渡り合っていたのだ。

私のせいで熊野が…ヒノエくんが責められて…それが辛くて、 そのことしか考えられなくなっていた。 そっと控えの間を抜け出して、誤解を解こうと政子様を待っていたけれど…。
やっぱり私……邪魔しちゃったんだ。 せっかく二人ががんばっていたのに……。

後悔の涙がじんわりとこみあげるが、眼をごしごしこすって涙を拭く。
ここで泣いたら、本当に馬鹿みたいだ。 これから、私の失態の後始末について話し合うに違いない。 少しでもいい方向になるように、私も協力しなくちゃ。

しかし、二人の話は思わぬ方向に進んだのだった。

ヒノエが声を潜めて言った。
「で、どうだった? 鎌倉の北の方は」

???
泰衡さんが政子様をどう思うかってこと?  お見合いじゃないんだし、どうしてそんなこと聞くんだろう?
望美はきょとんとして泰衡に眼を移す。

眉間の皺はそのままに、泰衡はゆっくり眼を閉じ、苦々しげな声で答えた。
「頼朝は、とんでもない雌狐を味方にしているようだ」
ヒノエの眼が光る。
「やっぱり、そうだったかい?」
「お前が文に書いてきた、あの梵字のことか」
「そうだよ」
「フッ…そのつもりで探ってはみたが、
あの場だけでは、正体までは分からん」
「なら、何が分かったんだい」
「あの女の中には、途方もないものが潜んでいる。
それだけは間違いない」

途方もないもの……そう思った時、
「あ…だったらあれは、気のせいじゃなかったんだ!」
望美は思わず大きな声を出してしまった。

「何のことだい」
「あれとは何だ」
ヒノエと泰衡が同時に望美を見る。

二人の視線を受けて緊張するが、 望美は深呼吸を一つすると、気持ちを落ち着けて 政子の去り際に起きたことを話した。

望美には龍神の加護が無いのか…と、 国守達の騒ぎが大きくなった瞬間、全ての動き、全ての音が止まったこと。
そして、階の上に立つ政子から感じた異様なまでの威圧感。
音もなく動きもない世界に動じる気配もなく、凍てつくような笑みを浮かべていたこと。

「ほんの一瞬のことで、何が起きたのかよく分からなかったんだけど…」

望美の話に、泰衡の眼に初めて驚きの色が浮かんだ。
「時が凍った…か」
「オレ達も凍ってたのかい。あまりいい気持ちじゃないね」
「気のせい、で片付けられることではないだろう。
むしろ、あの梵字と照らし合わせるなら、納得がいく」
「賛成だね」

「フッ…いくら間者に調べさせても分からなかったことが、
このような形で露わになるとはな…」
「自分で出向いてきてよかったろう?」
「ここで北の方が尻尾を出すなど、偶然のことだ」
「国守達の目の前で、予想を超えることばかりが重なったんだよ。
最後の最後で、怒りに任せて思わず…ってとこだね」
「ここにいる神子殿がいきなり現れた時には、何とも無謀なことと思ったが、
このような収穫があったなら、結果としては悪くない。
さすが神子殿、とでも言っておこうか」

結果はよかった…と言ってもらえた。
少しほっとして望美はヒノエに笑顔を向けた。 しかしヒノエの表情は変わらず、望美の方を見てもいない。
望美は再びがっくりと肩を落とす。

泰衡は薄く笑って続けた。
「頼朝も北の方も、まさかここまで読まれるとは思っていまい。
それがこちらにとっては、僅かばかり有利ということか」
ヒノエはぱちんと指を鳴らした。
「僅かばかりなんて、小さく評価しすぎじゃない?
頼朝が隠し持ってる戦力をあぶり出したんだ。すごい成果だよ」

ヒノエの言葉に、泰衡は吐き捨てるように言った。
「戦力か」
「そう、表だって使えない戦力だよ」
「だが、有効に使えば」
「国一つ滅ぼすことだって、できるだろうね」
泰衡の眉間の皺が、倍に増えた。
「分からぬ。それがなぜ、頼朝に従って動いているのだろうか」
「決まってるだろ。北条政子は元々は人間なんだ。
女が男に惹かれる…って、フツーのことじゃない?」
「お前が言うと、普通のことでも癇に障る」
「いいよ、野郎に気に入られようなんて、思ってないから」

しばし、沈黙が下りた。
望美は居心地が悪くてもぞもぞするが、 二人の沈黙の理由は分かる。
途方もない、という北条政子の力が、 熊野か奥州に向けられることがあるのだろうか…と考えているのだ。

次の言葉の続かぬまま、泰衡は立ち上がった。
「ではこれで失礼する。世話になったな、藤原湛増殿」

別れの言葉だ。
これ以上、ここで言を尽くしても得るものはないのだから。

「御館によろしく。親父が会いたがっていると伝えてくれ」
「承知した。もしも会えたなら、その時には世辞でもよいから、
奥州の酒に驚いたと言ってやってほしい」
「ああ、いいよ。たぶん最初の一言は、『もっと呑ませろ』になるはずだ」

