比 翼

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3. 下 命



新玉の年が明けた。

寒い雨の朝、景時は大倉御所の回廊を歩いている。
頼朝からの呼び出しで、久方ぶりにここを訪れたのだ。

護送途上の九郎に逃げられた後は、追補の差配の役目は早々に取り上げられた。
そして鎌倉に戻ってからは蟄居を命じられ、頼朝に目通りすることも釈明することも許されなかった。
邸には誰一人として訪う人もなく、失態に対する沙汰を待つだけの日々。

邸を出るのは久しぶりだ。
雨が回廊に吹き込み、顔が濡れる。景時は暗く曇った空を見上げた。

中途半端な処遇のまま待つ身は辛かった。
だが、大倉御所に呼ばれたとしても、それを喜ぶことなど到底できない。
下される処断が苛烈なものであろうとことは、容易に想像がつくのだから。

雨の中、門の外まで見送ってくれた母、京に残してきた朔を思い、景時は拳を握りしめた。


景時が通された先には、頼朝と政子、そして鎌倉の有力な御家人が全員顔を揃えていた。
異様な空気が、辺りを支配している。

「梶原平三景時、参上いたしました」
簀の子に膝を付き、頭を下げた。
御家人達の突き刺さるような視線を感じる。
「顔を上げよ、近う寄れ」
訝しく思いながらも、言われるままに部屋の中央に進み出、頼朝の前に座した。
政子が袖を口元に当て、邪気のない笑みを景時に向ける。
そして、次に頼朝の発した言葉に、景時は凍り付いた。

「景時、汚名を雪ぐ機会を与えよう。
九郎は奥州に逃げ、平泉の藤原に匿われている。
源氏に仇なす所行、奥州に思い知らせてやるがいい」
かろうじてかすれた声を出す。
「……それは…奥州を攻めろ…ということでしょうか」

数人の御家人が、わざとらしい大きなため息をついた。
「愚問…」
「なぜ梶原殿が…」
小さく吐き捨てる声。
しかし頼朝が視線を動かすと、皆一斉に押し黙った。

静寂の中、頼朝の声だけが響く。
「景時、奥州征伐の総大将を命ずる。
九郎の首を上げ、まつろわぬ奥州を滅ぼしてみせよ」

心の臓に氷が押し当てられたように、身の内が冷えていく。
頼朝に忠誠を捧げる数多の御家人を差し置いて、処断を待つ自分が総大将に任じられるとは…。
御家人達の敵意の理由はこれだったのだ。

「よかったわね、景時」
優しげな声で政子は言った。
「九郎を取り逃がして全ての原因を作ったのはあなた。その罪は贖えないほど大きいわ。
でもあなたは、頼朝様旗揚げの時からの忠実な御家人ですもの。
頼朝様のため、失態を補って余りあるほどの戦果を、きっと上げてくれると信じていますわ」

景時は両手をつき、深々と頭を垂れた。
前髪が一筋、はらりと下がって床に触れる。

腹に力をこめ、景時は自分に許された唯一の言葉を絞り出した。
「…御意!」


* * * * * * * * * * * * * * * * * *



九郎一行が平泉に到着してから、早くも数日が過ぎている。

御館の催したあたたかな歓迎の宴も終わり、
束稲山を臨む丘に立つ高館に居を与えられた九郎達は、
長い逃亡の日々の疲れを癒やしていた。

束の間の安らぎなのかもしれない。
鎌倉が九郎義経の行方を知るのは時間の問題。
むしろ、とうに知られていると考える方がいい。
となれば、今の時間は計り知れぬ程に貴重だ。

しかし九郎は、どうにも落ち着かない。

旧知の者達が老いも若きも歓びに沸き返る中、
九郎一行を連れてきた当人である泰衡が姿も見せないのだ。
御館の開いた内々の宴でも、黙然として盃を重ねるのみ。
平泉への道中でも、合流した九郎に向かい「久方ぶりだ」と言ったきり、
泰衡はほとんど口もきかなかった。

