8. からくりの一
したたかに殴られた全身が、痛む。
目隠しをされているために周囲の様子は分からないが、今は
人の気配がない。捕らえられた若者は、後ろ手に縛られた体勢のまま息を整え、
痛みの箇所を確認していく。
これなら、まだ動ける。機を見て縄を抜ければ、
逃げることもできるだろう。
だが同時に、なぜまだ自分が動けるのか…という疑念がある。
自分を襲った時の敵の鋭い動き、烏に勝るとも劣らぬ速さは、
恐るべきものだった。そのような者が、
尋問相手に手加減を加えるとは思えない。
捕らえた者から答えを引き出すために、
危険なやり方、汚い方法を使うことを躊躇うはずなどないのだから。
それを考えると、あまりに手ぬるいのだ。
彼らが執拗に答えを強要したのは、どこの手の者か、
なぜ六波羅を探っていたのか、という通り一遍のことだ。
しかも、何も答えぬと分かっても、そのままこうして生かしている。
若者の疑念は、一つの結論に達する。
――彼らは、私が烏だと知っているのではないか。
烏が口を割らぬことは、とうに承知のはず。
恐ろしいのは、それを利用されることだ。しかし、最後まであきらめることはならない。
烏を捕らえたということは、即ち、熊野に敵対する意志がその背後にあるということなのだ。
六波羅からの帰りを待ち伏せされたからには、
背後は源氏…である可能性が高い。
若者は、自分に言い聞かせた。
――このような状況下でも、できる限り探るのだ。
たとえ僅かな情報でも、別当様の元に集まれば、確かな力…
我が故郷、熊野を守る力となる。
万に一つでも、ここから逃げられるとするならば、自分の知る限りを届けなければ…。
それが、烏の役目だ。
その時若者は、扉が軋む音を聞いた。
続いて、衣擦れの音、そして雅な香が漂い来る。
忍びやかな足音がその後ろに従っている。
女? しかも、身分のある女がこのような所に…?
床に伏した若者の頭上で、女の声がする。
「まあ、ずいぶん痛めつけましたのね」
恐ろしがっている様子など、その声には微塵もない。
いや、むしろ面白がっていると言うべきか。
何者だ…。
若者は耳をそばだてた。
「捕らえる時に暴れましたので、少々…」
暗い声が白々しくうそぶいた。先刻聞いたばかりの声だ。
「くすくす…つまらない嘘はお止めなさいな。
私、血なまぐさいことは好きではないのよ」
「失礼の段、お許し下さい」
「今回は許してあげるわ。まずは首尾よくできたのですから」
「恐れ入ります」
「事は一つずつ、順に動いていくのですわ」
女の声が、近づいた。
何かが触れたわけでもないのに、若者の猿ぐつわがはらりと外れた。
額に女の細い指先が当たり、つうっと動く。
何を……
思うと同時に、若者の意識は消えた。
若者の上にかがみ込み、女は一つの問いを発し、
意識の無いままに、若者はそれに答える。
女は立ち上がった。
「聞きましたわね」
「はい」
「では、私は行きますわ。後の指示は…」
「梶原殿より頂いております」
「くすくす…景時は本当に有能だわ。後は、頼みますわね」
「御意」
「朔!」
「望美!」
政子と会った翌日、滞在先の藤原邸で望美は朔と再会した。
「やあ、久しぶりだね。ゆっくりしていくといいよ。
雅な屋敷に麗しい花が二輪。サイコーだね」
「ふふっ、ヒノエ殿は相変わらずなのね」
「ごめんね、朔。支度でいろいろ忙しい時に呼び立てちゃって。
ヒノエくんてば、ここじゃなきゃだめだなんて言うんだもん」
……なぜ?
かすかな疑問が朔の脳裏をかすめる。
秋に来た時も、確か兄上とヒノエ殿は顔を合わせていなかったわ。
法住寺で二人が会っていたことを、景時は朔に告げていない。
話の内容からして、とても話せるようなことではなかったのだから。
「じゃあ、オレはここで失礼するよ。
姫君達の話をジャマしちゃ悪いからね」
「朔、行こう!」
「ええ」
小走りの足音がぱたぱたと遠ざかると、ヒノエは水軍衆の控える部屋に移動する。
熊野に帰る準備で、屋敷内は何かと慌ただしい。いろいろな経緯があったとはいえ、
すぐに京を去るように、との政子の命令を無視することはできないからだ。
その政子は昨日、鎌倉へと発った。
明日にはヒノエ達も熊野への帰途につく。
泰衡も用を終えたらすぐに平泉に戻るだろう。
踵を接するように、次々と動きがある。
――九郎が移送される日も近いかもね。
ヒノエもまた、九郎が鎌倉へ送られると踏んでいる。
簀の子に舞い落ちた枯葉が、吹き抜ける寒風にかさこそと鳴った。
足に触れる床が冷たい。
雲の向こうにぼんやりと輪郭を見せていた太陽が、
鈍色の厚い雲に隠された。
急に冷え込んできたな。雪にでもなるのか…。
空を見上げた時、副頭領が足早にこちらにやって来るのに気付く。
「頭領!」
低く緊迫した声だ。
次いで副頭領は黙って手の中にある物を差し出した。
それを受け取ると、ヒノエは厳しい顔で頷く。
対の屋からは、屈託のない明るい笑い声が流れている。
ヒノエは小声で指示を出した。
副頭領は、ううむ…と呻ると再び足早に去っていく。
「ごめんね、姫君、少し…出かけてくるよ」
ヒノエは対の屋に向けて、小さく微笑んだ。
鞍馬の山奥にひっそりと建つ庵。
だが今は、とてもひっそりとは言い難い。
「な…なぜ、同じ大きさに…ならない」
ぱこっ
がらんころん…
「リズ先生がなさると、きれいに真っ二つに…なるというのに」
ぱこっ
ころんがらん…
「冬に備えて、私ができることといえば…これくらい!」
ぱこっ!
