1. 星 夜
リズヴァーンと敦盛が、望美達をかばうように立っている。
背後から見ていても分かる。鈍色装束の男達と向き合った二人には、微塵の隙もない。
敦盛が錫杖を構えたまま言った。
「神子、ここはリズ先生と私が止める」
低い口笛が鳴る。
「感謝するぜ」
ヒノエが望美の手を取った時、
「逃がすか!」
男の合図で次の矢が放たれた。
その刹那、薊は捻られた腕の方向に身体を回し、男の腕の付け根に毒針を刺した。
激痛に男の力が緩み、薊は腕をすり抜ける。
ミサゴに腹を蹴られた馬が、薊に向かって走った。
敦盛とリズヴァーンの後ろで、ヒノエと望美は馬に飛び乗る。
馬上から望美は叫んだ。
「先生、敦盛さん、一緒に!」
矢では埒が開かぬと見た男達は、剣を抜いた。
その只中に、リズヴァーンと敦盛は飛び込む。
「この先の辻で朔が待っている、先に行きなさい」
リズヴァーンの言葉に、望美は息を呑んだ。
「朔が…」
しかしそれは一瞬のこと。
「行くよ、姫君」
「神子、必ず…後から行く」
この場で躊躇してはならない。
馬が走り出す。
「待ってるから!!」
戦う二人が、無言で頷く。
薊の前に走って来た馬の上には、いつの間にか馬を蹴った当人のミサゴがいた。
馬上から薊を引き上げると、馬の向きを変え、ヒノエ達と一緒に走り去る。
剣戟の音が遠ざかり、やがて空に一つ二つと星が光り始めた。
望美達の一行に、ほっそりとした馬が加わり、
四頭の馬は京を出て、ひたすら南を目指していく。
誰一人として、熊野別当を追跡することはできなかった。
相手はたった二人。散開すれば難なく振り切れるはずだ。
しかしその当然のことが、この二人には通じない。
どちらに向かっても、鬼が先回りして立ち塞がる。
そこで鬼を足止めできれば、他の者達が別の進路を取れるのだが、
足止めどころか、一撃で勝負が付いてしまうのだ。
そして、鬼は次の場所に現れる。
二人三人と固まった者達は、公達の錫杖でしたたかに打ちのめされ、
そのあげく、梶原邸の前まで投げ戻されてしまう。
苦戦というより、一方的な戦いだ。
若い公達と鬼に翻弄されるまま、男達は京邸に釘付けになっていた。
しかし、機はいつか訪れるもの。
別々に戦っていた鬼と公達が合流した。
反撃の好機!
しかしその瞬間、二人の姿は忽然と消えた。
戦いは長引き、辺りはもう薄闇の中。
今から追っても、熊野別当を捕らえることはできない。
小さな舌打ちの音が、やけに大きく響く。
「これだけの時間があれば…もう京を出ているだろう」
男が一人、動かぬ身体を塀に寄りかからせ、暗く澱んだ声で呟いた。
薊の毒針に刺され、戦いに加わることもできずに、その一部始終を見続けるしかなかった男だ。
――あの娘……
六波羅で反撃してきたくらいの食わせ者だ。もっと警戒すべきだった。
針に毒を仕込んでいたとはな。
しかも、腕に刺したかと思えば…いつの間にか…こんな所に。
目だけを動かして、投げ出した足を見る。
膝当ての隙間に突き刺さった、もう一本の針。
痛みを感じにくい場所を狙ったか。したたかな娘だ。
男は、腕も足も痺れて、動けない。
この毒、どの程度のものなのか。
だが、致命的な毒だとしても、そうでなくても
……大差はない。
自分を取り巻くように、幾人もの足が近づいて来るのが見える。
「うぬは動けぬな、壱」
顔は上がらないが、声で分かる。別当のいる小屋に、自分と共に火を放った男だ。
名は知らぬ。弐と呼ばれる手練れだ。
「その通りだ」
「皆、聞いたな」
弐の言葉を、幾つもの低い声が一斉に肯定した。
「では、今から私が壱だ。そしてお前は数を失う」
感情のない声で答える。
「壱の掟は知っている」
チ…
無言のまま、弐が鯉口を切る音。
兄の仇を討てたなど、あの娘は知らぬまま終わるのだろう。
皮肉な巡り合わせ…というやつか。
男の耳元に、風を切る音がした。
夜の帳が下りた後には、降るような星明かりが
誰もいない路地を照らすばかりだった。
洛南の道をしばらく行ったところで、敦盛とリズヴァーンが合流した。
そしてヒノエが水軍の一行と別れた林には、烏が待っていた。
聞けば、副頭領の指示で待機していたという。
烏の案内で、林の奥にある廃屋を一夜の宿に決めた。
