比 翼

− 2  秋から冬へ −

2. 平泉  熊野


「くれぐれもよろしく…とな」
「一度言えば分かる」
「あやつへのみやげの酒は積み込んだか。
あれは、上物だぞ。飲んで驚けと伝えよ」

じろり……
にやにやと笑いながら出立の準備に口を出してくる秀衡を一睨みするなり、 泰衡は不機嫌さを隠そうともせず答えた。
「私は遊山に行くわけではない。御館はとうにご承知と思っていたが」

しかし、秀衡の顔に張り付いた笑いは、そんなことで消えはしない。
「もちろんじゃ。だが、せっかく西国へと初の旅に出るのだ。
あれこれ見るのも、よい経験となろう」

「フッ…経験とは、また悠長なことを申される。
この忙しい時に、無駄足になるかもしれぬというのに」
「だが、それを覚悟で即断したのはお前ではないのか」
泰衡の眉間の皺が深くなった。
「奥州を離れている時間が惜しいのは、事実。
私は正直に申し上げたまでだが」
秀衡は呵々と笑った。
「ならば、その眉根の皺を少しは伸ばしておけ。
そのように無愛想な従者があってなるものか。
周りの者が萎縮しては元も子もなかろう」

その時、おそるおそる郎党の一人が割って入った。
「恐れながら、泰衡様に、急ぎご確認頂きたきことが…」
「またか」
「も、申し訳ありません…」

泰衡は、秀衡に向かい形ばかりの会釈をした。
「御館、聞いての通りだ。失礼する」
そしてそのまま、くるりと秀衡に背を向けて大股で歩き去る。

やれやれ、泰衡の周囲には、ぴりぴりした気が張り詰めておる。 秀衡は小さくため息をついた。

だが、それは無理もないことでもある。 もちろん泰衡は物見遊山に出かけるわけではない。 否、むしろ、奥州のこれからを賭けた鎌倉との駆け引きの第一手を打ちに行くのだ。 その役目は、計り知れぬほど重い。

先般届いた、鎌倉からの書状。そこには……
「奥州と鎌倉は共に大国。お互い水魚の交わりを以てしようではないか。
これより後は、奥州の馬も黄金も全て、都ではなく鎌倉に送るように。
さすれば、鎌倉から都へと伝え送る……云々」
との、要求とも依頼ともつかぬ文言が綴られていた。

しかし正しくは、恫喝か。
ふっ…と、息子の真似をして秀衡は口の端で笑ってみるが、 皮肉な笑いというのはどうにも苦手だ。

もちろん、書状に唯々諾々として従う奥州ではないし、そのようなことは、 当の頼朝も期待してはいない。 つまりは、まだ両者とも、交渉の端緒についたとは言えぬ状態。 これからが、本当の駆け引きだ。

だが、ことは、交渉だけで済む話なのだろうか。

秀衡を奥州国守に任じたのは平家だ。 鎌倉の意に逆らえば、まずそこを突いてくるのは間違いない。 まだ、頼朝の力の基盤は関東にある。 しかし、全国へとその権限を広げるべく、対朝廷交渉をしていることは、 知らぬ者とてない。

その交渉が実を結んだ、との報せがもたらされたのは、秋も半ばの頃。 早ければ秋の終わりにも、頼朝の名代として北の方が上洛する、 というのだ。

「この地で、人の目と口を介した報告を得るだけでは、不十分」
報せの文を読むなり、泰衡は言い放った。
「此度の都への黄金の運搬、俺が行く」

件の文は、熊野別当からのものであった。
秀衡の旧友、湛快の息子の湛増は、源平の戦で大きな働きをした。 その件で上洛し、鎌倉の御家人と会見した時に得た情報という。
都に近いは、大いなる地の利。 しかし、利を利とし不利を利と転ずるか、利を不利とし不利を不利のままに受けるかは、 上に立つ者の器量ひとつだ。
早々と家督を譲った湛快の決断が正しかったことは、もはや天下の知るところ。
泰衡の器は、この難局をどのように乗り切るかで量られる。

あの頼朝ではなく、御曹司が源氏の棟梁であったなら……
ふとそのようなことを考えて、秀衡は苦笑した。
詮無きことを思うなど、わしも年をとったものだ…と。



* * * * * * * * * * * * * * * * * *



―――望美、この前は、あなたと会うことができて、とても嬉しかったわ。
あなたと一緒に九郎殿の館で働いた時間が、とても楽しかった…なんて言ったら、 本当はいけないのでしょうね。苦しんでいる人があんなにたくさんいたのだから。 でも、これは私の正直な気持ちなの。 あなたといろいろなことを話したり、一緒に笑ったり、とても大切な思い出ができたわ。 ありがとう、望美。

今はもう、堀川には行っていないの。 京の街もずいぶん落ち着いてきたので、館の解放は終わりになったから。 代わりに、検非違使の人たちがよく訪れているみたいだわ。 九郎殿が京の街の警護を任されているからね、きっと。
でも、源氏のお仕事は六波羅の新しい館が中心になってきているので、 兄上はそちらに出かけることが多いわ。
その時に、五条で弁慶殿に会ったそうよ。 いつの間にか、診療所を再開していたの。 望美がとても心配していることを兄上も知っているから、 今までどうしていたのか尋ねたのだけれど、 診療所が忙しくて、あまり話は聞けなかったと言っていたわ。
私も行きたいのだけれど、兄上はあまりいい顔をしないの。