ころんごろんころん…
「なぜ…三つになる」
敦盛は薪をうらめしげに見下ろした。周囲には薪の山が築かれている。
が、どれも不揃いな大小の組み合わせばかり。
大きい方を二つに割ると、またも大小に割れ、
小さい方はまるで小枝のような細さ。
「くっ…もう一度…」
「十分だ、敦盛」
「いや…まだこれでは………あ」
「今、戻った」
「リズ先生!」
敦盛は居ずまいを正した。
「長の旅、お疲れでございました」
しかしリズヴァーンはゆっくりと頭を振る。
「私は自分の用事で出かけたのだ。ねぎらう必要はない。
しかし敦盛には長い留守居をさせてしまったな。すまぬ」
リズヴァーンの旅の目的を、敦盛は聞き知っていた。
「それで…リズ先生、どなたかには会えたのでしょうか…」
「東国まで行ったのだが、もう鬼はいなかった」
「も…申し訳ありません。立ち入ったことを…伺ってしまいました」
「気にすることはない。私はこの眼で確かめられたのだ。
それだけでもよかったと、思わねばならぬ」
「本当に…鬼の方達はもういないのでしょうか」
「伊豆の山中の村で鬼の親子が暮らしている、という噂があった。
が、行ってみると、村は全て焼け落ちていた」
――鬼とは、滅びを呼ぶものなのだろう…。
しかし、痛みに似た思いを振り切ると、リズヴァーンは話題を変えた。
「伊豆は北条の根拠地。私はその後、鎌倉まで行った」
その言葉に、敦盛が武士の顔になる。
鎌倉の動静は、全国に隠れ潜んだ平家一門の命運に関わるのだ。
リズヴァーンは続けた。
「鎌倉は今、街造りの途上にあり、人と物資の流入が激しい。
が、それだけではない緊張感と、人の動きがあった」
敦盛は怪訝そうに言う。
「戦が終わったばかりというのに、まだ何かあるのでしょうか」
「戦が終わっても…と言う方がよいかもしれぬ」
「そ、それは…もしや…」
「関東諸国も、何やら慌ただしい」
「何ということだ…」
唇をかむ敦盛に、リズヴァーンは尋ねた。
「それでも、平家の残党狩りはまだ当分終わりそうにない。
ここには、源氏の兵は来なかったか」
敦盛は気を取り直して答える。
「はい、大寺にも街道にも近いことが、かえって幸いしているようです」
「そうだな。鞍馬に至る人は多い。
しかし
ここには、道無き道を辿らねば来られぬ。
これまでにも、わざわざ訪ねてきたのは、九郎と神子達くらいのものだ…」
そこまで言って、ふとリズヴァーンは口をつぐんだ。
「リズ先生、他にも気がかりがあるのでしょうか」
鞍馬の山深く隠れ潜んでいる敦盛には、京の噂は届いていない。
「九郎が、源氏に捕らえられている」
「…っ!…な、なぜそのようなことが…。
敵であるならいざ知らず、勲功を挙げた自軍の総大将を捕らえるとは…」
リズヴァーンは、眼を閉じた。
九郎はかつての弟子であり、神子の八葉として共に戦った仲間だ。
その危難に心痛まぬはずがない。
だが戦の後、道はそれぞれに分かたれた。
九郎の道は、九郎自身が切り開かねばならぬ。
九郎が鞍馬の山を下り、源氏の総大将への道を切り開いた時と同じように。
リズヴァーンはゆっくりと眼を開いた。
青い瞳が暗く翳っている。
「大事の起きる前兆かもしれぬ」
低く呟いたリズヴァーンの言葉に、敦盛は細い拳を握りしめた。
[1. 潜行]
[2. 確信]
[3. 向き合う者]
[4. 名残]
[5. 神子]
[6.隠されたもの]
[7. 別れ]
[8. からくりの一]
[9. からくりの二]
[10. からくりの三]
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2009.2.28