凍てつく冬の星の下、あばら屋とはいえ、寒さを凌げる場所は貴重だ。
火を熾し、烏の運んできた材料で、ささやかな夕餉を囲む。
敦盛、リズヴァーンとは久々の再会だ。
自然、話題は、突然現れた二人のことになる。
「ええっ! 朔が鞍馬の庵に?」
「うむ。神子の危急を伝え、助力を求めに来た。
無論、断ることはない」
「ただ、結界の所で進めなくなって、ちょっと遠回りをしてしまったの。
それでこんなに遅くなってしまって、危ないところだったわ」
「人を寄せ付けぬための結界とはいえ、朔には申し訳ないことをした」
「遠回り…って、まさか山道をそれて…?」
「そうだ…。だから朔殿の姿を見た時には、驚いてしまった。
女人に崖道を登らせるとは…すまなかった…」
しかし朔は気にする様子もない。
「いいのよ、それくらい。
リズ先生の庵まで、ちゃんとたどり着けたんですもの」
朔の顔や手は、かすり傷でいっぱいだ。
着物も所々破れて土の汚れが付いている。
「朔…私を助けるために、こんなに…」
しかし朔は笑顔で答える。
「あなたは大切な親友ですもの。当たり前だわ。
それに、私一人じゃなかったの。薊も協力してくれたのよ」
視線が集まり、薊は居心地悪そうに身じろぎした。
「朔は…庭の小屋が怪しいと分かっていた。
だが、郎等に阻まれて近寄ることもできない。
だから…大原の寺ではなく、助力を求めに鞍馬に行く…と言った。
私は…朔の留守居をしただけだ」
「そうか、それで朔ちゃんからの伝言を預かっていたんだね」
「あの言葉のおかげで鍵の在処が分かったんだ。
それで、火の中から脱出できんだよ。ありがとう、朔、薊さん」
望美がにっこり笑うと、薊はさらにいたたまれず、身を縮めた。
「何と非道なことを…。人のいる小屋に火を放つとは…」
「神子とヒノエの冷静な判断なくば、命が危うかったということか」
「でも、分からないことがあるんだけど」
ヒノエが薊に向き直った。
「弁慶の診療所から、なぜ京邸に行ったんだい?」
「そ…それは…」
薊は言葉に詰まった。
事情を話せば長くなる。まして、理由をどう話せばいいのか。
自分の気持ちなど、尋ねられたことは無かったし、話したいと思ったこともない。
だが、熊野別当が疑問を持つのは当然だ。
かつて自分は、熊野を争乱の渦中に投げ入れようとしていた者達の仲間だったのだから、
このように助力したとしても、疑われても仕方がない。
望美という女を…
仇の自分に、一緒に熊野に帰ろうなどと言い出す女、
景時の武器から、咄嗟に私をかばうようなお人好しの女を、助けたいと思った…
自分に一度だけ、暖かな言葉をかけてきた朔を信じた…
景時の妹と知りつつ、信じたかったから…
などと口にしたところで、戯れ言にしか聞こえないだろう。
弁慶の顔が、傷の手当てをする手の感触が、心の奥から浮かび上がろうとする。
あの男は……関係ない。
薊は唇を噛んだ。
ならば、いっそ黙っていよう。
夜が明ける前に、このまま姿を消せば……
しかし、あっけらかんとした声が、薊の考えを鮮やかに断ち切った。
「ああ、言いたくなかったら内緒にしていていいからね。
もう、ヒノエくんったら、女の子の心は複雑なんだよ」
「薊は、望美を助けたいって、雪の中、私を訪ねてきてくれたの。
気持ちは私も同じだったから、その時から私たち、友達になったわ。
詳しい事情は言いづらそうだし、ヒノエ殿、ここは許してあげて」
ヒノエは口笛を吹いた。
「ははっ、いつの間にか、女同士の結束ってのができてたのかい」
「うん」
「だったら、それに口を挟むようなヤボはしないってね」
「誰しも、答えられないことはあるものだ」
「語れないからといって…誰も責めはしない」
リズヴァーンと敦盛も頷いている。
烏が差し出した小枝を、敦盛が黙って火にくべる。
少し勢いづいた炎が、すきま風に斜めになびいた。
「ねえ、私もヒノエくんに聞きたいことがあるんだけど」
今度は望美が切り出した。
ヒノエは片目をつぶってみせる。
「姫君の唇から出た言葉には、何でもお答えするよ」
「私がいるのが、どうして景時さんのからくり小屋だって分かったの?
そういえば、朔もそう思ったんだよね。どうして?
