比 翼

− 3  冬の始まり −

6. 隠されたもの



九郎が六条河原で処刑されることはない――

最後の患者を見送ると、弁慶の顔は薬師から軍師のものへと変貌した。 意識してのことではない。診療所の扉を閉ざした瞬間にはもう、患者達には 見せることのない、鋭い表情になっているのだ。
今日は患者に紛れて、仲間が情報を持ってきた。 それらを吟味し、これからの策と練り合わせなければならない。

ごろごろと、小屋の中には絶え間ない音が続いている。 小屋の隅で薊が薬研を転がし、薬草をすり潰しているのだ。
その音を聞きながらも、弁慶の思考はめまぐるしく動く。

京では、貴族から街人まで多くの人々が九郎を支持し、慕っている。 九郎が捕縛された今でさえ、それは変わっていない。 彼らの眼前で処刑などしようものなら、人々の反感を募らせるだけだ。

一番警戒しなければならないのが、幽閉された六波羅で「事故」が起きること。 しかし、ただでさえ堀川での一件に疑惑の目が向けられている中、 当の九郎が世間の目の届かぬ所で命を落としたとなれば、 疑惑は一気に確信へと変じかねない。

もちろん、どちらの可能性も、完全に否定はできない。 だから万一に備えての計画は立ててある。

しかし一番の可能性は、鎌倉への移送。
京の各所に身を潜めた仲間達も同じ意見だ。

移送経路は様々に考えられるが、 罪人を送るために、あえて険路を行くとは思えない。 源氏の捕虜となった平家の武者が送られたのと同じく、 逢坂の関、不破の関を抜けて海道を辿り、 九郎も鎌倉へと行くのであろう。

――整えられた街道では、僕たちに与えられる機会は僅かしかない。
九郎を救い出したとしても、すぐに手配が回り街道は封鎖される。
山道を抜けて逃げるとしても、多くの追っ手を、どう振り切るか……。

そこまで考えて、弁慶はふと、苦い笑みを浮かべる。

これまで、あまりに都合よく来過ぎている…と。

所払いを言い渡された九郎の配下の者達。
彼らは京に身を潜め、弁慶と連絡を取り合っている。 今以て苛烈を極めている平家の残党狩りを思えば、 これはほぼ野放しに近い扱いだ。
そして、他ならぬ弁慶自身のことがある。
診療所の閉鎖までに時間的猶予が与えられたのは、 病人や怪我人のため…などとは、 源氏側のきれいな口実に過ぎない。 本当のところは、弁慶に自由に動く時間を与えるためではないだろうか。

――僕たちが準備を整えて九郎奪還に赴き、 それが失敗に終わったとしたなら、 全員がその場で斬り捨てられたとしても、鎌倉方は、何の責めを負うこともない。
そして、もしも僕たちが九郎を救出できたならば…… その後は、堂々と全国に九郎追討の命が出ることだろう。

つまりは、どちらに転んでも鎌倉は益を得、九郎に冤罪を晴らす手だてはない。 それでも、みすみす鎌倉に九郎を送ったなら、 そこから先はもう無いのだ。 ならば、たとえ一筋でも、生き延びる希望の残る道を選ぶしかない。

馬の手配、偽の通行証等々、 金を商っている昔なじみの男を通じて手配は済んでいる。
熊野から入手した金は、その他にも、潜伏している者達への援助、 六波羅に出入りする下男の買収などに使われ、もう残り少ない。

だが今日聞いた話では、間もなく政子は鎌倉へ戻るという。 となれば、その時は近いのかもしれない。
準備を整え、伏して待つ日々は、 戦端を開く鏑矢の音を待つ時間に似ている。

