比 翼

― 幕間 ― 時空を隔てても



庭土を踏む音。
ふわりと漂う花の香。
俺のすぐ隣を歩む、遠いひと。

手入れの行き届きた、けれど京の貴族の邸とは違う、
大らかな伸びやかさと、荒々しささえ感じる庭。
理由は単純なものだ。
低い垣の向こうに見えるのは、突き出た岬と熊野灘。

頑なに視線を前に向けたまま、歩く。

薄曇りの晩春の日。
時折気まぐれに太陽が顔を出す。

隣でぽつりと、淋しげな声がした。
「そうか…帰っちゃうんだね、譲くん…」

振り向かなくても分かる。
あなたがどんな顔をしているか。
今の俺には、つらいだけなのに…。

「俺くらいは帰らないと、大変でしょうから」
少し笑いを含んだ声で答える。
底に混じる苦さに気付かないでほしいと思う。

あなたが悲しむことはない。
俺がいなくても、あなたは一人ではないのだから。

「譲くん、一人になっちゃうんだね」

ドキリとする。

「いやだな先輩、俺、家に帰るんですよ。両親だっているし
一人だなんてこと、ないですから」
「そうだね…」

言葉が途切れ、ちらっと隣を盗み見る。
澄んだ眼で空を見上げている、横顔。

やがて、静かな声がした。
「……ごめん…」
立ち止まる気配。

「先輩、…何を言ってるんですか、俺、謝られることなんて」
向き直ると、声とは裏腹に張り詰めた視線とぶつかる。

「譲くんだけに背負わせることになるんだ、私。
だから、ごめん」

やっぱり、あなたは分かっていた。
いつもみたいに、にっこり笑って、「そっか、元気でね」とでも
言ってくれたらよかったのに。
あなたが気に病むことなんてないんだ。
これは俺が決めたことだから。

「確かに、先輩も兄さんもいなくなってしまったら
大騒ぎだとは思いますけど、仕方ないですよ。
俺のことは心配しないで下さい」
少し笑いながら答える。
が、元の世界に戻った時、そこにいるのは譲一人。
兄と、望美は、行方不明ということになる。
大騒ぎなどと生やさしいもので収まるはずがない。

「うちのお父さんもお母さんも、譲くん家だって、きっと…」
「本当のことを言っても、信じてはもらえないでしょうね」
「うん…」

ぎゅっと唇をかみしめて、それでもうつむかない。
あなたは、そういう人だ。

「でも、帰った後がどうなるかなんて、
今から心配しても仕方ないと思って、俺、開き直ってるんですよ。
そもそも、どの時点に戻るのかすら分からないんです。
あの雨の渡り廊下かもしれないし、あの日の朝かもしれない。
もっと先の時間という可能性もある。第一、俺がこの世界のことを
覚えているっていう保証もないんですから」

「譲くん…、一人で戦うんだね。
そう決めたんだね」

あなたは、まっすぐに核心に切り込んでくる。
「はい」
素直に答えるしか、できない。

「譲くんなら、きっと負けないよ」
「ええ、俺、負けませんよ」

必ず乗り切って、生きていく。
あなたのいない世界を。


海鳥が頭上で鳴いた。
翼を広げたまま、風に乗って大きく弧を描きながら
海へと滑るように飛んでいく。
彼方から押し寄せる潮騒の音。
海に突き出た崖に揺れる花の波。

力強い景色だ。
ここが、あなたの選んだ故郷。
あなたが生きていく世界。

ふいに、いたたまれない気持ちに襲われる。

まだだ。
まだ、言っておかなければならないことがある。

「先輩、帰る前にもう一つだけ、いいですか」
「うん」
「先輩に言うべきかどうか、迷ったんですが、これはたぶん、
星の一族としての、俺の最後の務めなんだと思います」

「龍の宝玉に何かあったの?」
「いいえ、その点は安心して下さい。あの白い石…というか宝玉は
一族に返しました。そういう約束でしたから」
「そういえば、そうだったね」

「先輩に話しておきたいのは、俺から龍の宝玉が消える前、
最後に見た夢のこと…なんです」
「聞かせて、譲くん」
一瞬の驚きから、すぐに気持ちを切り替えたのが見て取れる。
幼なじみの顔から、白龍の神子の顔へ。

「俺が見たのは、北から南に流れる、青い大河でした。
その川を、視界一杯に広がった白い波が、
奔流となって溯っていくんです」

「それだけ?」
「ええ、これだけです。これに何か意味があるのかなんて、
考えるだけ馬鹿馬鹿しいかもしれないですけど」
「でも、譲くんは意味があるって思ってるんでしょう?」
「はい…。眠る前にはまだ首に埋まっていた宝玉が、
この夢を見て起きたら消えていて、
かわりに、枕元に龍の宝玉があったんです。
宝玉の痕が、やけに熱くて…。
このタイミングは、俺には偶然とは思えません」

「最後に見た夢っていうところに、意味があるのかもしれないね」
「そうですね。夢が何かを象徴しているのなら、
白い波は、源氏を表しているのかもしれません」
「あ、そういえば源氏の旗は白…だったっけ」
「そして、方角も、問題です」
「方角?白い波が、北へ向かったってこと?」
「はい。先輩は、俺たちの世界で源平合戦の後に起こったこと、
知っていますか」
「……ええと……」