監視が厳しかったから?」
「それもあるのだけれど…」
そう言って朔は首を振り、ヒノエに答えを任せた。
ヒノエは言葉を選びながら話し始める。
この場には朔がいる。
景時と望美の板挟みになって一番苦しんでいるのは朔なのだから、
傷つけるようなことは言えない。
かといって、景時を許すことなどできないのだが。
「景時が教えてくれたんだよ、六波羅に託したオレ宛の書状に、
堂々と書いて寄越したんだ。水軍衆と朔ちゃんの前で、
源氏の江間四郎って野郎がその書状を読み上げたよ」
「え? でもそれじゃ、みんなにわかっちゃうよ」
ヒノエはかぶりを振った。
「そこが景時の食えない頭が切れるところだね。
書状には、こう書いてあったんだ。
姫君の身柄は『最も安全な場所』にあるってね」
望美はきょとんとした。
「それだけ?」
「ああ、それだけだ。でもそれで伝わると、景時は分かっていたんだよ」
「うーん、分からないことばかりだよ。
ヒノエくん、景時さんと何か話をしたことがあるの?」
「いいや、野郎と二人で話す事なんて何もないさ。
やつはね、オレがからくり小屋に忍び込んだことを知っていたんだよ」
朔が、やはりという顔をして頷いた。
「私も、それは薄々気づいていたわ。
家に来た時、ヒノエ殿の中座がずいぶん長かったのですもの」
「鋭いね。でも理由はそれだけ?」
「あの後帰ってきた兄上は、望美とヒノエ殿が泊まったという話を聞くなり、
疲れているのに真っ直ぐからくり小屋に行ったの。
そこから出てきた時の顔を…私、見てしまって」
「朔…」
「ああ、ごめんなさいね、話を途切れさせてしまって」
「いや、やっぱり女の勘ってやつは侮れないね」
ヒノエは笑い、すぐに真顔になる。
初めて聞く経緯に、皆一心に聞き入っている。
ヒノエは一同を見回した。
「からくり小屋の床の模様で、オレはあそこが避難場所だと確信したんだ」
「あの梵字のこと?」
「そうだよ。順番に言うとね、まず、あの小屋の壁には翡翠の玉が埋め込まれていた。
翡翠といえば、魔除けの力を持つものだよ。
さらに玉の表面に文字を見つけたんだ。暗くて全部は分からなかったけどね、
玉は九つ。読み取れた文字は闘、皆、列…」
「九字か…」
リズヴァーンが低い声で言った。
「そう、玉の嵌め込まれた位置からして、刀印を模したものだと思うよ」
「それもまた、退魔の法。景時の小屋は、何から逃れるためのものだったというのだ」
リズヴァーンの問いに、朔も膝を乗り出した。
「それが、私も分からないの。兄上は何を恐れていたのかしら。
以前私に言ったことがあるわ。何かあったら、あの小屋に逃げ込むようにって。
その時、床に仕掛けがあることや、鍵の在処を探す謎かけのような言葉を聞いたの」
「ヒノエ…何か見当がついているのだろうか。今の話を聞いていると、
景時殿が恐れているものは、何か人ならぬもの…のような気がするのだが」
ヒノエはパチンと指を鳴らした。
「へえ、今日はやるじゃん、敦盛」
「それを解く鍵が、あの梵字なんだね」
「さすが姫君、正解だよ」
ヒノエは立ち上がると、宙に形を描いてみせた。
「その形はマハーカーラ…大黒天か」
「なぜ兄上は神様を?」
「大日如来の化身とも言われる神を…なぜ景時殿が恐れねばならないのだろうか」
しかしヒノエはかぶりを振った。
「いや、違うね。よく考えてみろよ、恐れるものの象徴を、
自分の隠れ場所に置いたりするものかい?」
しばしの沈黙の後、望美が口を開く。
「もしかして大黒様の方が、景時さんが恐れているものより強い、とか?」
「そうか…」
「理にかなった考え方だ」
「きっとそうだわ」
「御明察だよ、姫君。そして、ここからが話の核心だ」
そう言ってヒノエは、別の梵字を宙に描いた。
先の文字より、少し複雑な形をしている。
「あの床板の大黒天の梵字の中に、この字が刻み込まれていたんだよ。
景時が翡翠の力、九字の力、マハーカーラの力で押さえ込もうとしたものの正体だ」
ヒノエは望美に視線を向けた。
「そして、それはお前に、力の一端を見せてしまったんだよ。
覚えているだろう? 人ならぬ力…凍り付いた時間のことを」
記憶が一気に溯り、望美の脳裏に、六条堀川での出来事が蘇った。
かすれた声を出すのが精一杯だ。
「ま…まさか…あの政子様が?」
「そうだよ。お前のおかげで、政子の正体を知ることができた。
この梵字が現すのは荼吉尼天…外つ国から逃れてきた神だよ」
[1. 星夜]
[2. 帰郷]
[3. 下命]
[4. 出立の時]
[5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]
[7. 小さき祈り]
[8. 飛翔]
[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]
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第5章のスタートです。
一応これが終章の予定…。
話はぽんぽん展開していくハズですが、
まずは助走ということで、前半はゆっくりペースで行くと思います。
10話で収まりきらないと思った時点で、いきなりスピードアップ…
なんてことにならないように、計算しつつ進めていきたいなあと。
本章では、今までなりを潜めていたおっさん達が、また元気に登場しますので、
渋いおっさん好きの方(いらっしゃいます? 同好の方〜〜)、お楽しみに。
いよいよラストスパート、がんばりまっす!!
どうぞ最後までおつきあい下さいませ!!
2009.6.13