6. 秋雨 熊野 五条 堀川
「何かと思えば、異な事を聞かれるものだ」
泰衡は口の端を少し上げた。
「今の世で九郎義経の名を知らぬ者はいない。
そうは思われぬか、神子殿」
少し上げた口元から、嘲笑とも冷笑ともつかぬ笑いが漏れた。
――な、何よこの人、そんなこと聞いているんじゃないのに。
望美は少しむっとする。
が、そう取られても仕方のない言い方をしたのかもしれない。
「違います。私が聞いているのは…」
しかし泰衡はそれを遮って言った。
「九郎は平泉に四年ほどいた。
神子殿が尋ねたいのは、こちらのことか」
「そ、そうです」
機嫌が悪いのだろうか。質問の意味を分かっているなら
何もこんなに意地悪な答え方をしなくても…。
「九郎は十年ほど前、奥州藤原氏を頼って平泉に下向してきた。
御館の庇護の元にある源氏の御曹司だ。
嫌でも顔くらいは会わせるが」
――九郎さんのこと呼び捨てだ。親しくしていたんだろうか。
「九郎さんとは仲よしだったんですか」
泰衡の眉が高々と上がり、次いで眉間に深い皺が刻まれた。
ばさりと外套が音を立て、泰衡は望美に背を向けて歩き出す。
「そのようなことに、何の意味がある」
「あ、待って下さい」
ちら、と泰衡は振り向いた。切り捨てるような口調で答えが返る。
「戯れ言のやりとりはここまでにさせてもらおう。
先を急がねばならんのは、熊野別当殿も同じだろうからな」
唖然として言葉を失った望美を置いて、泰衡は急坂を早足で上って行ってしまった。
「話は終わったかい、姫君」
話の間少し離れていたヒノエが、いつの間にか隣に来ていた。
すっと望美の腕を取り、歩き出す。
「九郎さんは、あんな人と四年間も一緒にいたんだね」
「怒ってるみたいだけど、どうしたんだい」
「だって泰衡さんて、意地悪なんだもん」
くすっとヒノエは笑った。
「可愛いね、姫君」
「むっ…、ちょっと、ヒノエくんまで」
「ははっ、悪かったね。
お前があんまり素直だからつい笑ってしまった」
「もうっ、からかわないで!」
「お前を怒らせるなんて、とんでもないけど
泰衡は、お前が思ってるほど悪いやつじゃないさ」
「でも人の質問にまともに答えてもくれなかったんだよ」
「そうかい、泰衡が言った言葉をよく思い出してごらん」
ヒノエの言葉に、望美は気持ちを落ち着け、さっきの会話を思い返してみた。
――私は泰衡さんに、九郎義経を知っているか、と尋ねたのだ。
それに対して返ってきた答えは……
「……泰衡さん…私の最初の質問には、きちんと答えてくれたんだ」
「ね、そうだろ」
「だったらどうして」
「そういうやつなんだよ、泰衡は」
「そうなのかなあ……」
そのまま考え込んでしまった望美に、ヒノエの眼にはかすかな憂いの色が浮かぶ。
ややあって、ヒノエは望美を引き寄せ、小声で言った。
「姫君が考えていること、当ててみせようか」
「え……う、うん…」
半ば上の空で答えた望美の耳元に、ヒノエはささやいた。
「いずれ泰衡が九郎の敵に回る……。
違うかい?」
冷たい…。
刺すように冷たい水だ。
暗い…。
水の中は…こんなに暗いものなのか。
痛みが熱となり冷たさとなって、身体を貫く。
それでも必死でもがく。
この水は、私の知らぬ水。
私の知っているのは、まぶしく明るい海。
兄上と、魚を追って泳いだ……
兄上……
薊は眼を開いた。
周囲は薄暗い。かすかに足元から暖かさを感じる。
頬にちくちくと菰が当たる。
起き上がろうとした瞬間、激痛が走り、一気に記憶が蘇った。
菰に爪を立て、悲鳴をこらえる。
痛みが少し和らぐと、薊は横たわったまま少しずつ身体の向きを変えた。
ちろちろと燃える囲炉裏の小さな炎。
床があるのは、狭い小屋の中で自分のいる奥の一画だけ。
粗末な小屋だ。
九郎の軍師は、このような所に住んでいるのか。
絶え間なく聞こえてくる川の音。
ここは五条河原、少し流されたようだ。
それが幸いしたか。
弁慶という九郎の軍師が五条橋で薬師をしていると、
人の噂で聞いてはいた。
堀川に来ていた街人達が、話していたのだ。
弁慶さんが戻ってくれれば、五条でも診てもらえるのに…と。
弁慶はいつの間にか、戻っていたようだ。
戻って、こうして頼みもしないのに私を助けた。
いや…助けてくれた…のだ。源氏の者に助けられたのか、私は…。
弁慶だけではない。私は、あの熊野別当にも…助けられた。
少し首を動かし、束ねた髪の中に針がまだあることを確かめる。
私から一度は取り上げておきながら、別当はこうして返して寄越した。
薊は唇を噛む。
