2. 道を行く者
黒い外套を頭から被り、大きな薙刀を携えた僧形の男が、
山城国と近江国の境に向かって足早に歩いている。
身を切る寒さに、行き交う人々は身を縮めているが、
その男は外套をしっかりと押さえ、山から吹き来る寒風に足を止めることもない。
誰かと言葉を交わすこともなく、ただ道中を急いでいるように見えるのだが。
逢坂の関で、男は関守に止められた。
「待たれよ、御坊」
その言葉に、男は黙って足を止める。
いつの間にか、男の周りを関守がぐるりと取り囲んでいる。
「その黒い被り物を取って頂こうか」
男は動かない。
「梵字の描かれた黒外套に薙刀を持つとは、
東に行ってはならぬ男の特徴と、よう似ている」
「我が身の疑いを晴らしたくば、顔を見せよ」
男はうつむいたまま、くぐもった声で初めて言った。
「顔を、見せる…?」
「そうだ、我らが探しているのは、荒くれの評判に相反した優男」
「どうした、顔を見せられぬとでも言うか」
男の手が、内側から外套のあわせをしっかりと握った。
「怪しい奴、やはり武蔵坊弁慶か!」
「構わぬ! その外套、力ずくで剥ぎ取れい!」
関守の長が命じ、男の後ろの関守が外套を掴んだ。
と、待っていたかのように、男はするりと長い外套を脱ぎ捨て、関守の頭にかぶせた。
身体を返し様、薙刀の柄で関守長の頭をコツンと叩く。
そして薙刀を構えたまま、男は不敵に笑った。
短い頭髪、日に焼け、ふてぶてしくにんまりと笑った顔は、
お世辞にも優男とは言い難く…。
「こやつ…」
「弁慶ではないぞ」
関守達はうろたえた。
「ふん、武蔵坊とわしを間違えるとは、無礼千万」
男は薙刀を収めて周囲を睥睨した。
「では、通してもらうぞ」
そう言って、剣を構えた関守など眼中にないように、歩き始める。
「待て待てい!!」
「その口ぶり、弁慶を知っておるのだな!」
男はうるさそうに言った。
「比叡の武蔵坊は仇敵よ。わしは園城寺の坊主じゃ」
「え…園城寺といえば、頼義殿、頼政殿とも深き縁のある…」
「その通りじゃ。平家打倒のため、我が寺の僧兵も駆けつけたのだぞ」
何となく説得されかかった関守達だが、中の一人が叫んだ。
「このような紛らわしい形をしていることこそ、
何か企んでいる証拠ではないか!」
「義経配下の法師は、弁慶一人ではなかったはず」
「捕らえよ!!」
関守達が、一斉に斬りかかる。
しかしそれより早く、男の薙刀が弧を描いた。
脇腹を打たれた関守が、呻きながら地べたに転がる。
別の一人は拳で顔を打たれ、がくんと腰を折って尻餅をついた。
園城寺の法師は薙刀をずん!と地に突くと、大声で名乗った。
「わしは常陸坊海尊。この名、覚えておけ!」
そう言うなり身を翻して、来た道を駆け戻る。
「な…何?」
「関を破りに来たのではないのか…」
「何のためにここまで?」
あっけに取られた関守達だが、我に返って長が叫んだ。
「義経の配下だ。追って捕らえよ! 六波羅にも報告だ!」
その一部始終を、旅人達が遠巻きに見物している。
騒ぎの間、関が閉ざされていたために、かなりの人数だ。
格好の話の種を提供され、皆ざわざわと好きなことを言っている。
「間違いなくあの坊さんは、九郎様の家来だね」
「何かこう、考えがあったんだろうな」
「そりゃそうよぉ。九郎様は捕まってるけど、軍師さんがいるんだから」
「五条のお人だろう? だが、優しい人だって評判だぜ」
「そうだそうだ。貧しい者からは、金も取らずに薬を出すような人だ。
謀なんて、できるのかねえ」
「それができなきゃ、軍師なんてやってられないじゃないか」
「ああ…それもそうだな」
馬を引いたいかつい男が、苦虫を噛みつぶしたような顔で呟いた。
「だとよ。腹黒いとは言われてねえな」
馬上の連れが、柔らかな声で答える。
「当然です」
「やつは、うまく逃げおおせるかな」
「彼はこの辺りには詳しいんです。三井の寺は、目と鼻の先ですから」
「次の者、これへ」
関守から声がかかり、男は馬を引き、歩み出た。
差し出された通行証と、それに添えられた証文は正四位の貴族のもの。
「母御の病とな…」
関守はそう言って、馬上に視線を移した。
こちらに背を向けて座った壷装束の手弱女が、頼りなげな風情で頷く。
市女笠には垂衣がかかり顔は見えないながら、
優雅な仕草は、高位の貴族に仕えるだけのことはある。
「通れ」
関守は道を開けた。
馬がゆっくりと歩き出す。
しかし関守の長に、気まぐれ心が起きた。
――貴族の心を虜にした美しい女の顔、見てみたいものだ。
