8. 飛 翔
厚い雲が雪原を覆っている。
対峙した両軍は、息を潜めてその時を待つ。
高まり行く緊張感に敏感に反応した馬が、首を振り勇み足で進もうとしては、
騎手に手綱を引かれて戻される。
奥州の陣の先頭に、九郎が歩み出た。その後ろには弁慶と泰衡。
郎等が葦毛の駿馬を引いて付き従っている。
「ご武運をお祈りします、九郎様」
手綱を受け取ると、郎等に向かって九郎は力強く頷いた。
「鎌倉の総大将は陰陽師だそうだが」
鐙に足をかけた九郎の傍らに立ち、泰衡が言う。
「承知の上ですよ」
弁慶がやんわりと遮った。
「今さら言っても仕方無いことです。
一騎打ちに向かう武士にかけるには、少々ふさわしくない言葉ではありませんか」
「フ…俺は事実を言ったまで。
剣の腕に頼るあまり、術中にはまるな…ということだ」
雪原の彼方に眼を据えて九郎は言った。
「心しよう。だが…」
そして、ひらりと馬に跨る。
「泰衡、俺の背中に二度と変な札を貼るな」
泰衡が動きを止めるのと同時に九郎は馬上から振り返り、
見送る自陣の武士達に笑顔を見せた。
「行ってくる!」
その言葉の終わらぬうちに、鞭をくれてもいないのに馬が高く嘶いて走り出す。
向かう先は、鎌倉の陣。
九郎の姿は、みるみるうちに小さくなっていく。
方や鎌倉側では、万全の準備を整えた兵達が、鏑矢の射られる音を待っていた。
総大将景時の両側には、御家人達が馬の轡を並べている。
「梶原殿、いよいよでござるな」
「ここで一気に奥州勢を叩けば、平泉は陥落したも同然」
「いかな九郎殿といえど、数の差は如何ともしがたきはず」
勢いのよい言葉の数々に、景時は前を向いたまま素っ気なく答えた。
「源平合戦で、九郎は幾度となく劣勢を覆してきた。
それを忘れて油断したなら、手ひどい目に遭うのはこちらになる」
「そ…それはそうだが」
「戦に臨んでいる今、そのようなことを言うのは弱気に過ぎるのでは」
御家人達は、景時の冷静かつ冷淡な言葉に鼻白んだが、それ以上のことは言えずに終わる。
彼ら自身認めたくないことだが、景時に気圧されているのだ。
九郎を逃した懲罰も受けず、総大将に任じられた景時を疎ましく思う気持ちは皆同じ。
少しでも落ち度があれば、すぐに頼朝に進言を、と手ぐすね引いて待ちかまえていた。
さほど待たずして、その時は来るはずであった。
梶原景時という御家人がこれまでそこそこの地位にいたのは、
人当たりがよく、腰が低いからだとばかり思っていたのだ。
しかしそれがとんでもない誤りであったことを、彼らはすぐに悟ることになった。
「頼朝様より奥州征伐総大将を拝命した。
本日これより先は全て、この梶原景時の命に従い、動いてもらう」
全軍を前にした景時は、これまで彼らが見知っていた愛想笑いの上手な男ではなかった。
景時から次々に下される命令は的確で、寸分たりと違える余地のないほどに明確。
刻々と変化する状況に対する判断は、迅速にして怜悧。
気づいてみれば、景時を頂点とした命令系統がしっかりと組み上がり、
順調に動き出していた。
梶原景時を侮っていた御家人達も、従順に命令を遂行するしかない。
しかし、そのような御家人達の変化を一番醒めた目で見ていたのは、
他ならぬ景時自身であった。
鎌倉を後にして以来、景時は愛想笑いもせず、場を取りなすこともしない。
今はもう、そんなことは必要ないのだから。
袋小路に追い詰めらていることは、とうに自覚している。
奥州征伐が成功すれば、報奨として与えられるのは、これまでと変わらぬ怯えながらの日々。
そして失敗したなら、全ての責めを負うことになる。
楽になりたい……。
景時は、思う。
逃げれば楽になれる。
だがこれまで逃げることはできなかった。
梶原党の人々がいる。母がいる。朔がいる。
だが、逃げることもなく、彼らにも累の及ばないやり方が……
一つだけ、あったのだ。
やっと、それができる場所に辿り着いた。
ここならば…戦場ならば……
オレは消えることができる。
そうすれば、オレは戻らなくていい。
もう二度と……
その時、陣がざわめいた。
景時が眼を上げると、雪原の向こう、奥州の陣から馬が一頭走り出て、
こちらに向かって近づいてくるのが見えた。
やがて葦毛の馬が鎌倉軍の真ん前に走り来た。
思わず漏らした嘆声が、軍のあちらこちらから上がる。
馬上にある人は、九郎義経その人。
今は敵であっても、その姿は多くの兵にとって忘れ難きものだ。
九郎と景時の視線がぶつかり、朗々と響き渡る声で、九郎は名乗りをあげる。
「我こそは源経基が裔、源義朝が子にして、奥州軍総大将源九郎義経!
