9. 炎の中で
人々が何か叫びながら北に向かって走っていく。
「火事だ!」
切れ切れに聞こえた言葉に、薊は胸騒ぎと共に振り返った。
火の手は上がっていないが、立ち上る黒煙でだいたいの場所は分かる。
「まさか……」
ズキン!と痛い鼓動が胸を叩いた。
すぐに踵を返し、人の流れと共に精一杯走る。
杖に頼る足がもどかしい。
人々が群がっているのは、ヒノエに教えた小路の中程にある、小さな仕丁の家だった。
しかしそちらに向かおうとして、
薊は凍り付いた。
そしてはっと気がつき、慌てて顔を伏せる。
人垣の後ろからそっと立ち去った男の姿は、遠目でも間違えることはない。
あれは六波羅で薊に斬りかかった男だ。
今気づかれたなら、もう逃れる術はない。
だが人の波に紛れていたことが幸いしたのだろう。
上目遣いにもう一度見れば、男は仲間と覚しきもう一人の男と共に
こちらに背を向け歩き去っていくところだ。
やつらが無意味に火事の見物などするはずがない。
火をつけたのはやつらだ。
ということは、別当はもう中に入ったのだ。
薊は唇を噛んだ。
今できることは何だ。
動きもままならないこの身一つで、別当と望美を助けることは不可能。
だが、薊の決断は早かった。
京邸に向けて足を引きずりながら走り出す。
朔からの伝言は熊野別当に伝えた。
そこに隠された意味を読み解き、彼らが脱出することを信じよう。
自分は、その後を手助けするのだ。
無事に鍵の在処を探し出したとしても、出口は京邸の小屋しかない。
燃えさかる牢獄を抜けた先は、敵の只中というわけだ。
彼らなら、切り抜けるだろう。だが、追っ手を振り切るのは至難。
彼らを邸から逃がすための手段が必要だ。何としても…。
京邸に着くなり、門衛に火事を伝えた。
そして、小屋の警戒に当たる武士達にも、慌てた風を装い触れて回る。
幾人かが顔色を変えた。
彼らは、景時から本当のことを教えられているのだろう。
「お前はあっちへ行っていろ!」
と、薊を追いやるやいなや、小屋に駆け込む。
しかし彼らは、すぐに首を振りながら飛び出してきた。
「くそっ! 仕掛けが分からん」
「中にいる神子殿に万一のことが…」
「そういえば、見張りの二人も戻っていないぞ!」
「ということは……」
「こうしてはおられん! 火を消さねば!」
「おう!」
しおらしく母屋に戻る振りをしながら、薊は一部始終を見ていた。
これで、庭の警戒はしばらくの間手薄になる。
後は……
かつて仇と狙った二人の命が救われることを、
今、薊は切に祈り、そのことだけを思っていた。
炎が上からも降ってくる。火の回りが異様に早い。
刺客の男達は、窟を隠した小屋の床にも火をつけていったようだ。
そのやり方は、とことん念が入っている、というべきか。
これでは、ミサゴが足台となっても、ヒノエが飛び上がることはできない。
それどころか、どこかに飛びつこうにも手がかりになる場所すらないのだ。
しかしミサゴは叫んだ。
「別当様、私が榾木に乗って支えます。そうすれば一気に上まで…」
ミサゴが乗ると言った榾木には、すでに藁束から火が燃え移っている。
ヒノエは静かにかぶりを振った。
「心配するなよ」
「しかし、別当様…」
「姫君が鍵を探し出してくれるからね」
そして望美に向き直ると、その手をしっかりと握る。
「ヒノエくん…」
ヒノエの手の中で、望美の手が震えている。
「鍵の場所は…分からないんだよ。鍵があるかどうかも……」
しかしヒノエはいたずらっぽい笑みを浮かべ、片眼をつぶってみせた。
「大丈夫さ。朔ちゃんがね、素敵な伝言を残してくれたんだ」
望美の眼が大きく見開かれる。
「ふふっ、いいね、その無防備な表情」
「もうっ! こんな時にからかうの?」
怒った顔の望美に、ヒノエは笑顔のまま答えた。
「もちろん本心からの言葉だよ、オレの姫君。だから機嫌を直してくれない?
これから朔ちゃんの言葉を伝えるから。
隠れ場所から逃げるための謎かけだ。いいね?」
ヒノエは勝算のない目には賭けない。
望美は真顔になり、黙って頷く。
「見えぬものの中を探せ」
望美はきょとんとした。
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
「そんな…」
青ざめていく望美を見て、ヒノエはその手を取り、唇を押し当てた。
「大丈夫。姫君なら、この言葉の意味を解くことができるよ」
「でも…」
「よく考えるんだ。お前はあの岩の隙間を抜けてここに現れたね」
「うん」
「隙間の向こうはどういう風になっている?」
「こことあまり変わらない。岩に囲まれた洞窟の中みたいな感じだよ」
「広さは?」
「ええと…勝浦の奥の間と同じくらいかな」
「天井の高さは?」
「もっとずっと高いよ。梯子と扉みたいなのがついてるけど、届かない」
「灯りは?」
「壁に一つ」
ヒノエが次々と出す簡単な問いに答えるうちに、望美の心は次第に落ち着いてくる。
「だったら、灯りに照らされない所がある?」
「うん。……あ!」
「思い当たることがあるみたいだね、姫君」
望美はぎゅっと口を結ぶと、ヒノエの手から自分の手を抜き取った。
「行ってくる、ヒノエくん」
熱風が吹き付ける。ミサゴが煙にむせて咳き込んだ。
しかし炎を背に、ヒノエは望美を真っ直ぐに見つめている。
「待っているよ、姫君」
いつもと寸分変わらぬ、晴れやかな笑顔。
笑顔に向かって頷くと、望美は奥へと駆け戻った。
狭い隙間をすり抜け、奥の窟に飛び出す。
かつての悪夢……
燃える京邸……燃える船……
絶対に繰り返さない!