奥州国守と引退した熊野別当が、束の間、息子達の口を借りて言葉を交わし、別れた。

傾いた金色の日射しを受けて、泰衡は渡殿を去っていく。 鵯が一羽、思い出したように木の上で鳴いた。

泰衡の足音も鵯の鳴き声も消えた後に、再び静寂の時が訪れる。

ヒノエとやっと、二人きりになった。
今度こそ、ちゃんと謝らなくては!
望美はヒノエに向き直った。
顔を上げると、澄んだ瞳が望美をじっと見ている。

「ごめんなさい…」
望美が口を開くのと同時に、ヒノエの唇が震えた。

次の瞬間、望美はヒノエの胸に激しくぶつかった。 ヒノエの腕が、きつく望美を抱きしめている。

「望美……望美……」
望美の顔に頬を寄せて、ヒノエは繰り返す。
腕の力が、苦しいほど強くなる。

「お前が無事で……よかった」

ヒノエくん…

「オレの……姫君。
カッコ悪いけど…お前には本当のことを言うよ。
今まで、気持ちを抑えるのが精一杯だった…」

え……
怒っていたから…じゃなかったの…?
だから、私を見なかったの…?
だから、素っ気ない返事ばかりしていたの…?

「お前が気落ちしてるのは分かってたのに……。ごめん」

ヒノエくんは、堀川からここまで、
熊野別当として、いつも通りに振る舞わなくてはならなかった。
泰衡さんとも、話し合いをしなくちゃいけなかった。

ヒノエくん…、辛かったんだ。
それでも、やるべきことは何一つおろそかにしなかった。
それなのに私、自分のことしか考えていなくて…。

「ヒノエくん、謝らないで。だって、悪いのは私で…」

ヒノエが腕を緩めた。
望美が見上げると、そこにはいつものいたずらっぽい顔がある。
でも、それに甘えてはいけない、と望美は思う。

「あんなこと、もう二度としない。
ごめんなさい、ヒノエくん」
ヒノエは笑って片目をつぶってみせた。
「オレのこと、心配してくれたんだろう?
それを悪いなんて、言えないさ。
お前は、お前のままでいいんだよ、望美」

「でも私、大変なことをしちゃったんだよね」
ヒノエは声を潜めた。
「あの場で捕らえられても仕方なかったんだよ。
その上に、あの北の方がとんでもない力を持っているなんてね。
命が縮んだ気分だよ」

「そ…そうなんだ…」
「ねえ、縮んだ分のオレの命、もう一度元通りにしてくれる?」
「え?」



泰衡が渡殿を鍵の手に曲がると、巨躯で通路を塞ぐようにして、水軍の副頭領が 立っていた。前屈みになって腹を押さえている。 ヒノエの出した人払いの命令に従い、 誰も奥の間に近寄らぬよう見張っているのだ。

副頭領は泰衡の姿を見ると、ほっとしたように言った。
「お話は終わりましたか」
「ああ」
「では、茶菓など用意させますので、ご休憩を」

どこぞの別当には、もったいないほどの気配りだ、と 泰衡は内心で苦笑する。
「いや、必要ない。私はこれから平泉よりの一行と行動を共にする」
副頭領は、合点がいったように頷いた。
「では、お送り致しますので、直ちに馬のご用意を」
「迎えが来ることになっている。そろそろ到着の頃合いだ。
今まで特段の世話になったこと、感謝する」
「もったいないお言葉でございます」

巨躯を真横にして、副頭領は泰衡を通した。そして、「では…」と言って奥へ行こうとする。

余計なお節介かもしれぬが…と思いながらも、 副頭領に同情の念を禁じ得ず、泰衡は声をかけた。
「どこへ行く」
「お話がお済みのようですので、ちょっと頭領に…」
「人払いの命令はまだ解かれていないはずだが?」
「は…そうですが…」
「急ぎでないなら止めておけ。
この先から、何やら春のような気が漂ってきているぞ」

副頭領の足がぴたりと止まり、草の葉のように青かった顔色が、 頭のてっぺんまでみるみるうちに赤くなった。



こうしてそれぞれの目的を終え、行動を共にしてきたヒノエと泰衡は、 さしたる感慨も交えぬままに別れた。
熊野と奥州、この後に二国を襲う嵐を思えば、 短い時間ではあったが、彼らが会ったこと自体、 奇跡と言えるのかもしれない。

嵐の時は刻々と迫っている。




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− 3  冬の始まり −

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[6.隠されたもの]  [7.別れ]  [8. からくりの一]  [9. からくりの二]
[10. からくりの三]

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2009.2.21