なんだか、とりとめもないことを書いてしまったわね。 こんなおしゃべりの続きみたいなことまで書くつもりはなかったのだけれど、 筆を執っていると、まるであなたが目の前にいるような気持ちになってしまって…。 でも本当に書きたかったのは、別のことなの。
私、冬になる前に大原の寺に戻ることにしたわ。
平家との合戦の時に無理矢理戦場に送られて、戦が終わってからも 櫛笥小路にいたけれど、そろそろ帰らなければね。 還俗したわけではないのですもの。

だから、ごめんなさい望美、あなたがまた京邸を尋ねてくれたとしても―――



「というわけなの、ヒノエくん」

ヒノエが文から眼を上げると、望美の真剣な眼差しとぶつかった。

「姫君は、何をお望みなんだい?」
「朔に会いたいの。
「もうすぐ京に出発するんでしょう。私も一緒に連れて行って」
「オレと離れ難くて、とは言ってくれないのかい?」
「ヒノエくん…お願い」
「お前の願いは何でも聞いてやりたいけど、こればかりはね、だめなんだ」
「なぜ?」
「なぜだと思う?」
「ずるいよ、ちゃんと答えて!」
「お前を……」

ヒノエは腕を伸ばし、望美を引き寄せた。
前のめりに倒れてきた望美をしっかりと胸に抱き留め、
かすかな抵抗を封じる。

「…巻き込みたくないからだよ」

望美が身体をこわばらせるのが分かった。
そして、望美が今、どんな表情をしているのかも。

「お前の気持ちは分かるさ。
でも、京はだめだ。危険すぎる」
「何が危険なの?政子様の上洛と、関係があること?」

腕に力をこめる。
オレの神子姫様は、どうしてこんなに鋭いんだ。

「今度は水軍の人たちも一緒なんでしょう。
私、絶対に一人では行動しないから」
「京邸で、朔ちゃんに会うんだろ?」
「?!…もしかして、京邸に行くのがいけないの?
それだったら…」

ヒノエは腕の力を緩めた。
望美が顔を上げ、ヒノエの眼を真っ直ぐに見る。
その髪は乱れて、頬に赤みが差している。

望美はさらに何か言おうとした。
だが、乱暴に重ねられた唇がその言葉を奪う。



「お前にとっては辛いことを、言うよ」
上気した望美の顔を見つめ、ヒノエは言った。

「私は、大丈夫だよ、ヒノエくん。
辛いことに折れちゃったら、ヒノエくんの力になれないもの。

「鎌倉が揺さぶりをかけてきているのは知ってるね」
「うん」
「朔ちゃんはお前の親友かもしれない。
だが、景時は源氏だ」
「でも八葉だったんだよ」
「もう宝玉はない。
今の景時は、お前や八葉の仲間よりも、源氏を選ぶ」

「それを言うなら、九郎さんだって源氏だよ。
景時さんだけ疑うなんて、何かあったの?」

ヒノエは、さらりと答えた。
筋一つ動かしてはいけない。声も変わってはいけない。

「九郎は源氏の生まれだ。でも景時は頼朝の御家人だよ。
つまりは、戦が終わった今では、九郎の配下じゃない。
鎌倉からの命令に従うしかないってことさ」
「それだけで、京に行くのが危険?」
「姫君、お前は自分がどれほど大きな存在か、分かっていないんだね」
「……それって、私が白龍の神子だったから…?」

「お前がいるから、オレは強いんだってこと」

「ヒノエくん…」
「この熊野の戦力といえば、水軍だけだ。
源氏や平家とは比べものにならないくらい、小さな勢力だよ。
それが戦の趨勢を決めてしまったんだ。
確かに、勝ちすぎたかもしれないな」
「すごかったよね、ヒノエくん」
「ははっ、お前のおかげだったんだぜ。
戦に勝つだけじゃない。
サイコーの姫君の心を、オレのものにするって決めていたからね」

「もう、言い過ぎだよ」
「京では、何があるかわからない。
オレの活躍を見せられないのは残念だけど、
姫君が無事でいてくれることが、何よりなんだ。
だからね、神子姫様……」


朔からの手紙は、彼女自身知らぬうちに、京の剣呑な状況を伝えていた。 政子上洛の前に、一波乱あってもおかしくない。 弁慶の無事はうれしいが、今度京を訪れた時、再会できるとは限らないのだ。

ヒノエが待つ船は、まだ勝浦に着いていない。
鎌倉が知ったなら、どう出るのだろうが。




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− 2  秋から冬へ −

[1. 京 鞍馬・五条]  [2. 平泉・熊野]  [3. 策動 六波羅・鎌倉]
[4. 焦燥 六波羅・勝浦]  [5. 暗夜 京邸・熊野・五条]
[幕間 時空を隔てても]
[6. 秋雨 熊野・五条・堀川]  [7. 使者 法住寺・堀川]
[8. 堀川強襲]  [9. 挟撃]  [10. 雌伏]

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2008.8.23