繰り返すものか!!
「九郎が逃げた…?」
「景時から早馬が来ましたわ」
「九郎の配下が動いたか」
「そのようですわね。見事に策略に嵌ったとか。
九郎には命知らずで忠実な部下がたくさんいますのね」
頼朝は表情を変えぬまま政子を一瞥した。
「景時には十分な手勢を揃えさせた。失態の言い訳にはならぬ」
「くすくす…私が同行していれば、みすみす取り逃がしたりはしませんでしたのに。
返り討ちにする好機を逃してしまいましたわね」
「忘れたか、お前は出過ぎるな」
「もちろん覚えておりますわ。
だから見て見ぬふりをして、先に鎌倉に戻りましたのよ」
政子に向けて、歪んだ笑いが返った。
「見て見ぬふりか。まるで九郎が逃げることを予期していたような口ぶりだな」
「あなたも、それほど動揺してはいませんわね。
九郎は逃げたところで、行き先はない。奥州以外には……と
お考えなのではないかしら」
「悪くない。得意げだな、政子」
不満そうな顔で、政子は頼朝の隣に座った。
「まあ、悪くない? それだけですの?
私、精一杯協力しましたのよ。もう少し言いようがあるのではなくて」
政子がしなだれかかるまま、頼朝は庭に向かって座している。
低く射し込む冬の陽のまぶしさに眼を細め、誰にともなく独りごちた。
「奥州が九郎を受け入れれば、自ら墓穴を掘るに等しい。
藤原がどう出るかは分からぬが、せいぜいよき口実とさせてもらおう」
「九郎のこと、後悔していますの?」
頼朝の手に、政子の手が重なった。頼朝はゆっくりと言葉を継ぐ。
「あれは災いをもたらす。それだけだ」
「あなたがそれほど九郎を恐れるのはなぜなの?」
政子は顔を上げ、頼朝の頬に手を滑らせた。
「分からぬか、政子。九郎はあまりにも愚かだ。
人の脆さ、人の弱さを断ち切れぬ」
「くすくすくす…愚かでない人間などいるのかしら」
「お前には、そのように見えるのだろう」
「見えるのではなく、そうなのですわ。
けれど、あなただけは…」
頼朝はやおら立ち上がった。
政子は口元に袖を当て、忍びやかに笑う。
「奥州攻めの院宣が下りるのは間違いありませんわ。
やっと目障りなものを潰せますのね。熊野水軍に感謝しなくては」
頼朝の頬に皮肉な笑みが浮かぶ。
「源氏に代わり、平家を滅ぼしてくれたからか」
「ええ…よく働いてくれましたわね」
その時、庇の下から声がかかった。
「お館様、下野よりの使者が到着しました」
「しばし待つよう、伝えよ」
「御意」
頼朝を見上げて政子は言った。
「派兵の返事ですのね。くすくす…否やもありませんけれど。
戦が終わってからも兵を調えてきたこと、やっと実を結びますのね」
行きかけた頼朝はゆっくりと振り向き、政子を見下ろす。
「政子、先ほどからお前は軍の話ばかりだ。何が言いたい」
政子は手を打ち、はしゃいだ声を上げた。
「まあ、嬉しいですわ。私の話を聞いて下さるのね」
「もったいぶるな」
眉をひそめた頼朝を、政子は無邪気な笑みをたたえて見上げた。
「ねえ、あなた…目障りな国は、もう一つありませんこと?
朝廷からの尊崇と庇護の下、兵を以て討つことのできない国が」
「だから、これ以上勝手な真似のできぬよう、お前が手を打ってきたのだろう」
「それだけで、あなたは満足なのかしら。
夏の一件、お忘れではないのでしょう」
「誰が聞いているかも分からぬのだぞ」
「誰も聞いていませんわ」
政子の眼が妖狐の光を放つ。
頼朝は低い声で言った。
「あの国は厄介だ。大軍を擁さずとも、振る舞い方を心得、交易の利をも心得ている。
宋との貿易で財を蓄えた平家より目障りだ。陥すに如くは無い」
「くすくすくす…あなたのお考え、素敵ですわ」
「平泉の間者からの報せを待て。お前が動くのはその後だ」
「心得ておりますわ」
政子の赤い唇が禍々しい笑みの形になる。
「私、あなたのためならば何でもいたしますもの。
では、深い森に眠る古き神々もろとも、あの地を密かに滅ぼしましょう」
[1. 窮地]
[2. 道を行く者]
[3. その夜]
[4. 決意]
[5. 火蓋]
[6. 天の時 地の利]
[7.搦め手]
[8. 再会]
[9. 炎の中で]
[10. 脱出]
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2009.5.26