比 翼

− 4  奪 還 −

3. その夜



雪がちらつき始めている。

冷え込んだ六波羅の一室、火桶を運ばせることもせず、
景時は燈台の火を見つめて座している。

九郎を護送するためにすぐ京を出る、というのは
望美を一人で五条に走らせるための、真っ赤な嘘だった。

――『あのお嬢さんの身柄を押さえておけば、熊野は動けなくなるわ』
  『身柄を…押さえる?』
  『あら、分からないふりをするの? 命を奪えと言っているのではないのよ。
  喜んでもいいのではなくて?』
  『しかし…望美ちゃんはいつも…』
  『ええ、熊野別当は、自分の弱点をよく心得ているわね。
  お嬢さんの側から離れることがないもの』
  『ですから…うかつに動いては、騒ぎになります』

  見えない刃の冷たい感触が、景時の首筋にぴたりと当たる。

  『いいこと? この刃が断つのは、別の人…かもしれないのよ』
  『……ご命令に従います』
  『私の手の者を使っていいわ。あなたなら、できるでしょう。
  こっそり動くのは得意ですものね』
  『御意』
  『あなたがお嬢さんを捕らえたと、ちゃんと別当に伝えるのよ。
  源氏が熊野より上なのだと、よく思い知らせてあげなくてはね』

その通りに…した。命じられるままに…。

九郎の鎌倉護送は、とうに決まっていたことだ。
それを利用して、罠を組み上げた。

影の者達を使い烏を捕らえて、別当を緊急に呼び出すやり方を聞き出す。
報奨の話の後、すぐに京を出るようにと、政子が命を下す。
朔と望美が会う約束をしていることを、承知の上でのことだ。
そしてその日に合わせて、弁慶に九郎護送の情報を漏らす。
朔と望美が会っている間に、ヒノエを呼び出し足止めをする。
景時は、ヒノエが屋敷を離れるのを待って、自ら罠の仕上げをしたのだ。

望美は、九郎を助けたいと強く思うだろう。
だが鎌倉に送られてしまえば、それは叶わない。
会うことすらできなくなるのは当然のこと。
となれば、最後のよすがは弁慶だ。

しかし、その弁慶もまた、京を離れなければならない。
急げば間に合うかもしれない…と、思いこませて…
弁慶がまだ五条にいるはずがない…と分かっていながら…。

最後の最後までこちらを真っ直ぐ見ていた望美の眼が、
脳裏に焼き付いて離れない。

――『頼朝様は、何も信じていらっしゃらない。
  まして、抜け目のない他国の別当なら、なおさらだ』
  『景時さんのことも、ですか』

そうだ。
オレがどれだけ手を汚そうと、頼朝様も政子様も、オレを信じることはない。
そして、オレもまた……。

「梶原殿」
部屋の外から声がかかり、景時は自分が拳を握りしめていたことに気づいた。
扉を開け、江間四郎が入ってくる。

前置きもなく、四郎は口を開いた。
「妹御を、お送りしてきました」
その口調に、かすかな非難の色を感じるが、
景時はいつものように笑顔を作った。
「ありがとう、江間殿」

しかし江間四郎はにこりともしない。
「御出立は明日ですか」
「あ、ああ…いろいろあったからね。
今日は江間殿にもいろいろ世話になっちゃったね〜」
「朔殿は…泣いておられた。
姉上…いや政子様の命がなければ、このようなことは…」
四郎の言葉を、景時は遮った。
「源氏のために、必要なんだ」
小さく肩をすくめ、笑ってみせる。

四郎は口を開きかけたが、すぐに次の言葉を飲み込んだ。
これ以上は、御家人として言うべきではない。
そして気を取り直し、別の懸念を口にする。
「弁慶がこのまま何もしないと思いますか。
九郎の護送が一日遅れるは、準備の時間を与えるに等しいかと」

その通りだ。弁慶の知らぬ間に九郎を動かすのが上策とは分かっている。
弁慶に、鎌倉への道を先行させるのは、待ち伏せをしろと言っているようなもの。
それでも、望美の身柄を手中にするには、こうするしかなかったのだ。