そこなるは鎌倉軍総大将梶原平三景時殿とお見受けする。
いざ尋常に勝負!」
葦毛の馬は雪を蹴立てて取って返し、
両軍の中央まで駆け戻ると再び鎌倉軍へと向き直った。
景時が来るのを、その場で待っているのだ。
「い…一騎打ちを挑むとな」
「ううむ…そう来たか」
「九郎殿は大層な使い手。弱りましたな」
そう言いながらも、彼らの声の底には言葉と異なるものが流れている。
「どうなされるか、梶原殿」
「受けねば鎌倉武士の恥ですぞ」
「いやしかし…剣の腕はいかんとも」
「かといって、陰陽の術を使おうものなら、それこそ」
景時が小さく綱を揺らすと、磨墨は静かに前に進み出た。
「騒がないでくれるかな。鎌倉軍が一枚岩ではないと知られる」
そう言って振り向いた景時の眼光に射すくめられ、御家人達は口をつぐむ。
「梶原平三景時、参る」
言葉がまだ中空に残っている間に、磨墨は陣を飛び出していた。
――こんなことで礼を言うのもおかしいけど……
感謝するよ、九郎。
オレはやっと楽になれる。
「行くよ磨墨、これが最期の戦いだ」
磨墨はたてがみを震わせ、大きく啼いた。
九郎との距離がみるみるうちに縮まる。
葦毛の馬の上で、九郎が剣を抜くのが見えた。
――だけど、オレも武士…梶原党の党首だ。
無様に生き延びてきたオレだけど、
無様なままで死ぬわけにはいかない。
景時も、ゆっくりと剣を引き抜いた。
――本気で…行かせてもらうよ。
葦毛の馬が嘶き、磨墨に劣らぬ速さで走り出す。
馬の勢いのままに、振り上げ振り下ろした二つの剣が、
曇天の空に火花を散らした。
両軍から雪原を揺るがす鬨の声が上がり、
一太刀ごとに、その声は大きくなっていく。
何万という軍勢の上げる鬨の声は、森の中を急ぐ望美達の耳に届いた。
「戦が…始まってしまった」
望美の顔が蒼白になる。
ここまで来て、あと僅かという所で……。
この森を抜ければ、その先に陣があるというのに。
しかし、耳を澄ませていた敦盛が言った。
「いや…戦とは違うようだ…神子。
理由は分からないが…人の声しか聞こえてこない」
確かによく聞いてみれば、剣と剣の打ち合う音も馬の嘶きも聞こえない。
「望美、まだ戦は始まっていないのかもしれないわ」
朔の言葉に、望美は頷いた。
「ここであきらめちゃだめだよね。急ごう!」
「ええ」
その時、後ろを走っていた馬が望美の隣に並んだ。
「私が先に行く」
馬上からリズヴァーンが言う。
その意味するところは明白だ。
「先生、先に行って下さるんですか…」
「うむ。戦の前ならば九郎を説得できよう。神子の到着を待つようにと」
望美の顔に、かすかに血の気が戻る。
