4. 出立の時
鎌倉に淡雪が降り、すぐに止んだ。
水気を含んだ雪が薄日に溶けていく。庭の木々がぽつりぽつりと雫を落とす。
出陣前の騒然とした空気は、今はない。
「静かですわね。これまでの喧噪が嘘のよう」
庭を見ていた政子が、部屋の奥に座した頼朝を振り返って言った。
「景時は短い日数で準備を調えて、本当に見事な手際でしたこと。
あれでは、他の御家人達も不平不満を言うことはできませんわね」
頼朝は何の感興も含まぬ声で答える。
「軍奉行として腕をふるってきたこと、無駄ではあるまい」
「一所懸命でしたわね。景時にはもう後がないのですもの。くすくす…かわいそうに」
「かわいそう…か。心にもないことを言う」
「あら、本心ですのよ。だからこそ、必死で働いてくれるはず」
「景時なれば、遺漏無く進めるだろう」
「本当に、景時は有能ですもの。よい子を味方にしましたわね」
政子の言葉に、頼朝は何も言わず片頬で笑った。
着物の裾を翻し、政子は頼朝の隣に座した。
「ねえ、あなた…。私の出立にはお言葉も頂けませんの?」
頼朝が顔を向けると、少し拗ねたような政子の顔がある。
「護衛と女房達を供に付ける。伊勢より先の道では、気取られぬよう動け」
政子の眼が大きく見開き、口元が尖ったかと見る間に、顔がぷいっと横を向いた。
「そのような言葉、うれしくありませんわ」
頼朝は反対側の頬で苦笑いする。
「熊野はお前に任せた。…これでよいか」
政子の頭が、仕方ないとでもいうように小さく動いた。
「あなたが思っているのは他国のことばかりなのね」
「当然のことだ。平家を滅ぼしても、それで終わりではない」
政子はくるりと振り向いた。
「ええ、もちろんですとも。この国を私達のものにするまでは」
頼朝は、ふっと眼を細めた。
「だが、それで終わりでもない」
政子は袖で口元を隠して笑った。
「よいですわ。私、どこまでもあなたについていきますもの。
あなたの眼には、九郎も奥州も京の朝廷も、ただの邪魔者にしかすぎないのね」
頼朝の声が低くなる。
「言葉には気をつけろ、政子。
この鎌倉にも、いや大倉御所の中にさえ、院宣無き出兵に不安を口にする者がいる」
「ご安心なさいませ。誰も聞いてはおりませんわ。
でも誰かに聞かれたところで、気にする必要があるかしら?
あなたの意に反する者が、無事でいられるはずがないのですもの」
頼朝は、陽の陰った庭を見た。
「宣旨も院宣も不要。奥州攻めの名分は源氏の家人を討つことだ。何の不足もない。
だが、お前には分からぬのだろうな。
人の心は易きに流れる。大樹にすがりたいと願う愚は、鎌倉武士も平家も変わらぬと」
「くすくす…それくらいは分かりましてよ。
弱き者達は、朝廷の権威の下から外れたなら安心できないのですわ。
平家もしょせん、貴族の真似事をしただけですのね」
「栄華を極めたと言いながら、平家は院の掌で踊らされていたようなもの。
しかも一門がそこまでに至ったのは平清盛という抜きん出た存在があればこそだ。
清盛亡き後、落日の如く沈んでいったのも不思議はない」
「平家は、九郎がいなくても滅んだ…と仰るの?」
「腐った実は落ちる。九郎はそれをたたき落としただけだ。
熊野の助力なくば、もっと時間が必要だったかもしれぬが…」
頼朝は立ち上がった。
「言っても詮無きことだ。出立の用意ができているなら見送ろう、政子」
無邪気な喜びの声を上げ、政子は両の手をぱちんと打ち鳴らした。
「うれしいわ!」
その眼には狐火のような光が踊っている。
「では、伊勢の宮まで行ってきますわね。
一人きりで籠もって、戦勝をお祈りする……くすくす…私の祈願は効験あらたかですわ」
「古き神を食らってはならぬぞ」
頼朝の言葉に、政子は凄艶な笑みを浮かべた。
「伊勢の神々には、手を出しませんことよ」
「行くぜええっ!! 野郎共おおおおっ!!!」
湛快の野太い声が窟にこだました。
「おおおおおうっ!!!!」
呼応する水軍衆の声が、耳を圧して轟き渡る。
ここは熊野水軍の隠し砦。
軍船の甲板に仁王立ちし、湛快は居並ぶ男達を見渡した。
湛快が頭領の座を退くと共に海を離れた者達が、再び軍船に乗り込んでいる。
