7. 搦め手
身体を横にしてやっと通れるほどの岩壁の細い隙間は、
奥に行くにつれ少しずつ広がり、やがて肩幅よりも広くなった。
突き当たりに太い木組みの格子。
格子の向こう側に、小さな灯りが見える。
そこでもやはり、壁に穿たれた穴が燈台の代わりとなっているようだ。
「神子…いや、望美様、気がつきましたか」
灯りを背に黒い人影が二つ、格子のそばまで来た。
聞き覚えのある声だ。
望美は格子に近づき、相手の顔を見て、納得する。
「あなたがたは景時さんの…」
望美の言葉に、二人は沈痛な面持ちで頭を下げた。
「このようなことになるとは、残念でなりません」
「仮にも源氏の神子様を…」
どちらも梶原家の郎等だ。京邸でも戦場でも、幾度となく顔を合わせていた。
初秋に京邸を訪れた時にも言葉を交わしている。
彼らが辛そうに言った言葉は、本心からのものだろう。
だが、今はそのようなことを斟酌している場合ではない。
できる限りのことを、聞いておかなくてはならないのだ。
望美はこぶしをぐっと握りしめた。
「景時さんはもう、京を出発したんですか?」
「はい。昨日のうちにお発ちになりました」
望美は驚いた。
「ええっ? もう一日経っているの?
じゃあ私、どれくらいの間気を失っていたのかな」
「もう午の刻です。長い間望美様の動く気配がなく、心配しました」
「あ…それなら、もしかすると朔ももう…」
「今朝ほど、大原に向けてご出立されました」
「そう…。朔の様子、どうだった?
朔は知ってるの? 景時さんが私を…って」
郎等達は顔を見合わせ、黙って頷く。
「そうだ! ヒノエくんは? 熊野の人達がどうしているか知らない?」
再び二人は顔を見合わせた。
知っているのか、いないのか。
知っていたとしても、言いにくいのだろう。
…だとすると……
「もしかして、捕まっているの?」
望美の悲しげな声に、郎等達は慌ててかぶりを振った。
よかった。無事なんだ。
ふっと力が抜けそうになるが、ここで止めては何も分からないままだ。
景時さんは言っていた…。
ヒノエくんの動きを封じるために、私を利用するって。
政子さんの命令は、ヒノエくんが熊野から出ないこと。
つまり…
「ええと…、みんな熊野に帰っちゃったとか?」
郎等達は思わず頷きかけ、その後に顔を見合わせた。
「じゃあ、せめて教えて下さい。ここはどこなんですか?」
二人は揃って即答した。
「お教えできません」
一人が、格子の間から小さな箱と、水の入った筒を差し入れた。
「我ら、これ以上お答えすることはできないのです。
食事をお持ちしましたので、どうぞ」
「要らない!」
きっぱりと望美は言った。
郎等達は、力なくかぶりを振る。
「お願いです。お気持ちは分かりますが、そのようなことはなさらないで下さい」
「元気でいて頂かないと、我らばかりでなく、望美様が…」
「どういうことですか?」
すると一人が格子の端に行き、間から手を入れて、ある箇所を指さした。
そこにあるのは鍵穴。
つまり格子の扉は、望美のいる側から施錠されているのだ。
「お分かりですか? 外からそこまでは、手が届きません。
そして我ら、景時様から鍵をお預かりしてはいないのです」
「ですから、たとえ望美様の具合が悪くなっても、我らには何もできません」
「いや、万一の時には、格子を破ってでもお助けしますが…」
「それを当てにして食を断つなど、どうかなさらないで下さい」
「……そう…ですか…」
二人はそれきり黙り込んでしまった。
格子の左右に分かれて立ち、寡黙な見張り役に徹するつもりのようだ。
彼らがいる場所も決して広くはない。
二、三歩先には、梯子が見える。
それを使って、出入りしているのだろう。
