7. 使者 法住寺 ・ 堀川
錦に彩られた庭に、色あせた葉がはらりと舞い落ちた。
地に落ちて、錦の一部となる。
「さても、一枚の葉を追うのは難しきことよの。
我が目が見るのは、その葉が宙を舞う間だけのことじゃ。
木に在っても地に落ちても、多くの葉に混じり、区別は付かぬ」
後白河法皇は、嘆息と共に視線を戻した。
そこには、精緻な飾りの施された経箱がある。
手に取れば、ぞくりとするほどなめらかな感触。
側に控えた若い貴族に、言わずもがなのことを尋ねる。
「奥州よりの使者は帰ったか」
「はっ」
「丁重に見送ったであろうな」
「はい、仰せのままに」
法皇は目を細めた。
「鎌倉が裏で動き始めたようじゃの」
「さ、さようでしょうか」
法皇の話題が各所に飛ぶことに、未だ慣れない貴族であった。
彼にとっては癪なことに、法皇は、話しについて行けぬ自分の様を面白がっている。
だからといって、分かったようなことを言っても、すぐに底が知れるだけ。
鋭い洞察力を見せて一目置かれたいとの願いは叶わず、
不本意ながら、彼は一方的な聞き役だ。
「あの使いの者、藤原基成に仕えていた男よ」
これは、彼にも分かった。
「奥州国守藤原秀衡様の御正室は、確か基成様の」
しかし、得意気に知識を披露してみても、法皇にとっては知っていて当然のこと。
何の感銘も与えられなかったようだ。
法皇の口元に、薄い笑いが浮かぶ。
「白川の関、不和の関を越えて参じるゆえ、
これからも目通り願いたい…とな」
「法皇様のご尊顔を拝するは、東の夷にとっては、
この上も無き名誉でありましょう」
すかさず持ち上げにかかる。しかし、
「世辞などよいわ」
一蹴されてしまった。
「そ、そのような…私は本心から」
慌てて言葉を探す若い貴族の目の前に、法皇は奥州より
贈られた経箱を差し出した。
「これを見よ」
「は?」
「この経箱一つで、奥州の力が知れようというもの」
「はあ、実に美しいと存じます。
鄙の地にもこのような物があるとは、意外でございます。
京の匠に法外な値で依頼した物に相違ないかと。」
「そう見るか」
「は?」
法皇は、箱の蓋に指を滑らせた。
「七色に光るは、遙か南より招来した貴重なる貝じゃ。
こうして触れても、塗りとの境目は分からぬほど」
法皇は喉の奥で笑った。
「かつて鳥羽法皇の発願により、余が神護寺に納めた経櫃も、
これほどの精緻な造りではなかった」
「はあ…」
若い貴族は、答える術を失った。
法皇が箱の蓋を開いた。
「おおおおおっ!!」
貴族は思わず驚嘆の声を上げてしまう。
黒漆の経箱の内側は、一面眩い金色に覆われていたのだ。
「つまりは、鎌倉よ」
返事はなかった。貴族はまだ驚きから覚めず、ぽかんと金色を見つめている。
法皇は蓋を閉じた。
「今は鎌倉と奥州が敵対する理由がない。
ならばと、親しきを装いながら、鎌倉が無理難題を押しつけたのであろう」
「無理難題…と言いますと?」
「まだ分からぬか。この金色の経箱の意味が」
「はい?」
「使いの者は、これからも奥州の金を直接京に納めたい、
と遠回しに言ったのだ」
「遠回しにしか言えぬから…ですか?」
法皇の顔がほころんだ。
「やっと頭が働いてきたようじゃ」
貴族の顔もほころんだ。
「恐れ入りましてございます」
「途中の街道で鎌倉に止められなかったか、と問うてやったら
使いの者の顔色が変わった」
――老獪なお方だ。
貴族は、背中が少し寒くなった。
「平泉と都との繋がりを断ち切るには、
奥州よりの黄金を、鎌倉が手中に収めるのが早道。
そうは思わぬか」
「まさしく!」
「相手が頼朝なれば、圧力と同じ。
そうでなければ、秀衡はこのように見え透いたことなどせぬ」
「仰るとおりでございます!」
法皇は再び庭に視線を移した。
「奥州は、朝廷の主立った参議にも手を回したはず。
だが鎌倉が退くこともないだろう。
となれば、一波乱無ければ収まるまい」
「戦…でございましょうか」
しかし法皇は答えず、気まぐれにはらりと散る葉を見ている。
「平泉の紅葉は、もう終わっているのかのう…」
それは小さな呟きだった。だから答えを求められていないのだと分かる。
若い貴族はほっとした。
弁慶が六条堀川に着いた時には、雨脚が弱まっていた。
もう夜は更けている。当然ながら館はしんとして音もない。
門も固く閉ざされている。
弁慶が手綱を引くと、馬は後ろ足で立ち上がり、高く嘶いた。
乗り手の気持ちが伝わったのか、少なからず興奮している。
弁慶は嘶きに負けぬほどの大声で呼ばわった。
「武蔵坊弁慶参上!!開門願う!!」
雨音の中に、声が響き渡る。
たやすく入れてもらえるとは思っていない。
門番の返事なくば、塀を乗り越えようと考えている。
たとえ応答があったところで、押し問答になれば時間が惜しい。
その時は、門をたたき壊すか…と覚悟していた弁慶だ。
しかし
「どうぞ!」
「お入り下さい!」
眼前で門が開く。
もしや、罠だったか…?!