半蔀を上げて、外を見る。 日没から時間が経ち、薄曇りの空に月はない。 時を告げる鐘の音が、耳に届く。

そろそろ頃合いかもしれない。
弁慶は小屋の隅に畳んで置いてある外套に手を伸ばした。
と、その隣に座っていた薊が、薬研を動かす手を止め、外套を取って弁慶に手渡す。

「ありがとう、薊さん」
にこやかな笑顔の弁慶に、にこりともせず薊は言った。
「急ぎか?」
「いいえ、こればかりは見張りの武士の動き次第ですから」
「ならば、今帰った患者の煎じ薬の調合を教えてほしい」
「ああ、それなら…」
弁慶の挙げた薬草を復唱し、「分かった」薊は短く答えた。
そして、はっと思い返したように言った。
「長引きそうなのは、朝方来た女童の怪我か…。
傷口に塗ったのは何だった?」

弁慶は口をつぐみ、薊を見た。
薊は黙って弁慶を見上げ、答えを待っている。

「まだ傷が治りきっていない君に、忙しい診療所を手伝わせてしまって
本当に申し訳ないと思っています。
だから、そんなに気を遣わないで下さい」
そう言って弁慶は慣れた手つきで外套を羽織った。

「行くのだろう…病人を置いて」
薊が、何の表情もない声で言う。
「仕方ありません。ここを閉鎖するように命令が下っているのですから」
「違う。源氏の決めた期限など、守る気はないはずだ。
お前がここを去るのは、お前が軍師に戻る時なのだろう」

外套の留め具にかけた弁慶の手が、少しだけ止まる。

「それが今日か明日か、もっと先かなど、私には関係ない。
だが、いきなり置いて行かれた病人はどうなる。
せめて私に、重い病の者に渡す薬の調合くらい、教えていけ」

弁慶は声を潜めて言った。
「そういうことは、言葉にしない方がいいですよ。
見張りが近くにいるかもしれない」
「分かった」
薊はまた薬研に向かう。まだ傷の癒えぬ側は、腕に力が入らないようだ。 身体を軸受けに預けるようにして、重い丸石を動かしている。

その背に向け、弁慶は言った。
「僕は何も言わなかったはずですが…」
「見張りの目を盗んでは、暗い夜を選んでここを抜け出している」
「それは曖昧な根拠だと思いますよ」
「私の曖昧な言葉だけで堀川に飛んでいったのはお前だ。
九郎義経の軍師が、おとなしく鎌倉に従うはずがない」
「ふふっ、これは言われてしまいましたね」

薊の後ろ姿が、固く強張った。
「お前の眼は爛々と光って……兄上とそっくりだ」
行きかけた弁慶が足を止める。

「辛酸をなめながら、兄上がなぜ不幸に見えないのか、
不思議でならなかった。
熊野に仕掛けると決めてからは、楽しげにさえ見えた。
なぜなのか…私には分からなかったが…」
薊は手を止めた。
「やっと、分かった。兄上もお前も、童だ。
とうに日暮れが来ているのに、
我を忘れて遊び呆けている童と同じだ」

弁慶は静かに答えた。
「きっと…そうなのでしょう。
でも、まだ日暮れは来ていない。
それを見誤ったら、僕は軍師失格です。
……病人を置いていく時点で、薬師はとうに失格ですが」

踵を返そうとした時、薊は動く方の腕を伸ばし、外套の裾を掴んだ。
頑なに視線を下に落としたまま、背中だけが震えている。
弁慶はその痛々しい背中を、黙して見つめた。

偶然がもたらした束の間の縁だ。 堀川強襲の夜に、鴨の河原で倒れていた娘。 彼女のもたらした言葉ゆえに、九郎は命を長らえた。

鎌倉にとり、この先へと動く時代の中で、その意味は大きい。 もちろん、弁慶自身にとってもだ。
偶然と言うには、大きすぎる結果。 まるで、時に意志があるかのように。

だが、時の意志を伝えた娘は深傷を負い、動くこともままならなかった。 行く当てもなく、正体を知られれば命の危うい娘を 診療所から追い出すことなど、できはしない。手当をし、匿った。
傷が快方に向かい、少し動けるようになってからは、娘は 黙々と弁慶の手伝いをしてきた。せめてもの礼のつもりなのだろう…と 思っていたのだが。