「東国への関は固めてあるんだよね」
「もちろんです。北国街道、西国街道はもちろん、
川舟も検分は怠りません。ただ…」
「ん? 何かあったの?」
「逢坂の関で騒ぎがあったと報告が入っています。
騒ぎの主は関を破ることができず、京への道を駆け戻ったということですが…」
「取り逃がしたんだね」
「手を尽くして追ってはおりますが、まだ」
「弁慶ではないのかな」
「黒い外套を被り、弁慶の風を装った法師で、日焼けした無骨な男だったそうです」

景時は腕を組んだ。その男は、弁慶得意の陽動だろう。
騒ぎの直後に、弁慶本人は悠々と関を通っていったと見て間違いない。

景時は言った。
「六波羅が堀川と密に交流していなかったのは失策だったね」
「そ、それはどういう」
「九郎の配下に疎すぎるからだよ。その法師はおそらく常陸坊海尊だろう」
「ご存知なのですか?」
「オレは戦の時、九郎の配下にいたんだよ。九郎の腹心くらい分かる」
「三井寺の法師と聞きましたが、弁慶の比叡山とは犬猿の仲では?」
今度は、景時は大きく肩をすくめてみせた。
「九郎の下では、そんなこと関係なくなるようだよ」

江間四郎は唇を噛む。
「九郎殿は…人心の掌握に長けています。
堂々とした潔い態度といい、武士の鑑かと」

しかし、四郎はそこで黙り込んだ。
そのような人物をなぜ…と、言葉にできない。

景時は何も言わず、席を立った。
「どちらへ」
「九郎にちょっと挨拶をね」

暗い回廊を幾つも通り、塗籠の扉の外に立つ。

「起きているかい、九郎」
「景時か」
「鎌倉への護送、オレが務めることになった」
「…っ! …そうか」

一瞬の驚きとためらいが全てを語る。
九郎は正直すぎ、そして、優しすぎる。

オレはもう、敵なんだ。

「明日は早い」
「分かった」
「九郎…」
「覚悟なら、できている」

何の覚悟かは、問うまい。今は…。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



「ここは、梶原殿のお邸でしょうか」
櫛笥小路の京邸を、夜というのに娘が一人で訪れた。

貧しい身なりで、怪我をしているのか、杖につかまり大儀そうだ。
だが物を乞いに来たのではないと、まっすぐに上げたその娘の眼が語っている。

「娘、何用だ」
門衛が問うと、
「朔…殿に会いたいのです」
娘は、はっきりした声で答えた。
「もう夜だ。朔様はお休みになっておられる。
朝になったらもう一度来るがいい」
だが娘は下がらない。
「急ぎの用…です。取り次ぎを」
「聞き分けのない娘だな。ならばその用だけ伝えよう」
「朔殿に会わせて」

堂々巡りのやりとりを、眠れずに起きていた朔が聞きつけた。

門の内から薊の姿を見て、外に飛び出す。
「あなた…堀川の…」
そして、薊の怪我に気づいた。
「どうしたの? 何かあったのね」
薊が頷くと、朔は薊の手を引いて邸の中に入ろうとした。
「いけません! 景時様のお留守に、素性の知れない者を」
門衛が慌てて止めにかかる。

――景時はここにいない。
薊は少し、安堵した。ここで景時と会ってしまったなら、
それでお終いだったのだから。

「この人は私の友達です。中に入れて」
朔が強い口調で言った。

「この娘が朔様の…?」
いつの間に私が「友達」になったのか?
固まった門衛の横を通り、不審な顔をした薊の手を引っ張って、
朔は自室へ向かった。

灯りを点け、朔は棚から膏薬を取り出す。
その背に向かい、薊は言った。

「手当はいい。弁慶に薬を残してもらった」
弾かれたように朔は振り向き、その手からからん…と薬箱が落ちる。

薊は低い声で続けた。
「熊野別当の女、…望美という名の女を、助けたい」
朔は両手を胸の前で組み、大きく眼を見張った。
「何か知っているのね。お願い、話して」
「兄に逆らっても…か」
「ええ」

