比 翼

− 2  秋から冬へ −

5. 暗夜  京邸 ・ 熊野 ・ 五条


「兄上、言っていることがめちゃくちゃだわ」

冬が一足早く訪れたかと思うほどに寒い朝のこと。 京邸の一室で朔と景時が珍しく言い合いをしている。 いつもは穏やかな朔が、少々立腹の様子。つまり、景時の分はかなり悪い。

「いや〜、だからね、そんなに難しく考えないでさ」
「近寄るなと言ったり、隠れろと言ったり、わけが分からないわ。
第一、この京邸で、私が逃げ隠れしなければならないことが起きるというの?」
「やだな〜。そんなことあるわけないでしょ。
梶原党のみんなは一応武士なんだからさ。
だから万が一、の話だよ。京だって、けっこう物騒だからね」

朔はかすかに眉をひそめた。
「苦しい言い訳に聞こえるのだけれど」
「え、ええぇ〜?そう?オレ、本気で言ってるんだよ」
「兄上、何かあったの?
この頃、何をしていても上の空で、落ち着きがなくて、
そうかと思うと、急にこんなことを言い出して…」

景時はがっくりと肩を落として見せた。
「ああ〜言われちゃったよ〜。
オレって、確かにいつも落ち着きがないよね」

「兄上がそんなでは困るわ。今は大事な時なのでしょう。
もうすぐ鎌倉から政子様がいらっしゃるんですもの。
政子様の警護は、兄上が務めるのではなかったかしら」

「う…うん。その通り…だよね。
オレ、がんばらなくちゃね〜」
景時は笑って答えた。

しかし、朔は景時をじっと見つめたまま、笑みを返そうとしない。
「兄上」
「は、はひっ」
「何を隠しているの?」
「いっ…いやいやいや、オレが朔に隠し事なんて」
「兄上……」
朔の大きな瞳が、潤んでいる。

「あ〜〜っ!朔…もしかして泣いてるの?
困ったな、そんな…」
景時は慌てて、涙を拭うものを探し回る。

朔は景時から視線をそらさぬまま、ぽつりと言った。

「私、兄上のことが…心配だわ」

「朔…」
一瞬、景時が真顔に戻った。

朔には、それだけで十分だった。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



山の気はいいものだ。
熊野の山は、奥州の山々とは、全く違う匂いがする。
風の色も、緑の様も、泰衡が初めて感じるものだ。
だが、深い森を巡る大気に満ちた力は同じ。

足の下に、揺るがぬ大地を頼もしく感じながら、泰衡は熊野の山道を 進んでいる。平泉から一緒に来た藤原家の郎等と共に、 ヒノエ率いる熊野水軍と同道しているのだ。
彼らが目指す先は京。 皆、黙々として足を運んでいる。

船無き水軍か…。
大汗をかきながら山道に難渋する者を見て、泰衡は こっそりと溜飲を下げる。

とはいえ、この有様では別当の一行としては、あまりに無防備。
だが泰衡は、水軍衆の中に、彼らとは異なる気を持つ者達が 混じっているのを感じ取っていた。

熊野の烏とやらだろう。
熊野は様々な手勢を使えるか。

ちり…と焦燥が胸を焼くが、詮無いことは捨て置け、と自らに命ずる。
今は、なすべき事をなすまでだ。

しかし……

泰衡は足を止め、後ろを振り向いた。

山道を男達と同じ速さで歩いてくる少女と眼が合う。
その隣には、少女と手をつないだ(軽薄なやつだ)ヒノエがいる。

少女はヒノエの妻だという。源平の戦で名を馳せた源氏の神子…白龍に選ばれた神子だったそうだが、 その言葉から想像する神々しい乙女とは、大きく違う。
視線がもろにぶつかっても、じいっとこちらを凝視したまま、 眼をそらそうともしない。気が強いのか、無遠慮なのか、単に無礼なのか。

いずれにせよ、先程から少女の視線が気になって仕方がない。 落ち着いて考え事もできぬというもの。

泰衡はつかつかと少女に近寄り、眉間に皺を寄せ、黙って見下ろす。
少女は平然とその視線を受け止めた。

「俺に用か」
平泉の郎等達は、その口調に震え上がった。
しかし、少女は動ずることもなく答えた。
「ええ、教えてほしいことがあるんです」

泰衡は眉をほんの少し動かしただけ。

「オレの目の前で、姫君に熱い視線を送られたんだぜ。
喜んでお答えするんだね」
ヒノエがからかうように言う。
一方、少女の眼は、真剣そのものだ。

素っ気なく応じる。
「言ってみろ」

少女は、何かを振り切るように言った。
「泰衡さん…
あなたは九郎さんを…源義経を、知っているんですか」



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



「いったい何者でしょうか。
娘さんにこんな酷いことをするなんて」

鴨の河原。
水際まで生い茂った蘆の間に、矢に射られた若い娘が倒れている。
水がちゃぷちゃぷと小さな音を立てて岸辺を洗い、 娘の半身は水に浸かったままだ。

「よかった、まだ息がある」
弁慶は突き刺さったままの矢に触れぬようにしながら、 軽々と娘を抱え上げた。

時折気まぐれに月が顔を出すだけの暗夜。 しかし、弁慶にとっては勝手知ったる五条の河原だ。 枯れた蘆にも、ぬかるみにも足を取られることなく、 橋のたもとの診療所へと娘を運ぶ。