――泰衡が無愛想なのは、今に始まったことではないが…
身を切るような冬の明け方、九郎は雪の積もった庭で剣の素振りをしている。

へそ曲がりなのも承知している。皮肉な口調にも慣れている。
だが場合が場合だけに、その真意を尋ねることなく平泉にいることはできない。
無理を承知で押しかけたのは自分の方なのだ。
しかも…これで二度目。
平家を逃れ、そして今度は味方であったはずの源氏の手を逃れて。

「苛立っているようですね、九郎」
崖に面した植え込みの間から、突然弁慶が姿を現した。

「な…何だ、そんな所から」
反射的に剣を向けた九郎は、あきれたような声を出した。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
弁慶は外套に付いた雪と枯葉を払い落とした。
「冬は薬草集めにも一苦労です。昔も今も変わりませんね」
「珍しい草を見つけても、俺達で薬効を確かめようなどとは考えるな」
弁慶は笑った。
「そんなこと、考えたこともありませんよ」

空に淡い光が広がった。
厚い雲に覆われた夜明けの色だ。

と、馬の嘶きが門の外から小さく聞こえた。
「珍しいお客人が来たようですね」
扉が開き、漆黒の馬が漆黒の外套を纏った男を乗せて入ってくる。
九郎と弁慶の眼前まで来ると、泰衡は馬から飛び降りた。

「泰衡、ちょうどお前に話があった」
進み出た九郎に、泰衡は素っ気なく言う。
「俺もお前に話があって来た」
「大事が起きたのか?」
しかし泰衡は答えぬまま九郎の前を通り過ぎ、ずかずかと館に入っていく。
九郎が後を追うと、泰衡は振り返りもせず言った。
「黒軍師、お前も来い」


藤原家嫡男の突然の来訪に、館の者達は何事かと色めき立ったが、皆あっさりと人払いされて、
火桶の置かれた部屋には泰衡、九郎、弁慶だけが座している。

前置きもなく、泰衡は口を開いた。
「御館に頼朝から書状が届いた。鎌倉が動く」
「書状にそう書いてあったのですか?」
弁慶の問いに、泰衡は歪んだ笑みを作る。
「鎌倉の動きは間者が報せてきた。
書状にあったのは――鎌倉を通じて朝廷に献上するべき馬と金を、
嫡男自らが京に届けるとは無礼千万。 しかしながら、九郎義経を差し出すならば
此度のことは不問にしよう…といったようなことだ」

九郎が唇を真一文字に引き結んだ。泰衡と九郎の視線がぶつかり合う。
泰衡は低く抑えた声で、鞭がしなるようにぴしりと言った。
「初めに言っておく。俺が守るのは奥州だ」
「分かっている」
「では問おう。九郎、お前は源氏の総大将まで務め、頼朝とは血を分けた兄弟。
にもかかわらず、源氏と袂を分かち、ここに来た。
相応の覚悟はできているのだろうな」

――相応の覚悟…その言葉は重い。
泰衡は、源氏と戦う覚悟のことを言っているのか、それとも
鎌倉に引き渡されることになったとしても、従容として受け入れる覚悟のことを言っているのか。

だが九郎は泰衡の眼を見据え、寸刻の躊躇いもなく答えた。
「俺も武士だ」
泰衡は低く言った。
「そうか」
そして、フ…と口元をゆるめる。
「それだけ聞けば十分だ。腹が据わっていると分かればそれでいい」

それまで黙していた弁慶が、やんわりと言葉を挿んだ。
「曖昧な問いに、九郎は潔い答えを返しました。
それなのに、自分の真意は隠したままですか」
「腹の底を見せぬ男に言われたくはないものだ」

口を開こうとした弁慶を、九郎は目顔で制する。
そして居住まいを正して泰衡に言った。
「用というのは、それだけか」
泰衡は片眉を上げる。
「そういえば、お前も俺に話があると言っていたな。
今、聞いておこう」

すると九郎は床に両手をつき、泰衡に向かって頭を下げた。
「御館には感謝の言葉を伝えたが、お前にはまだだ。
改めて言おう。感謝している、泰衡」
泰衡の眉間の皺が一気に深くなる。
「…何のつもりだ、九郎」
「仲間を共に平泉に迎え入れてくれたこと、恩に着る」
「そんなことか」
その言葉に、九郎は顔を上げた。
「そんなこととは何だ!」

