5. 向かうべき場所
源平合戦で天下に名を轟かせた源九郎義経が、奥州の総大将として立った。
頼朝がいかに大軍を集めたとて、九郎に勝る将はいない。
奥州軍の士気はいやが上にも高まっていく。
九郎に初めて見参した奥六郡の長は、最初の内こそ兄に反旗を翻した男に疑いの目を向けていたが、
軍議を重ねる毎にその器量をいやがうえにも思い知らされ、疑惑は信頼へと変わっていった。
景時率いる鎌倉軍は三手に分かれ、主力が奥大道を、別働隊が常陸、北陸方面から
進軍してくるとの報が入っている。
九郎率いる奥州軍が迎え撃つのは、奥大道を来る鎌倉本軍。
かつての味方同士、地の青龍と地の白虎が相撃つ日は刻々と迫っている。
そして出陣を前にしたある夜、藤原秀衡は伽羅御所に九郎と弁慶を招いた。
三日に渡り降り続いた雪が止み、薄雲のかかる空が地上の雪を映してほの明るい。
白い息を吐きながら御所の門をくぐった二人を、秀衡は迎えに出た。
火桶に暖められた部屋に、自ら先に立って案内する。
「男ばかりのむさ苦しい酒宴じゃが、戦が始まればゆるりと酒を酌み交わすこともできぬ。
せめて今宵くらいは、静かな時を過ごそうぞ」
「御館のお心遣い、深く感謝いたします」
秀衡からの杯を、九郎は頭を下げて受け取った。
同席するのは泰衡のみ。
相も変わらず眉間に皺を寄せたまま、黙然として手酌で杯を重ねている。
秀衡はそのような息子に向かい、まんざらでもない調子で言った。
「泰衡は、京に発つ前は焦りの色ばかりが見えたが、
戻ってからは人が変わったような働きぶりじゃ。
これも御曹司のおかげよのう」
秀衡の言葉に九郎はふるふると首を振るが、泰衡は眉間の皺をさらに深くしただけ。
眼を上げることもなく、独り言のように答える。
「京に行ったのは無駄ではなかった。
平泉に戻ってからは、なすべきことをなしているまで」
「簡単に言いますが、奥六郡の長は曲者揃いと聞いています。
そんな彼らを説得して、平泉に参集させた手腕は見事でした」
それまで黙していた弁慶が、もの柔らかい口調で言った。
「海千山千の強者共を相手にようやったぞ、泰衡」
秀衡の言葉は決して世辞ではない。
一癖も二癖もある奥六郡の長達を平泉に集めただけでも大したことなのだ。
無論、奥州国守藤原秀衡の存在があればこそ、のことではある。
とはいえ、彼らは同時に、秀衡の後を継ぐ藤原家嫡男の器量をも同時に見ていたのだから、
泰衡を軽んじてよい相手と踏んだなら、ここまで協力することはなかっただろう。
しかし秀衡と弁慶からの賞賛にも、泰衡の表情は苦々しくなるばかりだ。
「奥州が結束したからといって、鎌倉が兵を退くわけではないのだが…。
俺のしたことは下準備にすぎない。全てはこれからだ」
だが……と、泰衡は心の中でつけ加える。
郎等共は夢物語に酔っている。
九郎を大将に戴けば、鎌倉の大軍を相手に勝てるのではないか…などと考えているのだ。
歴戦の関東武士相手に、小競り合いしか経験のない奥州の武士では、結果は見えているというのに。
しかしそう信じさせるものが九郎にはある。
そしてそれが志気の高まりに繋がっているのも事実。
そうだ…完膚無きまでに打ちのめされぬ限り、奥州が生き延びる可能性は残される。
九郎ならば、一方的な敗戦などするまい。
ぐっと杯をあおると、喉を熱いものが下りていき、ふと思う。
――もしも…あの女狐までもが鎌倉軍と共に来ることになっていたならば、
俺は……どうしていただろうか。
秀衡が、九郎の肩に大きな手をがしりと乗せて言った。
「戦はこれからじゃ。大軍同士の衝突、奥州も深傷を負うやもしれぬ。
だが御曹司の勝利を、この藤原秀衡、微塵も疑ってはおりませぬぞ」
九郎は秀衡に真っ直ぐ眼を向けた。
「御館、身命を賭けて、私はこの奥州を守り抜いてみせます」