午の刻というのに外光が射さないということは、
梯子を登った先も洞窟か、あるいは家屋の中ということだ。
「…食事、頂きます。ありがとう…」
そう言って望美は箱と筒を抱え、岩壁の隙間を通って元の場所に戻った。
ヒノエくんだったら、もっと上手に話せたんだろうな…。
そんなことを考えながら、先ほどの会話を思い出す。
大きな収穫は二つだ。
朔が今朝出発したことを、あの人達は午の刻に知っていた。
それに、『出立したそうです』ではなく、『出立されました』と言っていた。
あの人達には、京邸の様子が分かってるんだ。
望美は真上にある扉を見た。
あっちの格子扉が内側からしか施錠できないなら、ここに私を運んだ時、
景時さんはあそこから出入りしたはずだ。
あの扉の先は、景時さんがいても、誰もおかしいと思わない場所のはず。
つまりここは京邸か、すぐ近くのどこかだ。
そして、熊野のみんなは京を出たのか……。
ずいぶんあっさり引き下がったんだね、ヒノエくん。
望美はにっこり笑った。
ヒノエくんなら、きっとここを見つけてくれる。
さあ、私も元気を出して探さなきゃ。
景時さんは鍵を置いていったかもしれない。
……どこにあるんだろう。
傾いた午後の陽が、京邸の庭に長くくっきりとした影を落としている。
隣の敷地にある高い木の上に潜み、ヒノエと烏は庭の様子を窺っていた。
ここまで来るのに大回りを余儀なくされたために、早くも陽は暮れかけている。
水軍を見張っていた六波羅の武士達が、
真っ直ぐに京に戻るかと見せながら、油断ならぬ動きをしたのだ。
京から増援が送り込まれ、分かれ道ごとに幾組かに分かれては、
見張りを次々に立てていく。
水軍を送った帰りには、背後から来る者を警戒せよと、
誰が命じたのか…いや、命じていったのかは明々白々だ。
それらをすり抜けるのに、かなりの時間を費やしてしまった。
だがここまで来て焦りは禁物だ。
ここは、いわば敵地。さらなる慎重さが必要なのだから。
ヒノエと烏は、先ほどから景時のからくり小屋を注視している。
小屋の周囲には武士が四人。一分の隙もない警戒ぶりだ。
「小屋一つに厳重な見張り…別当様の睨んだ通りです」
ヒノエに同行したただ一人の烏、ミサゴが低い声で言った。
「こうも注目されてちゃ、さすがに忍び込めないか。
あの小屋が入り口なのは分かってるけど、
中に入り込んでからも、一仕事しないと姫君の所までは降りていけないしね」
「私が行って引きつけますか?」
「いや、こっちは二人きりだ。目立つことをするのは最後の最後でいい。
搦め手から行こうぜ」
副頭領とノスリがヒノエの供として寄越しただけのことはある。
ミサゴは飲み込みが早かった。
「と申しますと、地下牢にもう一つの出入り口があるということですか?」
「出入り口ってのは当たってるよ。でも地下牢とは違うな」
「しかし望美様が閉じこめられているのでは?」
「ああ、姫君は確かに閉じこめられている。
でも覚えているかい? そこは景時曰く、『最も安全な場所』なんだぜ。
つまり、牢じゃなく隠れ場所ってこと」
「合点がいきました。隠れ場所ならば、敵に攻め込まれた時のために
必ず脱出用の抜け道を作っておくものです。…しかし」
「しかし、何だい?」
「梶原殿の言葉が偽りで、これは巧妙な罠ということも考えられます」
「まあね。でも、一番有力な手がかりでもある。
罠だったとしても、そこから新しいことが分かるってもんじゃない?」
「承知しました。では、まずは怪しい場所の見当を付けるのですね」
「そういうこと。ここからなら景時の邸ばかりじゃなく、辺りの様子がよく分かるからね」
陽が動く。