泰衡は皮肉な口調になった。
「御館の考えは知らぬ。だが、俺が親切心だの昔のよしみだので
お前達を迎え入れたとでも?」
「当然ですね。そのようなことで心を動かしていたなら、この広い奥州を掌握できません」
「弁慶、お前まで何を言う!」
「フッ…先ほども言っただろう。俺の守るべきは奥州だと。
そのためなら手段を選ぶつもりはない。
九郎、お前も利用させてもらう」
「くっ…貴様、最初からそのつもりで」
「奥州の現状を知れば、お前もそう思うはずだ」
「何!?」

泰衡は深く息を吐くと、腕組みをして眼を閉じた。
「これまで奥六郡への根回しで忙しかったが、やっとそれも終わった。
ちょうどそこへ届いたのが鎌倉からの書状だ」
眼を開けば、九郎は訝しげな顔をしている。

「相手は頼朝だ。やつの元々の狙いは奥州。
お前一人渡したところで、大勢は変わらんさ」
そう言うと泰衡は立ち上がった。

「九郎、奥州はお前を総大将に立てる。
黒軍師にもお前の配下にも、お前と共に存分に働いてもらおう」


* * * * * * * * * * * * * * * * * *



海が荒れている。
岩に砕ける波音が、今夜はひときわ大きい。

熊野、勝浦。
新年の儀式を終えて、ヒノエが戻ってきた。
燈台がほの明るく照らす部屋には、
湛快、副頭領、ヒノエ、望美、朔、敦盛とリズヴァーンが顔を揃えている。

平泉の高館と同じ話が、ここでも交わされていた。

烏の報告が届いたのだ。
――奥州には、九郎、弁慶と配下が匿われている。
その奥州に向け、鎌倉が動く…と。

「リズ先生が秋に鎌倉で見てきた通りだったってわけだね」
「うむ。鎌倉は早くから準備に入っていた。出陣の命が下れば早いだろう」
「九郎さん、せっかく無事に逃げられたのにね…」
「それこそが…、鎌倉の思うつぼだったようだ」
「九郎を引き渡せばよし、さもなくば、ということか」

「口実が一つ増えただけのことよ」
そう言って、湛快はくいっと杯をあおった。
空になった杯に、副頭領がすかさず酒を注ぐ。
「頼朝は、はなから奥州を潰したくてたまらなかったんだろうが」
「ああ、平泉と都が金で強く結びついていることが分かっているから、
まずそこから分断しようとしていたからね」
「じゃあ、泰衡さんはそれに逆らって京に来ていたの?」
「その通りだよ。間接的に鎌倉にケンカを売ったと言ってもいいね」

「しかし…頼朝殿は今や全国を掌握したも同然…ではないのか。
全兵力でかかれば、いかな豪を以て知られた奥州でも…、持ちこたえられるかどうか」
敦盛の言葉に、ヒノエはぱちんと指を鳴らした。
「そこが泰衡のしたたかな所だよ。やつは心底九郎を案じてた。
でも同時に、九郎という存在の意味を冷静に判断したんだ」

「存在の意味…か。九郎義経の名は大きい。
そして戦にあれば、九郎は底知れぬ力を発揮する。
奥州にとっては、鎌倉に抗するための、ただ一つのよすがとなるだろう」
「リズ先生、分かってるね」
リズヴァーンは静かに杯を口に運びながら答えた。
「九郎に兵法の手ほどきをしたのは私だ。
天与の才は、幼き頃からあった」

湛快は腕を伸ばし、向かいに座るリズヴァーンの杯に酒を満たす。
「なんつってもな、奥州は兵力は揃っていても実戦の経験がねえ。
九郎と弁慶の下には、百戦錬磨の連中が揃ってるんだ。
奥州は一万の軍勢にも勝るものを手にしたってことだ」