このまま九郎が移送されれば、弁慶は何も言わず姿を消すつもりだった。
自分を頼ってくる人々を置き去りにし、 戦の前に犯した大罪、戦場で重ねてきた罪の上に、さらに罪を重ねて、それでも行く。

だからせめて、この娘には何も残さずにいたいと思っていた。
だが、弁慶にとってはほんの短い間でも、娘の心には長過ぎた時間だったのかもしれない。

弁慶は膝をかがめ、伸ばした薊の手を両の手で包みこむと、そっと外套から離した。 細い肩がぴくんと動く。

「思い出は…少ない方が、いいんです。
その方が、ずっと楽に生きられますから」

降り積もる思い出は、積み重ねる罪、重き荷。
全てを背から下ろして楽になることなど、僕には許されないけれど。

薬草を入れた棚を動かすと、その後ろに低い隠し戸がある。
くぐり抜けて出た先は、蘆の枯れ草の中。 見張りが所在なげに橋から河原へと行き来しているのを確かめる。
しばし様子を探った後、 鴨の川音を横に聞きながら、弁慶は蘆の中の黒い影となって河原を抜けた。

何とたやすく、監視の目をごまかせることか…。
見張りといっても、診療所に踏み込んできたこともないのだから。

冷たい夜気に、息が白い。
弁慶は月のない空を見上げた。
――僕たちは、鎌倉の掌の上で踊っているにすぎないのかもしれない。
でもたとえ、罠の中に飛び込むとしても……絶対に退きはしない。

暗い小屋の中、まだ疼く傷口を押さえ、
「楽に生きる……他人には…そうせよと言うのか」
小さく呟く薊の声は、夜陰を走る弁慶に届くはずもなかった。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



六条堀川からの帰途、ヒノエはほとんど口を開かなかった。
望美がちらりとヒノエの横顔を盗み見ると、堀川館にいた時と同じく、 かすかに笑みを浮かべたいつもの表情がある。
でも、常ならば、望美の視線にすぐに気付いて、 いたずらっぽく笑ってみせてくれたり、ウィンクを返してくれるのだが、 今日に限っては、ヒノエの眼は遠くを真っ直ぐに見据えたままだ。

やっぱり、勝手なことをしちゃったから怒ってるんだ……。
副頭領さんは、まだ胃を押さえて目を白黒させているし。

つい先ほど政子を相手に一歩も退かなかったというのに、 今の望美はがっくりと肩を落として、しょんぼりしている。

いつもと変わらないのは、泰衡ただ一人。 とはいえ、眉間に縦皺を刻んで不機嫌この上ないように見えるのが 通常なのだから、供をする者達にとって、あまり慰めにはならない。 行きは徒だったが、帰りは馬上の人となっているので、 足並みを揃えてあげたり、具足が当たったりしないように気を遣わなくてすむので、 ほっとしてはいるのだが。

というわけで、熊野の一行はひどく静かに宿所へと戻った。


邸に入るなり、ヒノエは人払いをした。 そして泰衡に目配せすると、望美の手を掴み、三人で奥の間へと入る。

泰衡さんがいるけど、謝るなら早い方がいいよね…。
そう決心して
「ヒノエくん、私…」
と、言いかけた望美の言葉を、ヒノエは軽く手を振って制した。
「話なら後でね、姫君。
それより今は、泰衡と大事な話があるんだ」

ヒノエらしからぬ素っ気ない答えに、望美の胸がズキンと痛む。
……本当に…怒ってるんだ、ヒノエくん。

だったらせめて、二人の話を邪魔しちゃいけない。
「あの、それじゃ私、席を外してるから」
「その必要はないよ。オレがお前をここに連れてきたんだから」

確かにその通りだ。こうなると、逆らってまで退席する理由がない。
望美は二人から少し離れて座った。

しん…と静まりかえった部屋の中、午後も遅いというのに 鳥の声も聞こえてこない。 火の気のない広い部屋に、冬の冷たい外気がしんしんと染み込み、 望美はかすかに身震いした。



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2009.2.19