地面に影が落ちぬよう、ヒノエとミサゴは巧みに場所を移していく。
「いいかい、隠れ場所の出口は、当然ながら隠されてる。
やはり、小屋か何かの中だろうね。
秘密なんだから、人の多い貴族の屋敷はあり得ない。
子供のいる民家でもない。
そして、からくり小屋からの距離は、あまり離れていないと見てる。
大っぴらに穴掘りなんてできたはずもないから、
隠れ場所は元々あった龍穴の一部を利用したものだろうね。
となると、どこに通じているのか厄介だけど、
一番可能性の高いのは、南側だ。
ありがたいお寺が守ってくれているからね」
ヒノエが示した先には、東寺の五重塔。
「お大師様のお寺が…? よく分かりませんが」
「まあ、いいよ。一つだけ言っておくとね、
景時の作った隠れ場所は元々、戦から逃れるためのものじゃないってことさ。
使えるだけの力はかき集めたかったんだろうね」
「ますます分かりません」
「とにかく、条件に合う場所はそれほど多くないよ。
めぼしいところを端から当たっていこう」
「見張りの交代の時を待ってはいかがでしょうか。
民家から武士が出てくれば目立ちます」
「確実だけど、それじゃ遅いんだ。
こっちは交代の時を狙って襲うつもりだからね」
ヒノエは親指を立てた。
と、その時、庭で枯葉を掃除していた娘が仕事を終えて顔を上げた。
思いがけないところで薊の顔を見て、ヒノエは一瞬、息を呑む。
薊は足を引きずりながら、からくり小屋に近づいたが、
厳しく叱責されたようで、しきりに頭を下げている。
そしてヒノエの見ている前で、薊は門衛に何か話しかけ、邸の外へと出て行った。
「ミサゴ、ちょと行ってくる」
「御意」
返事より早く、ヒノエの姿が樹上から消える。
薊はすぐに見つかった。
櫛笥小路を、東寺に向かってゆっくりと歩いている。
薊が細い路地の角にさしかかった時に、すっと腕をとり物陰に引き入れた。
しかし、激しい悪罵が飛んでくるものと思っていたヒノエは、
予期せぬ言葉を聞くことになった。
薊は静かな声で言った。
「熊野別当、やはり来たか。
お前は必ず京邸に来る、と朔が言っていた通りだ」
ヒノエと向き合ったその眼には、かつてのような憎悪はない。
「朔ちゃんが? それよりなぜ、お前が」
しかし薊はその言葉を遮った。
「お前の女を…望美を、朔も私も、助けたいと思っている」
薊は真剣な眼差しで続ける。
「邸のからくり小屋の地下に、望美はいる。だが、見張りがいて近づけない」
「そうだよ。で、もう一つの入り口もあるんだろう?」
「この一つ先の路地のどこかだ。朔もそこまでしか知らない」
何があったのかは分からない。
が、薊のぎりぎりと張り詰めた気に、偽りはない。
ヒノエは小さく微笑んだ。
「感謝するよ」
「私を信じるのか」
「もちろんさ」
胸にこみあげるものを抑えるように、薊はしばし眼を閉じた。
「朔から望美への伝言だ。『見えぬものの中を探せ』」
「どういうこと?」
「朔が、兄から教えられた言葉だ。隠れ場所から逃げる時に役立つ…と」
馬の蹄の音が聞こえてきた。
街人の話し声も近づいてくる。
「姿を見られてはいけないのだろう?」
「ああ。それより、その怪我はどうしたんだい?」
「無用の心配だ」
薊はくるりと背を向けて、足を引きずりながら歩き去った。
そして一瞬の後、ヒノエの姿も路地から消えていた。
[1. 窮地]
[2. 道を行く者]
[3. その夜]
[4. 決意]
[5. 火蓋]
[6. 天の時 地の利]
[7.搦め手]
[8. 再会]
[9. 炎の中で]
[10. 脱出]
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2009.5.7