「ええっ? それだと、九郎さんが奥州の総大将になるみたいですけど」
ヒノエは望美に向かってにこっと笑った。
「烏の報告によれば、その通りってことだよ」

「となれば、源氏が全勢力を傾けたとしても、どちらが勝利するかは分からぬ」
「そうだね。おかげで、熊野に割くほどの軍勢は無いってこと」
「熊野を攻めようものなら、朝廷が黙ってねえぞ」
「ああ、熊野を叩く口実は何もないからね。
でも熊野も頼朝に取って邪魔なことに変わりはない」
「だが、大っぴらに兵は動かせぬ」
「そういう時はどうすると思う?」
副頭領が唸った。
「裏で動くでしょう…。現に、前の夏にはさんざんな目に遭わされましたから」
「話は聞いたわ。薊には辛い経緯があったのね」
「…っ! すでに鎌倉は…、熊野に仕掛けていたというのか…」

リズヴァーンは杯に眼を落とし、そこにゆらゆらと映る燈台の灯を見た。
「表立って仕掛けぬとあれば、荼吉尼天が来る…と、ヒノエは考えているのだな」
「ああ、軍が相手なら、熊野は難攻不落の地だからね。海から来れば水軍がいる。
大変な思いをして山を越えても、その間は格好の攻撃の的になるってわけ」
「つまり頼朝は、表向きは九郎追討のために大軍を奥州に送り、
同時に人外の力で密かに熊野を滅しようとしているのか」

「悪くねえ計算だ。虫酸が走るぜ」
「あんたにしてはいいこと言うね」
ひゅ〜、と鳴ったヒノエの口笛が止むと、海鳴りの音がやけに耳に付く。
その場の空気が凍ったように、しばし会話が途切れた。

敦盛が、おずおずと口を開く。
「では…鎌倉の軍は、頼朝殿が…自ら出るのだろうか。
そのようなことになれば…、兄と弟が戦場で顔を合わせることに…」

副頭領が太い首を振った。
「今回も頼朝殿は動かないそうです」
「では、誰が全軍の指揮を執るの?」
副頭領は申し訳なさそうにちらりと朔に目を向ける。

それだけで、その場の皆は知った。
「兄上が…本当なの?」
副頭領は小さくなって頷く。
「そんな…兄上と九郎殿が戦うなんて…」

「頼朝の目は節穴じゃねえってことだな」
「景時は軍奉行として九郎と弁慶の戦い方を間近に見てきている。
これ以上の適任はいないってね」

皆の話を聞きながら、望美は目を見開いたまま動くことができない。
ざわざわと全身が総毛立っていく感覚。
激しく拍つ自分の心臓の音が、外まで聞こえるのではないかと思う。

望美はやっと分かったのだ。
譲が最後に見た夢の、本当の意味。

北から流れ来る青い大河を覆い尽くし、渦巻きながら溯っていく白い波。

譲も自分も、元の世界の歴史と同じく
源氏の白旗が北の奥州を目指して進軍するのではないか……と解釈した。

しかしこの夢は、もう一つの別の意味も現していたのだ。

青い川と白い波……青龍と白虎が相撃つのだと…。


湛快がつと立ち上がって、海を望む蔀戸を開けた。
冬の夜の冷たい風が流れ込む。

湛快は空を見上げ、雲の間からのぞくまばらな星に向かって一人ごちた。
「こいつは、一波乱なきゃ収まらねえな。
いや、一波乱ですめば御の字か」
そしてヒノエに向かってひょいと杯を上げると、一気に飲み干した。

これから熊野の取るべき道……
幾つもの可能性がめまぐるしく心をよぎる。
しかし、湛快が口にしたのは助言ではなかった。

「さて、熊野はどうするかだな。
熊野別当はお前だ、ヒノエ。熊野はお前に従う」

望美はまっすぐにヒノエを見た。
ヒノエも望美に瞳を向ける。

答えはもう、出した。
幾晩も考え、二人で出した答えだ。
同時に仕掛けられた二つの戦に、どちらも勝たねばならない。
熊野の滅びを止め、奥州の戦を止めるのだ。

そのための答えは、剣の刃を渡るように細く危険な道。
けれど、その道をおいて他に生き抜く道はない。

「熊野別当として、オレは一つの道を選んだ。
それは…」
ヒノエは静かに話し始める。




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[6. 嵐の前]  [7. 小さき祈り]  [8. 飛翔]  [9. 継ぐ者達へ…]  [10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]

[後書き]

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2009.6.26