しかし菰の上にうつぶせに娘を寝かせ、傷に灯りを近づけた時、 その顔が初めてはっきりと見えた。はっとして、弁慶は息をのむ。

娘が鍛え抜かれた身体をしていること、女ながら少々の荒事もこなすであろうことは、 抱えた時に、感触で分かっていた。 そのような娘が、それほどたくさんいるわけではないことも、 厄介事の渦中にいるであろうことも。

だが、まさか勝浦の路地裏で出会った娘だったとは。

「ふうっ、驚きましたね。
望美さんの敵を助けることになるとは」

思わずそう呟いた弁慶だが、素早く傷を調べると、躊躇うことなく手当の準備にかかる。

娘に刺さった矢は、猟師のものではない。明らかに武士の使うものだ。 宵の頃とはいえ、今どき街中で矢を放つなど、よほどのことがあったのか、 あるいは、咎められても言い逃れができると踏んでいたのか…。
しかし、明らかに命を狙っておきながら、鴨の川一帯に、その行方を探している様子はない。 娘が悪事を働いたというのなら、堂々と追ってもおかしくないはず。

もしかすると…

「う…う…」
娘が小さく呻いた。
傷が痛むのだろう。拳を握りしめ、ぎゅっと眉根を寄せて歯を食いしばっている。 悲鳴を上げることもしない…。 それが許されぬ日々を送ってきたのだろう。

弁慶はそっと声をかけた。
「今、手当をしますから、もう少しがまんして下さい」

びくりと娘が震え、次に必死で悲鳴をこらえた。
「お…まえは…だ…誰」
振り向こうとするが、痛みのために首を捩ることができない。

「僕は、武蔵坊弁慶といいます。
医術の心得がありますので、安心して下さい」
顔さえ見られなければ、名前だけであの時の法師と結びつけることは できないはずだ。

「弁…慶…」
娘は、その名を口の中で繰り返した。

「傷口を見せてもらいますよ。
着物を切らないといけませんけれど、許して下さいね。
ああ、恥ずかしかったら眼をつぶって…」

「九郎…義経…」
娘が、弁慶の言葉を遮った。

「九郎?」
思いがけないその言葉に、弁慶は手を止めた。

でも、そうか……
熊野攪乱を企むこの娘たちの背後には、一時期、源氏がいたのだった。 九郎の名を知っていても不思議はない。 第一、この京で九郎の名を知らぬ者はいないのだ。 弁慶の名前も、義経の軍師として、そこそこ知れているといっていい。

だが、それだけではなさそうだ。
痛みをおしてまで、口に出した言葉。九郎のことで、何か言いたいのだろうか。
ならば、聞き出さなければならない。

「九郎が、どうかしましたか?
僕は以前、九郎と一緒に戦に出ていたんですよ」

「…堀川……機を…待て……雨…」
一言ずつ絞り出すようにして、娘は言った。

「どういうことですか?」
「これだけ…聞こえた…
東国の武士……話していた…後は…逃げた」

様々な可能性がある。
偶然、芝居、勘違い、そして、危急存亡の時。

少なくともこの娘は、堀川という言葉から九郎の館を類推した。
その立場は如何なるものなのか。

しかし、弁慶の心はすでに決まっていた。
娘の口から九郎の名が出た、その瞬間に。

「僕が九郎に、そのことを伝えればいいんですね」
そう言うと、娘の顔に安堵の表情が浮かぶ。

芝居とするなら、ずいぶん手の込んだことだけど…、
それでも僕は、看過することはできない。

「今日はこれを飲んで、ゆっくり眠って下さい」
素早く最小限の手当をすませると、娘に薬湯を飲ませた。

そして……

黒い外套をかぶり、音もなく外へ出る。
冷たい風の吹く暗夜。
弁慶は西へとひた走った。




次へ




− 2  秋から冬へ −

[1. 京 鞍馬・五条]  [2. 平泉・熊野]  [3. 策動 六波羅・鎌倉]
[4. 焦燥 六波羅・勝浦]  [5. 暗夜 京邸・熊野・五条]
[幕間 時空を隔てても]
[6. 秋雨 熊野・五条・堀川]  [7. 使者 法住寺・堀川]
[8. 堀川強襲]  [9. 挟撃]  [10. 雌伏]

[比翼・目次へ]

[小説トップへ]

冒頭の梶原兄妹は、何を言い争っていたのか?
爆弾質問をした望美の真意は?
謎が謎を呼び、次回、波乱の展開へ!!


↑ ↑ ↑ ↑ ↑

少年マンガのキャプションによくあるパターンを真似してみました。
真似しただけですので、波乱はいつになるか、定かではありません。
でも、必ず大波乱は起きますので、安心して下さい。(ん?)

2008.10.7