「今は一刻を争います。お願いします、先生」
「望むままに…」
その刹那、リズヴァーンの姿が馬上から消えた。
突然乗り手のいなくなった馬は足を緩め、落ち着かな気にぶるる…と啼く。
視界の悪い森を、リズヴァーンは短い距離を飛びながら抜け出た。
広い雪原に出た瞬間、厚い雲間から薄日が射す。
彼方に見える軍勢は、左右二つに分かれたままだ。
そして、聞こえてきた多くの叫び声の正体をリズヴァーンは知った。
雪原の中央で、黒い馬と葦毛の馬が激しく動いている。
馬上にいる人物が誰かは、遠目でも見て取れる。
九郎と景時が一騎打ちとは……。
剣が薄日を受けて光る。
兵達は声を限りにそれぞれの大将の名を叫び続ける。
白い雪野を、リズヴァーンは黒い影となって疾んだ。
両翼の兵の中にはリズヴァーンに気づく者もいたが、
目を凝らそうとすると、もうその姿はない。
遮るもののない広野。
リズヴァーンは力の許す限りの距離を飛び続け、
一気に二人との距離を縮める。
――次だ。
次の瞬間移動で、二人の真横に出る。
それと同時に、止めなくては。
二人の闘気は本物だ。
声をかけて二人に剣を納めさせることなど、リズヴァーンは端から考えていなかった。
斬り合いの最中に注意をそらす武士はいない。
よしんばどちらかがリズヴァーンの声に気づいたとしても、
それに刹那でも気を取られれば、もう一人はその隙を逃すまい。
やるべきは単純なこと。二人の剣の間に割って入るのだ。
だが機会は一度。
間合いを誤れば、九郎の花断ちでこの身が斬られる。
二人は馬から飛び降り、雪上で剣を打ち合っている。
それだけ見て取ると、
リズヴァーンは寸刻の躊躇もなく、最後の瞬間移動をした。
我が身の一部の如く自在に馬を駆る九郎と景時だが、
このままでは埒が開かない。
剣を引き様、二人は同時に馬上から飛び降りた。
かつての仲間。
共に八葉という不思議な絆を結んだ者同士。
何も思わぬと言うなら嘘になる。
だが今は、思いという枷を自ら引き千切った者同士。
ただひたすらに、剣を交わす。
九郎の剣は鋭い。
微塵の隙もない流れるような太刀筋で、休む間もなく景時に打ちかかる。
しかし景時はそれを全て見切っていく。
危ういところで身をかわし、足元をふらつかせたと見えても、
好機と見て斬りかかった九郎の剣を受け流しながら、
いつの間にか元通りの体勢に戻っている。
断つための剣と、断たれぬ剣が幾度となく打ち合わされる。
が、一瞬、空から射した光が九郎の剣に当たり、景時は眼を細めた。
「はあああっ!!」
九郎の剣が気合いと共に一閃する。
その刹那、
…キンッッ!!