この世界と、俺たちの世界が辿ってきた歴史の、不思議な相似性。

「神子とか龍神とか怨霊とか、
この世界は俺たちの世界から見たらめちゃくちゃだけど、
なぜか歴史はそっくりなんです。だとすれば、この先、
俺たちの世界と同じ事が起きても不思議じゃない」

「あ!……九郎さんと弁慶さん…」
「二人を匿ったことを口実に、頼朝は奥州を攻め滅ぼしました」
「譲くんの夢は、源氏が北に向かって攻めていくことを
教えてくれたのかな。
ん?でも、歴史はもう変わっているんだよ」
「確かに、源氏が勝ったという結果は同じでも、
その中心になったのは熊野ですね。俺たちの世界では、
熊野は戦の決着をつけるほどの役目を果たさなかった」
「そうだよ、だからきっと、大丈夫」

「……そう…そうですね」

源平の合戦を境に、歴史は大きく変わっている…。
このまま違う歴史を作っていくのか、
それとも結局は大きな歴史の流れは変わることがなく、
俺たちの世界と同じように再び戦が起こるのか…。

考え込んでいた顔に突然、花が開くように笑顔が咲きこぼれた。
「譲くん、ありがとう。
これから大変なのに、心配してくれて」

強張っていた肩からふっと力が抜けた。
心配したつもりが、気遣われてしまった。

「いいんです、忘れて下さい…。
人間、先のことなんて知ってても、いいことなんてないですから」

「でも、譲くんの言葉、覚えておくよ。
戦が終わっても、それで終わりじゃないってこと」

そう、終わりではない。
人が生きて新たな時を歩む限り、その先に新たな歴史が生まれていく。
熊野のその先を俺は知らない。
そして猜疑心に満ちた頼朝の率いる源氏は、ほぼ無傷だ。

だが、俺の役目は終わった。

もう、ここに留まる理由はない。


見送りを断り、足早に立ち去る。


………来なければ、よかったのだろうか。
あなたに会わずに帰ればよかったのだろうか。

あなたはきれいになっていた。
見慣れた仕草の一つ一つが、前よりもずっと
柔らかく、優しくて、桜色の頬は生き生きと輝いて…

あなたは、とてもまぶしかった。


街を抜け、坂を越えて、山道を行く。
幾人もの旅人を追い抜いて、歩く。

薄曇りの空から、太陽が顔を出した。
木々の間に、遠く海がきらめく。

急坂を一気に下りたとき、後ろから大きな声が聞こえた。

「譲くーーん!」

坂の上で、あの人が、子供のように手を振っている。
陽光の下、まぶしく輝きながら。

「元気でねーーー!
忘れないよーー!
私、譲くんのこと、絶対忘れないから!!」

見送らないでいい…と精一杯強がって、あなたに背を向けたのに……
あなたは…どこまでも、あなたのままだ。

どこにいても、いつまでも、それは変わらないのだろう。


先輩……

あなたに一番言いたかったこと……
それを俺は伝えなかった。

そのことを支えに、俺は生きていけるから。

伝えたなら、俺の心は吹っ切れていただろう。
もう二度と、あなたに会うことはないのだから。
でもそうしたなら、きっとあなたの心に、抜けることのない棘を残す。
もう二度と、俺に会うことはないのだから。

あなたの笑顔を曇らせなかった……。
これが、俺が胸を張って生きていくための…ぎりぎりの矜恃。

光の中で手を振る姿が、滲んだ。


―― 白龍!!!

心の中で叫ぶ。

―― 俺を今、帰してくれ!!!

あの人が俺を見ている、この時に…。
あの人を俺が見ている、この時に…。

周囲に白い光が満ちていく。

「譲くん!」
最後の声が、届いた。


さようなら、先輩。


時空を隔てても、もう二度と会えなくても、
俺の想いは変わらない。

ずっとあなたを……愛しています。


時空の狭間に、透き通った言の葉が流れて消えた。





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− 2  秋から冬へ −

[1. 京 鞍馬・五条]  [2. 平泉・熊野]  [3. 策動 六波羅・鎌倉]
[4. 焦燥 六波羅・勝浦]  [5. 暗夜 京邸・勝浦・五条]
[幕間 時空を隔てても]
[6. 秋雨 熊野・五条・堀川]  [7. 使者 法住寺・堀川]
[8. 堀川強襲]  [9. 挟撃]  [10. 雌伏]

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番外的回想編。
時期的に晩春という書き方をしましたが、旧暦ではもう夏です。
でも何となく、春の終わりの方がいい。

バランスの取れない話になりましたが、これがめいっぱいです(滝汗)。
ごめんなさい×100回、謝るしかありません。
一応これでも、本編に繋がっているのです(汗)。

さて、 「果て遠き道」では異世界に残った譲くんを描きました。
対してこちらでは元の世界に戻っていく譲くん。
他キャラエンド前提であるだけに、どちらも痛さが伴うのは
譲くんというキャラの性格上、仕方ないのかもしれません。
でも、どのような立場であれ、彼にはいつも胸を張っていてほしいと思うのです。
短いエピソードの話ですが、そこに焦点を当てて書いてみました。
譲くんの剛にして真っ直ぐな部分(管理人の大好きなところでもあります)が
少しでも伝わりましたなら、幸いです。

2008.10.22