長年の間、熊野の海の波と風、熱い太陽にさらされてきた屈強な男達だ。
顔に深い皺を刻んだ者もいるが、今なおぎらぎらと光る目は、紛れもなく歴戦の海賊の証。
「じゃあ、ちょっとばかし行ってくるぜ」
湛快は船上から、桟橋に立つヒノエを見下ろしていった。
湛快の隣には、望美、朔、敦盛とリズヴァーンがいる。
「舟に乗ったとたんに、何でいきなりそんなに元気になるんだよ。
張り切りすぎてぶっ倒れるんじゃねえぞ」
「はははっ、これが海の男よ。
百人の若造が集まるより、本物の海の男十人の方が頼りになるってもんだ」
湛快は分厚い胸板を叩いた。
船上の水軍衆が同意の雄叫びを上げ、桟橋の若衆達がぶうぶうと抗議する。
「ちぇっ、勝手なこと言いやがって。これまで楽隠居決め込んでたんだ。
その分、働いてもらうぜ」
「おう、俺はどんな荒波も乗り切ってやるぜ」
そう言うと湛快は、隣の望美と朔にくるりと向き直った。
「どうだい、俺に惚れてもいいんだぜ、お嬢さん達」
朔がぴょんと後ろに飛び退く。
「え…ええと、あの…私……」
望美がにっこり笑った。
「朔をからかっちゃダメですよ」
「望美のお舅さん、面白い方ね。対処に困るけれど」
「ほら、朔が困ってるじゃないですか」
「うーん、はっきりしてるとこがたまらねえ」
「うっせえ、親父。
おい、野郎共、こいつが姫君達に手を出そうとしたら、遠慮なく海に放り込め!」
船上の男達が、今度はヒノエに同意して一斉に「おう!」と声を上げた。
「神子のことは…必ず守る」
「無論」
敦盛とリズヴァーンが、湛快と望美達の間にずいっと割って入る。
「大切な姫君を預けたんだ。
無事に戻ってこなかったら承知しないぜ」
湛快は腕を組み、不敵に笑った。
「熊野別当藤原湛増、お前の下命、しかと受け取った」
そして高々と拳を振り上げ、全軍に船出の合図をする。
「ヒノエくん…行ってくる」
「姫君の帰りを待ってるよ」
舟の上と下、届かぬ手と手を差し伸べてヒノエと望美は見つめ合った。
別れの前夜、一時も離れることなく絡み合っていた腕が、静かに離れていく。
最後の船が窟を出て、南へとその向きを変えて視界から消えるまで、
ヒノエは一人、桟橋に残って見送っていた。
岸辺を洗う波の音だけが続く、がらんとした窟の回廊を上る。
窟を出れば、そこは断崖絶壁の頂上。
強い風が、ヒノエの髪をなぶって吹き過ぎた。
潮の匂いと沖から押し寄せる海の気の彼方を、船団が遠ざかっていく。
「オレ達は勝つぜ」
望美を乗せた船に向け、親指を立てた拳をぐっと突き出す。
真上に高い空。眼前にはどこまでも続く青海原。
振り向けば、雲を戴いて連なる山々。
岩に砕ける波音が胸を叩く。
「頭領」
副頭領の声がした。
草を分けて小道を進み、広い岩棚の上にひらりと飛び降りる。
そこには水軍の副頭領と若衆、ノスリに率いられた烏達が待っていた。
「親父と一緒に行かなくてよかったのかい」
ヒノエの問いに、副頭領はきっぱりと太い首を振った。
「頭領をお助けするのが私の役目です」
そして心配そうな顔で付け加える。
「しかし、頭領お一人でこれからどのように…」
一人? いや、違う。
熊野がオレと一緒だ。
そして望美…お前もオレと共にいる。
比翼の鳥の翼は、海を隔てても離れはしない。
ヒノエはからりと笑って皆を見渡した。
その笑顔は、強がりでもなければ己への過信でもない。
ほっそりと美しい少年の姿の中に、
背に負った重さを強さに変える、揺らがぬ男の顔がある。
真っ直ぐな視線のままに、ヒノエは歩き出す。
「さあ、オレ達も行くぜ! 野郎共!!」
[1. 星夜]
[2. 帰郷]
[3. 下命]
[4. 出立の時]
[5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]
[7. 小さき祈り]
[8. 飛翔]
[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]
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2009.7.2