瞬間的に身を退こうとした弁慶は、門の内に立つ人影を認めた。
覆いを付けた松明に後ろから照らされて顔はしかと分からない。
それでも、その姿は見間違えようもなく…
「九郎!」
「何をぐずぐずしている、入れ!」
ざああっと音を立て、雨が激しく降り出した。
しばしの後、弁慶と九郎は館の中で向き合って座していた。
二人の間には、小さな火桶がある。
室内に灯りはなく、桶の熱い炭だけが赤く光っている。
今、館は再び、静寂の中にある。
その静けさの底に漂う張り詰めた空気は、外からは知るべくもない。
「驚きました」
弁慶が先に口を開いた。
「何に驚いているのか、俺にはさっぱり分からん」
「僕があっさりとここに入れてもらえたこと。
そして、このような深夜にも関わらず、
あっという間に戦う態勢を整えられたことです」
今度は九郎が驚いたようだ。
「あきれたやつだな、お前は。
この前自分で言ったくせに、もう忘れたのか」
「何のことでしょう。僕が九郎に言ったのは、
僕が源氏とは袂を分かった者だ、ということですよ」
「それだけではなかったろう。
だいたい、お前がそんなことを言い出す時には、
腹に一物秘めていると決まっている」
「ふふっ、あんまりな言われようです」
「お前とは長いつきあいだ。それぐらいのことは分かる。
そしてもう一つ、腹黒なお前は、肝心なことを軽く言う癖がある」
「僕が…腹黒ですか、心外だな」
「最後の最後にお前が言ったことを、俺は心に刻んだ」
「九郎……君は…」
「自分の周囲に注意せよ、とお前は言った。
落とし穴がある、ともな。
お前からの忠告、無駄にするつもりはない」
「それでは、あの時の僕の言葉を信じて、
こうして準備を整えていたんですか…?」
「ああ、そうだ」
そう言って九郎は眼を伏せた。
「俺は…本当は、こんなことをしたくはない。
あの時の話の流れから考えれば、
お前の忠告は、源氏…からの攻撃に備えよ……
ということだからだ。
だが……」
食いしばった歯の間から、九郎は言った。
「この堀川にいるのは、長年俺についてきてくれた者ばかりだ。
みんな、たいした報償も無いのに命をかけて戦ってきてくれた。
万が一の時が来たとして、俺の勝手な思いこみとこだわりで、
彼らを無駄死にさせるわけにはいかん」
弁慶は、小さく笑った。
「負けました。九郎にそこまで読まれるとはね。
いや、そこが総大将としての九郎の器なんでしょう。
軍師とは、眼を置くところが違う」
「同じでは意味がないだろう」
「はは…その通りです。
けれど……僕の言葉だけではないのでしょう?
この警戒ぶり…」
「…残念だが、その通りだ。
政子様のご上洛が近いというのに、鎌倉からは何の沙汰もなく、
報せの類は全て六波羅に行っているのだ。
しかも、六波羅に足を運んでも、
全てはこちらで取り仕切るというだけで、門前払いも同然の扱いだ」
「九郎と距離を置こうとしているようですね」
「ああ、そのように感じられてならない。
いやしくも俺は鎌倉殿の弟だ。
源氏のために働きたいと思うのは当然のことなのだが」
「鎌倉からの沙汰といえば、任官の件もまだ返事がないのですね」
「梨のつぶてだ。何度文を送っても、全く答えがない。
俺の役目は京の守護。それに徹すればよい…と六波羅からは
事ある毎に言われるが、官職に就いていない今の俺では、
なかなか思うとおりに動けない」
「苛立つ気持ちは分かります。けれど」
「ああ、ここで短慮はならんと分かっている」
九郎は長く息を吐き出した。
次第に閑職へと追い込まれている状況を憂いてみたところで、
何も始まらないのだ。全ては兄頼朝の心一つ。
長い沈黙が下りた。
雨音が室内までも冷たく満たしていく。
今夜は、何事もなく終わるか……
弁慶がふと思った時だ。
雨音に混じり、かすかに武具の触れ合う音。
九郎と弁慶は同時に立ち上がっていた。
「行くぞ!」
低く抑えた声で、九郎が合図すると、控えていた武士が
皆に報せに走っていく。
伏して警戒していた館の者達は、敵を迎え撃つべく、音もなく態勢を整えた。
「分かっていますね、九郎。
敵の正体を見極める必要があります」
「ああ、皆にはしかと命じてある。
決して敵将を討ち取とるな、とな」
「ええ、生け捕りにして全て白状させるのです
覚悟は、できていますね、九郎」
「無論!」
二人は雨の中に飛び出した。
鬨の声が上がる。
館の塀を乗り越え、何十人もの武者が飛び降りてきた。
[1. 京 鞍馬・五条]
[2. 平泉・熊野]
[3. 策動 六波羅・鎌倉]
[4. 焦燥 六波羅・勝浦]
[5. 暗夜 京邸・勝浦・五条]
[幕間 春 時空を隔てても]
[6. 秋雨 熊野・五条・堀川]
[7. 使者 法住寺・堀川]
[8. 堀川強襲]
[9. 挟撃]
[10. 雌伏]
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2008.11.13