「待たれよ」
その言葉に、馬は歩みを止める。
関守の長は、女の前にずかずかと進み出て言った。
「ここを通る者の顔、全て詮議するが我が役目。
失礼ながら、垂衣の中、改めさせて頂く」
女はかすかに震えて頭を振り、うつむいた。
――よい仕草だ…。
うっとりした長に、馬を引いている男が低い声で抗議する。
「一度は通すと言っておきながら、なぜ無礼を働くか」
しかし、関守の長はにべもなく言った。
「やましきことなければ、隠す要はないはず」
そして、馬上の女に向かい、再び
「その垂衣を…」
と言いかけた時
女の手が衣の内へと滑り入り、片側の衣を開いた。
「お…」
関守の長は息を呑む。
想像以上に美しい顔。
だが、恥ずかしさのためか、赤い唇はわななき、
伏せた長い睫毛から、つうっと涙が流れ落ちた。
「もう…よろしいですか…」
消え入りそうな声は、低く甘い。
「し…失礼した! もう行ってよい」
泣かせてしまった。
後で後見の貴族から睨まれぬとよいのだが…。
それにしても、何と美しい…。
関守の長があれこれと雑念に囚われている内に、
馬は関を抜けていってしまった。
「ヒヤッとしたぜ。あの野郎、変な気を起こしやがって」
馬を引きながら、いかつい顔の男がため息をついた。
「気が緩んでいた証拠です。僕はしめた、と思いましたが」
馬上の弁慶が、市女笠の中から言った。
「どういうことだ?」
「尾行の基本と同じことですよ。尾行は二組で行うものです。
追われている者は、最初の一組をうまくやり過ごすと、
首尾よく逃げおおせたと思いこんで油断してしまうのです」
「そこを、後の組が押さえるってわけだな。
京の街に潜んでいた間、肝に銘じていたことだぜ」
「さっきのことも、同じでしょう?
最初に怪しげな者が騒ぎを起こす。
関守は、彼の正体を見破り、さらには関を破られなかったことで
逃げられはしましたが、かすかな安堵を感じずにはいられない。
そこに気のゆるみが生じ、そのおかげで
僕たちは堂々と関を通れたというわけです」
「しっかしまあ、女になりきってたな。
紅まで塗ってたとは気づかなかったが…
ああ、思い出しただけで、気持ちが悪い…」
「ひどいなあ、紅も空涙も仕事の内ですよ。
隠しているものは見せろと言われるものです。
当然それくらいは予期して対策を立てておかなければ、軍師失格です」
「外れ軍師め。馬の上でのうのうとしやがって」
「では、今度は三郎が女装しますか?
紅の塗り方なら教えますよ」
伊勢三郎は、自分の額をバチンと叩いた。
「ああ〜〜、優しい九郎様が懐かしいぜ!!」
夜になった。
雪がちらつき始めている。
身を切る寒さの中、薊は診療所を後にした。
結局、あの男…景時の言うとおり、夜を待った。
途中、得体の知れない男達が診療所の壁を壊していったが、
その間、薊は隠し戸から抜け出し、枯れた葦の間に身を潜めていた。
懐には、最後に残った二本の針。
灯りのない小屋の中で、夜までの時間を費やし、細工を施していたものだ。
弁慶の残した薬草の中には、危険な物も混じっていた。
それを選び出し、薬研ですり潰し……
この二本が、私の使う、最後の毒針になるのだろう。
誰に突き刺すのか…
あるいは、私自身にか…。
檜の棒を杖の代わりに使い、薊は夜の道を西に行く。
顔は隠していない。背を伸ばし、ひたすら歩く。
何が正しくて、何が間違っているのか、まだ分からない。
だが、心が痛いのは、もういやだ。
景時…その名は薊も知っている。
源氏の御家人、梶原景時だ。
そして、あの優しい尼僧が…
梶原という姓であることも、聞き知っている。
六条堀川で、幾度か耳にしたこと…それだけを頼りに薊は歩いている。
無防備に京の街に出ることは危険であると、百も承知の上だ。
だが今、薊は初めて、復讐のためではなく、
自らの心のままに、道を選び取っていた。
傷ついた足を引きずりながらも、その歩みに迷いはない。
[1. 窮地]
[2. 道を行く者]
[3. その夜]
[4. 決意]
[5. 火蓋]
[6. 天の時 地の利]
[7. 搦め手]
[8. 再会]
[9. 炎の中で]
[10. 脱出]
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弁慶さんの女装…(笑)。
馬に乗っているのは、背の高さをごまかすためです。
その他いろいろ、説明はしていませんが、工夫しています。
で、園城寺=三井寺。
弁慶さんは、わざと回りくどい言い方をしています。
2009.3.29