火桶の中、灰をかぶった黒い塊が、真っ赤な熾火を宿して熱を放っている。
その熱を頬に感じながら、九郎は思う。
――京にいた頃の自分とそっくりだと。
源氏再興の思いを抱きながら、鞍馬の寺で堪え忍んだ日々。
夜な夜な寺を抜け出しては、師の元でただひたすらに剣を修め、兵法を学んだ。
行き場のない荒ぶる心を、叡山の僧兵との争いに叩きつけていた。
身体を焙り、灰と化すまで消えることのない熱を身の内に隠しながら。
思えば、心安んじて過ごすとはどういうことか、俺は知らなかった。
この平泉に来るまでは……。
「御曹司、そこまで言うて下さるか」
九郎はゆっくりと頷く。
「あれはもう、何年前のことになるのでしょうか…。
私を平泉に迎え入れてくれた時に御館が仰ったお言葉、今でもはっきりと覚えています」
皺を刻んだ顔に笑みを浮かべ、秀衡も深く頷いた。
「おお、覚えていて下さったか。わしの心は全く変わっておりませんぞ。
あの時、わしは御曹司にこう申し上げた。
――この奥州を故郷と思って下され…と」
九郎はしばし眼を閉じ唇を引き結んで、溢れ出そうになる何かを懸命に鎮めた。
「御館……その時から、私に初めて故郷ができました。
この奥州を守る将として下さったこと、感謝します」
秀衡は眼を潤ませた。
「立派な武将にお育ちになりましたのう。頼朝殿も、分からぬお人じゃ」
「だからこそ恐れたのでしょう。源氏の棟梁は、自分一人で十分だと」
弁慶の言葉に、秀衡は深く嘆息した。
「この奥州で義家殿の裔が相争うことになるとは、あまりに皮肉な巡り合わせじゃ」
――皮肉?
泰衡の眼の中に、かすかに揶揄するような光が走る。
奥州に敵対し、奥州を守る…頼朝と九郎は、かつての源氏そのものではないのか。
この地を蹂躙し藤原の祖をその手で屠り、
時経りた後は、藤原と手を結びこの地のために戦った。
源氏とは、奥州に滅亡と救済とをもたらすものに他ならない。
九郎には分かるまい。分からなくていい。
俺の中でざわめく数多の血……武人、京の貴族、そして蝦夷の血…。
悲劇と恩讐の繰り返し…厚く降り積もった時の層と、別ちがたく結びついた血だ。
だが、その俺の血が、御館の血が、九郎を信じた。
ちらりと眼を走らせると、弁慶は九郎と秀衡のやりとりを聞きながら静かに杯を傾けている。
顔色は全く変わっていないが、すでに脇に置いた大ぶりの壺が空に近いようだ。
杯に酒を注ぐ角度で分かる。瓶子に移す手間も惜しんでいるのか。
フ…この腹黒い男も、腹に何もない九郎に命がけでついてきたのだった。
庭で金がくうん…と鳴いた。
九郎が席を立って庭に出る。
冷たい外気と一緒に、ざっざっはふはふくぅん…と金の立てる音が聞こえてきた。
その頃、前線ではすでに戦端が開かれていた。
景時の奇襲で、最南端に置かれた砦はあっけなく陥落。
意気上がる鎌倉軍は、次の砦へと侵攻を開始した。
まばらな星明かりが照らす海。
黒々とした森を背にした汀に向かい、手こぎの舟が滑るように近づいていた。
暗い夜というのに、舟は確かな動きで進んでいる。
やがて舟はひっそりと岸に着き、幾つかの人影が上陸した。
無言の内に頷き合い、一人が先導に立って小暗い森の中を行く。
川沿いの道に出たところで、人影は二手に分かれた。
一組は川上に向かい、もう一組は、夜なお篝火を灯し、威容辺りを払う大きな館に向かって。
厳重に警護された大倉御所の寝間。
燈台の炎が揺らぎ、頼朝は横たわったまま目を開いた。
ゆっくりと身を起こし、暗い部屋の中に二つの影を見る。
丈高い男は、かすかな灯りを映して金色に光る髪の持ち主。
その前にすっくと立っつのは、腰に剣を佩いた華奢な輪郭の影だ。
「頼朝の寝首を掻きに来たか、龍神の神子」
その言葉に、室外の動きはない。
警護の武士達はすでに倒されたということか。
ここに二人が来ていることこそが証左。