堀川にいた最後の日、別当の指示のままに、隠されていた街娘の着物を着て、
手伝いの者として一日働いたのだった。
あの日は……さんざんな思いをした。
朔という尼僧に正体を見破られ、あろうことか別当の女は、
熊野に帰ろう、などと言い出した。
そして元の姿に戻るべく、着物の隠し場所に行ってみると、
そこには、いつもの汚い着物の間に、別当自身が取り上げたはずの毒針と、
紙に包まれた銭があったのだ。
その紙には一文字、「逃」とのみ。
憤りで眼がくらんだ。
認めたくなかった。敵に情けをかけられた、などとは。
だが、このまま逃げるべきなのは理解できる。
京にいる限り、法皇の関係者にいつ会うかもしれないのだ。
さらには、ここ堀川でも、街娘の形は恐れていた通り目立ちすぎた。
幾人もの街人や堀川の武士までが、逢瀬の約束をと、
しつこく声をかけてきている。
今も、適当に教えた嘘の名を呼びながら、薊を探す声が聞こえてくる。
逡巡している時間はない。
逃げるしか、なかった。しかし、京から出ることはできなかった。
なぜ…なのだろうと、自分でも思う。
恨みたい。
恨めば、生きる力が湧く。昔のように、兄上達と共に辛酸をなめたあの頃のように。
だから源氏の新たな牙城近くに居を定めて、憎しみをかき立てようとした。
憎めば、道が開ける。
やるべきことが、見えてくるはずだ。
違う。
現に私は、何をした。
九郎義経など、討たれればよいのに。
たとえ相手が弁慶であろうと、黙っていればそれですんだのに。
その時、薊の眼が大きく見開かれた。
息を潜め、耳をそばだてる。
川音に混じり、聞こえてくるその音は――。
月が隠れると、足元も見えない闇になる。
弁慶は、とある路地の奥に飛び込んだ。
そこに住んでいるのは、昔からのなじみの者。小さいながら、屋敷を構えている。
門扉を叩き、誰何の声に小さく答えて、屋敷に入る。
しばしの後に屋敷から出てきた弁慶は、馬上の人となっていた。
掲げた松明が行く手を照らす。
これほど急ぐべきなのかどうかは分からない。
しかし、あの娘に負わせた傷は……
弁慶は前を見据えたまま、考えている。
手足に矢が刺さっても、急所を外れていれば、動くことはできる。
だが娘を狙い打った矢は過たず、動きを封じる箇所に刺さっていた。
狙ったのだとしたら、恐ろしく手練れの者がいるということだ。
さらには、あの娘は言葉の断片を聞いただけで、すぐに襲われたと言っていた。
瞬時に判断を下し、何の躊躇いもなく最良の手を打てる者がいる。
そして六波羅周辺で娘を探している様子がなかった。
ということは、取り逃がした娘を追うよりも、本来の目的を達するために
動いていてもおかしくはない、と考えられる。
「雨を待つ」というのは、雨音に紛れて密かに事を起こそうということなのだろうが、
謀略の一部と、謀略そのもの漏洩、どちらを優先させるかと弁慶が問われたなら、迷う余地もない。
その時ぽつり…と、頬に冷たいものが当たった。
「雨……ですか…」
弁慶は手綱を握り直し、小さく笑う。
「源氏と関わるとろくな事がない…と僕は言い捨てました。
まず、堀川の館に入る算段から始めないといけないのでしょうね…」
馬の速さに合わせるかのように、雨脚が強まっていく。
雨に打たれ、消え入りそうな松明の灯りの向こうに、
雨夜の闇は深く広がっていた。
[1. 京 鞍馬・五条]
[2. 平泉・熊野]
[3. 策動 六波羅・鎌倉]
[4. 焦燥 六波羅・勝浦]
[5. 暗夜 京邸・勝浦・五条]
[幕間 春 時空を隔てても]
[6. 秋雨 熊野・五条・堀川]
[7. 使者 法住寺・堀川]
[8. 堀川強襲]
[9. 挟撃]
[10. 雌伏]
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「遙か」オリジナル設定年表によりますと、
九郎さんがと弁慶さんが平泉に着いたのは1176年。
満年齢で、九郎さんがお誕生日前なので12歳、弁慶さん16歳。
今の感覚で行くと、高校生と小学生が京を出奔して岩手県まで。
道中苦労したことでしょうね、弁慶さん…
……となりますが、
昔の人の精神年齢は高かった&ここは「遙か」な世界ということで、
いろいろ脳内補正がかかります(笑)。
小学生相手に荒事…な弁慶さんて、想像つきませんから(笑)。
第一、元服しちゃえばもう大人ですものね。
さらに数え年に変換して納得力を発揮する(笑)。
14歳と17歳……うん、何とかこれなら。
まあ、満年齢に直しちゃうと、ヒノエくんと譲くんは同い年…。
2008.10.29