剣が下から打ち返され、激しい衝撃で九郎の腕が痺れた。
手から飛んだ剣が、薄日を受けて光りながら雪に刺さる。
九郎の剣を受けようと、咄嗟に構えた姿勢のまま、
景時は信じられぬという表情で、眼前の黒い外套を見た。
景時の剣がリズヴァーンの外套を切り裂き、
そこから赤い血がしたたり落ちている。
「先生!」
「リズ先生!」
「大した傷ではない。気遣いも他言も無用」
そう言うと、リズヴァーンはシャムシールを素早く鞘に納め、
傷口に布をきつく巻き付けた。
そして呆然としている二人に向かう。
「私がなぜここにいるのか…と問うか」
二人は黙したまま頷く。
「神子が来ることを知らせに来たのだ」
「望美が? いったいなぜあいつが…」
「望美ちゃん……」
両陣営から、ざわざわと騒がしい声が上がっている。
何事が起きたのかと、訝しんでいるのだ。
無理もない。総大将同士の一騎打ちが突然中断したのだから。
「九郎、景時、自陣に攻撃をせぬよう命じなさい」
九郎は口をへの字に引き結ぶ。
「先生、お言葉ですが、それはできません」
「これは、藤原秀衡殿のご意志でもある」
「御館の…」
「そして景時」
青い瞳が、景時を見据えた。
「神子と共に、朔も来る。なぜか分かるか」
「朔は……大原に行ったはず」
リズヴァーンの声が低くなる。
「お前が神子を幽閉した場所は、鎌倉方に知られていたのだ。
神子は助けに入ったヒノエ共々、小屋に火を放たれて焼かれそうになった。
そしてかろうじて逃げ出したものの、討ち手が待ち伏せしていた」
「リズ先生が、助けたんですね…?」
「敦盛と私は、かろうじて間に合った。朔が報せてくれたからだ」
「朔が…?」
「朔は自らを待つ静かな日々を捨て、私の庵に助けを求めて来た。
結界を避けるため、谷底を進み崖をよじ登り、傷だらけになりながら」
「朔……」
景時は、雪原の向こうに広がる森に眼をやった。
数頭の馬が森から走り出てくる。
先頭を走るのは、長い髪をなびかせた少女。
「何者だ?」
「戦場に女か?」
「木曾ではないのだぞ」
騒ぐ奥州軍の中で、弁慶と泰衡だけが驚愕してその少女を見つめている。
「望美さん…なぜ」
「神子殿か? 熊野がなぜしゃしゃり出て来る」
一方の鎌倉軍もどよめいている。
こちらには源氏の神子を知る者が多い。
しかし今、神子と同道しているのは、奥州軍の印をつけた郎等。
神子が自分たちの援軍として駆けつけたのではないということは、誰の眼にも明らかだ。
かつての総大将、九郎義経に弓を引くだけではなく、
神子様とも戦わなければならないのか……。
功名に逸る者達も、心に小さな棘の痛みを感じる。
やがて、九郎と景時の前で望美は馬から下りた。
開口一番、九郎が詰め寄る。
「本当なのか、本当に御館は軍を退けと?」
「本当です」
望美はきっぱりと答える。
平泉の郎等が進み出て懐から書状を出した。
「まことにございます。これは御館が自らお書きになったもの」
朔が、景時の前に立つ。
「兄上…」
「朔…」
「お願いよ兄上、奥州は軍を退くわ。だから鎌倉も」
しかし景時は悲しげに首を振った。
「それは……無理だよ。
頼朝様は奥州を征伐せよと命じた。逆らうことなんて、できない」
朔は手にした袋を開いて中の物を取り出した。
「兄上、これを…」
景時に手渡されたのは、笹竜胆の紋のついた小刀。
「これは…頼朝様の…」
その時、雲が晴れた。
眩い太陽が姿を現す。
と、その光が二つに分かれた。
一つは太陽。
そしてもう一つは、淡く透き通った赤い翼。
大きく広がって雪原を覆う。
「朱…雀……」
弁慶が胸を押さえた。
泰衡は、眉間に皺を寄せることも忘れて空を仰ぐ。
九郎は拳を握りしめ、景時は大きく喘いだ。
朔は両手を胸の前で組み、祈るように天を見上げている。
望美は空に向かい、思い切り両の手を差し伸べた。
あたたかな力が満ちてくる。
優しい力に包まれる。
「ありがとう…朱雀」
美しい翼はゆるやかに雪上を舞うと、大きく羽ばたいて去っていった。
戦場にある兵達の目には、朱雀の姿は様々に映った。
ある者はその姿をしっかりと見届け、ある者が見たのは朧な影。
またある者には何も見えず、空を見上げる者達を訝しげに思うだけ。
ただ一つ確かなことは、両軍の総大将が自陣に戻って下した命だ。
「この場は退く!」
騒然となる兵達に、九郎も景時も事実のみを伝えた。
源氏の棟梁、源頼朝が平泉に来た。
今、藤原秀衡と相対している。
和議が成るか成らぬか、その結果を待て――と。
[1. 星夜]
[2. 帰郷]
[3. 下命]
[4. 出立の時]
[5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]
[7. 小さき祈り]
[8. 飛翔]
[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]
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2009.8.18