揺れる灯火に照らされた朔の眼に浮かんだのは、悲しみだろうか、苦痛だろうか。
薊の胸が、かすかに痛む。
兄の命令は、薊にとって絶対のものだった…。
だが朔は…。

薊はゆっくりと息を吐き出すと、これまでのことを全て、語り始めた。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



京から摂津へと続く道の途上、先行していた水軍の若衆が、
地元の長者の家に今夜の宿を確保した、と伝えに戻ってきた。

それを見て、後を尾けてきた六波羅武士の一団が、やっと引き返していく。
ヒノエ達熊野衆が変な気を起こさず、おとなしく京を出るよう、
無言で背後から威圧してきたのだ。

その後も、熊野の一行は、降り始めた雪をついて黙々と進んでいく。
速い足取りは、真っ暗にならぬうちに宿にたどり着きたいためだろう。
明日には難波の湊に出て、海沿いに田辺にある水軍の基地へと向かうのだ。

表向きは……。

小暗い林にさしかかった時、ヒノエが足を止めた。
「頃合いだね」

その言葉を聞いたとたん、京の藤原屋敷で留守居をしていた若衆達が、
ヒノエの前に走り込み、がばっと土下座した。
「頭領!! こんなことになって…」
「申し訳ありません!!」
「どんな罰もお受けいたしやす!!」
「ご命令下されば、望美様を取り返すため、六波羅に殴り込みにでも」
「どうか、行かせて下さい!!」
副頭領もその隣で、地に頭を付けている。
「こいつらの不始末は、私の責任です。如何ようにでも」

彼らの頭上に、淡々としたヒノエの声。
「止めとけ、野郎共。顔を上げろ」

「頭領…しかし、けじめというものが」
副頭領が言うが、ヒノエは眉を少し上げただけ。

「姫君を守れなかったのは、お前らのせいじゃない。
これは熊野対源氏の戦いだぜ。
相手の奸計を読み切れなかったのは、総大将のオレだ」

副頭領が叫んだ。
「まさか!」
ヒノエはにやりと笑う。
「まさか、じゃないさ。当然ってね」

そしてすっと右の手を挙げる。
「クロツグミ、いるかい」
「御前に…」
ヒノエの前に、赤い髪の烏が進み出る。
ヒノエとよく似た背格好の女烏だ。

「後は頼むよ」
そう言うと、ヒノエは着物を脱いでいく。
「御意」
そう答えて、クロツグミも間者の黒装束に手をかけた。
副頭領が真っ赤になって、隣の若衆の目を大きな手で塞ぐ。

ややあって、ヒノエは言った。
「年越しの祓えが、もう近いね」
副頭領が目を開けると、頭に黒い布を巻き、間者の形となったヒノエがいる。
隣には、ヒノエとそっくりのクロツグミ。

「必ずや、その時までにお戻りを」
副頭領は腹を決めた。もうヒノエを止めようとしても無駄だ。
何より、このような形で人質を取られたままでいていいはずもない。
一人で行こうとするのは無茶としか言いようがないが…。

「その時まで、ごまかせる?」
ヒノエがクロツグミに問うた。
「そのために、オレがいるってね」
クロツグミは、ヒノエの声と仕草そのままに答える。

「しかし、望美様の居場所…当てはあるのですか」
副頭領は尋ねずにはいられない。

ヒノエはこともなげに言った。
「もちろん。景時が書状にはっきり書いているからね」

その場に驚愕が走る。
皆の考えを代表して副頭領が言った。
「よく分かりませんが…罠ではないですか」
ヒノエは笑って答えた。
「一番可能性の高いところから当たっていくのが手っ取り早いんじゃない?」
「む…むう…。では、せめて烏を同行させて下さい」
「心配性だね。目立たないことが一番なんだぜ。
腕っぷしの強いヤツ一人でいいさ」

ノスリの合図で、木の上の影が一つ、動いた。




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[6. 天の時 地の利]  [7. 搦め手]  [8. 再会]  [9. 炎の中で]  [10. 脱出]

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2009.4.2