9. 挟 撃
夜陰の雨に火花が散った。
九郎めがけて振り下ろされた大刀を、薙刀の先端が受け止めた。
寸前で刃をかわした九郎の髪が、ザッと切り落とされて宙に舞う。
土佐坊が薙刀の主に目を走らせれば、闇に溶ける黒い外套から
伸びた白い腕が、長い柄の端を握るのみ。
馬鹿な……重い斬撃を、この態勢から止めるとは。
力自慢の土佐坊にとり、自分以上の力を見せつけられるのは驚異であった。
その一瞬の動揺を突き、土佐坊の大刀が跳ね上げられた。
それでも体勢を立て直すと、再び九郎に向かい打ちかかる。
さすがの判断と言うべきか。
弁慶の薙刀は、土佐坊を貫くこともできた。
それをしなかったということは、即ち――
儂を生け捕ろうとは思い上がったものよ。
その前に、お前の素っ首もらい受ける!
九郎の剣が土佐坊の攻撃を受け止めた。
他の者とは違う、執念のこもった一撃に、九郎は悟る。
「貴様が大将か?! 名を名乗れ!」
「お前如きに名乗る名など、無い!」
「そうか…その答え、貴様が将だな」
九郎は刀身を返した。
「弁慶、手出しは無用だ」
「いい気になるな、若造!」
言うなり、土佐坊が斬りかかる。
その時弁慶はすでに別の敵を探していた。
九郎に矢を射た者は闇に紛れてしまったが、
このまま逃してはならない。
あの僧形の男共々、ここに先回りしてきたのだ。
ということは、九郎の思惑を読んだばかりではなく、
館の配置に通暁していると考えられる。
しかしそやつは、弁慶が九郎を助けるため薙刀を振るった僅かの間に、
巧みに姿を隠してしまった。
僧形と対峙した九郎のことを案じる必要はない。
自身の薙刀で斬撃を受け止め、その動きを見て取った。
九郎に敵う相手ではないのだ。
「土佐坊に勝ち目はない」
館に侵入した時から土佐坊に付き従っていた男が、うっそりと言った。
闇雲に九郎を追おうとした土佐坊を押しとどめ、
裏手の庭に先回りして潜むよう進言したのもこの男だ。
矢を射るやいなや場所を移動し、しばし成り行きを見ていた。
だが、九郎が峰打ちのため刀身を返したところで、その場を離れたのだ。
弁慶が探し始めた時には、未だ戦い続ける土佐坊を残し、
すでに庭から姿を消していた。
そして今、人気のない母屋の床下で、仲間と覚しき者二人と合流している。
戦いに加わらず、館に侵入してすぐ身を潜めた者達だ。
「機会は一度きりだった。土佐坊はそれを逃したのだ。
剣の腕ははるかに九郎が勝る。終わりだな」
「では、次の手を…?」
「そうだ。六波羅が動いている頃だが、合図の準備はいいか」
「はい、外に残った者が待機しています」
「では、その時までゆるりと休もうか」
柱の一つに寄りかかると、男は眼を閉じた。
「しかし、あの法師は始末しないのですか」
「奥駈道での借りを返すよい機会です。
行かせて下さい」
仲間の二人が口々に言った。
男は眼を閉じたまま答える。
「我ら、法師抹殺の命は受けていない」
「だが、これを逃す手はありません」
「闇に乗じて一斉にかかれば」
「同じことをして、お前達は一度失敗した」
男の言葉に、二人はぐっとつまった。
「奥駆道でのお前達の失態を、今になって取り戻すなどできぬ。
今なら俺が手を貸すとでも、思っているのか」
「し…しかし…」
「命を違えるなら、容赦はしないが」
男は座ったまま手を腰の剣に置き、ゆっくりと鯉口を切る。
「くっ…そのようなことは…」
「ここで…九郎義経を待ちます」
二人はそれだけ答えると、軒近くに移動していった。
背中で、男が鍔を戻す音を聞く。
弁慶が思った通り、勝負はすぐに着いた。
峰打ちとはいえ、土佐坊はしたたかに傷を負い、そのまま捕らえられた。
生き残った襲撃者達も同様に捕らえられ、武器を取り上げた上で
雑舎の一つに集められている。
他に潜んでいる曲者がいないか松明を持って探す者、
怪我人を屋内に運ぶ者、手当をする者、遺骸を運ぶ者等々で、
館の中は先刻以上に慌ただしい。
雨がいつのまにか上がっている。
夜明け前の闇の濃い刻限。空の月は厚い雲に覆われて見えない。
そのような中、九郎の前に土佐坊が引き立てられてきた。
怪我人の手当をしていた弁慶も九郎の後ろに控えている。
庇の下に小さな篝火を置き、九郎は膝を付く土佐坊を見下ろした。
縄で後ろ手に縛られたまま、土佐坊は下から九郎を睨めつける。
館に、土佐坊の顔を知っている者はいなかった。
正体も目的も依然として知れない。
これだけの犠牲者が出た中、夜明けを待つ時間すら惜しい。
「この夜討ち、俺の首を取ろうという目的は何だ」
「大将の首を討ち取るは当然のこと」
「九郎義経と知ってのことだろう。その理由を聞いているんだ」
土佐坊は答えない。
「名乗ってもらおうか。」
「言ったであろう。お前如きに名乗る名など」
その時、ひん…と弓の音がした。
篝火が奥に向かって倒され、
周囲が暗くなる。灯りに慣れた目に、一瞬闇が降りた。
そして全てのことが同時に起きた。
「何!」
「曲者がまだいたか!」
皆が剣を抜き放ち、周囲を見回す。
その間隙を縫い、土佐坊の真後ろから影が二つ、簀の子に飛び上がった。
すさまじい殺気が九郎を襲い、
反射的に剣を振る。
その時、何かを断つ鈍い音。戦場にあった武士ならば聞き誤らぬ音だ。
次いで「うぐっ…」と、くぐもった短い断末魔の声。
影が走り去り、篝火を元に戻した時、館の武士達が見たのは、朱に染まった土佐坊であった。
「ど、どういうことだ…。なぜ、曲者の頭目が…」
呆然とする九郎の後ろで、弁慶は唇を噛んだ。
――まさか…最初からこれを…。
暗澹とした未来を垣間見せるように、弱々しい曙光が射した。
簀の子の赤い血だまりに顔を埋め、土佐坊は事切れている。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
やがてそれは表門の前で止まる。
幾頭もの馬が嘶く中、大きな声が呼ばわった。
「六波羅からの使いである!開門せよ!!」
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2008.11.29