頼朝は望美を見据え、枕辺の太刀に手を伸ばした。
が、それより早く大きな影が動き、太刀を押さえた。
まばたきする程の間に、望美の後ろから頼朝のすぐ近くまで来ている。
鬼が低い声で言った。
「神子は剣を抜いていない」
目を向けると、凝視する青い双眸とぶつかる。
頼朝は伸ばしかけた腕を戻した。
その顔に表情はないが、心の内で思う。
愚かだ。
この好機に、敵の素っ首を刎ねもしないとは。
しかし、噂に聞いた鬼の能力の一端を、思わぬ所で目にすることになるとは。
頼朝は口元を歪めた。
政子の力には及ぶべくもない。…だが政子は今…。
望美が剣を右側に置き、頼朝の前に座した。
「頼朝様、お話があります」
失笑する。
「ここは鎌倉。将の寝所に剣を携えて忍び入るとは、無礼討ちではすまぬぞ」
望美はその言葉に怯む様子もなく、背を真っ直ぐに伸ばし、
頼朝に視線を向けている。
「異国の神を送り込んで一つの国を神々もろとも滅ぼそうとするのは、
無礼以上のことではないでしょうか」
知っているのか、こやつらは。
どこまで読んだのだ…我が手の内を…。
「知らぬ方がよいこともあるのだぞ、龍神の神子」
「政子様はいらっしゃらないんですね。
西に向かわれたのですか」
頼朝の視線が鋭くなる。
「知っていて夫を置いてここに来たか。龍神の神子とは、薄情なものだ」
「我が夫熊野別当に、自国を出てはならないと命じたのは政子様。
つまりは頼朝様ご自身です」
頼朝はぴしりと言い捨てた。
「命乞いなど無駄だ。
この頼朝を人質に延命を図るため、神子と鬼を遣わすなど、
機略に優れた別当とは、名ばかりのものだったな」
望美は静かにかぶりを振った。
「ヒノエくんは負けません。熊野が滅びることもありません。
だから命乞いなどではないんです。ここに来た目的はただ一つ」
凜とした声が暗い部屋に響く。
「奥州の戦を止めて下さい。
それができるのは頼朝様だけです」
くっくっく…と、笑い声が漏れた。
何を言っているのか、この小娘が。
笑いを収め、吐き捨てるように言う。
「この頼朝が、そのような戯れ言に耳を傾ける理由などない」
「異国から来た神の名。理由はこれだけで十分です」
「……それを明かしたとて何になる」
「なぜそのようにお答えになるのですか?
頼朝様は、政子様の秘密を知られたくない…だからこそ」
「愚問だ。我が威光に畏れの心が加わる、それだけのこと。
鎌倉の利にこそなれ」
「けれど今までひた隠しにしてきた。それはなぜなのでしょう」
「何が言いたい、龍神の神子」
「真実を明かせば、利よりも害の方が圧倒的に大きいからです
皆が畏れるべきは頼朝様であって、異国の神であってはならない…違いますか」
頼朝は低い声で言った。
「ならばやってみるがいい。そしてその責めは全て負うがいい。
覚悟ができているのならば」
望美はためらいなく答えた。
「熊野はそのようなことはしません。望んでもいません。
ただ頼朝様に、無益な戦を止めてほしい…それだけです」
「くだらぬ。他国の心配をすることこそ無益ではないのか。
すでに鎌倉軍は動いた。今さら止めるなど、できはしない」
望美が頼朝に向かい、つ…と両の手を床についた。
「そのために、お願いがあります」
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[4. 出立の時]
[5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]
[7. 小さき祈り]
[8. 飛翔]
[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]
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2009.7.14