比 翼

− 5  比 翼 −

6. 嵐の前



九郎率いる奥州軍と景時率いる鎌倉軍が、真正面から激突するのはいつか?
平泉を、ぴりぴりとした空気が覆っている。

一方前線では、戦慣れした鎌倉軍に対し、奥州軍は地の利を生かしながら奮闘していた。
あっさりと砦を落とされたように見せつつ戦力を温存し、佐藤兄弟率いる援軍と密かに合流。
後方から回り込んで景時軍を分断する機を窺っている。

しかし……。

早馬が九郎の本陣に駆け込んだ。

「背後を取られたのは、こちらだというのか!?」
「はっ! 景時殿の本隊と見えたのは囮。奇襲は失敗に終わりました」
「こちらの策が読まれていた…ということですね。で、我が軍の損害は?」
「正確には掴めておりません。というのも、軍の侵攻した後の街道には、
大きな陥穽が仕掛けられておりまして」

「……何を考えている、景時は。自分が退却する時にはそれこそ大変な妨げだろう」
九郎の言葉に、弁慶は嘆息混じりに言った。
「景時には後がないから…ですよ。
そうさせたのは僕ですが、だからといって手加減するつもりもありません。
けれど、分断するはずのこちらが分断された…。今回は景時の読み勝ちです。
損失を最小に留め、戦わずして勝つ。まるで絵に描いたような景時の戦法に
まんまと嵌ってしまったのですから」

「フ…当たり前のことを得々として言うのが軍師の仕事か」
泰衡の皮肉な口調にかまうことなく、弁慶は淡々と続ける。
「事実は事実ですよ。景時を侮ることはできません。
源平合戦の時も、軍奉行としての仕事をおろそかにしたこともなければ、
大きな失策をしたこともない。膨大な仕事を抱えながら、
何もかも的確にこなしているのは不思議なくらいでしたからね。
けれど、言葉もふるまいも軽いために、景時の本質に気づく者はごく僅かでした。
鎌倉殿もよい人選をするものです」

九郎がきっぱりと言う。
「景時も全力だが、後がないのは奥州も同じ。勝負はこれからだ」
九郎は剣を手に取り、立ち上がった。
「景時が進めば進むほど、雪深い地に入り込むことになる。
景時の軍には、雪に慣れた越の国からの兵はいない」
弁慶も薙刀を手にして、歩き出した九郎を追う。
「雪上戦になれば、こちらに分があります」
泰衡が外套を翻して二人の隣に並んだ。
「軍師殿、分断に失敗したことを忘れては困るのだが。
数の上では、鎌倉軍が圧倒的に有利なままだ」
弁慶は笑みを浮かべて泰衡に答えた。
「ああ、そのことでしたら、少々の手は打ってあります。
とても簡単なことではありますが、なかなかに効果的だと思いますよ」
「聞いてないぞ。何をした、弁慶」
「奥州の総大将は源九郎義経――と、鎌倉軍に間者を送り込んでふれまわらせました」

九郎はきょとんとして聞き返した。
「それのどこが策なんだ。とっくに知られていることだろう」
「士気の問題ですよ。九郎義経に弓を引くことをよしとしない心は、
かつて君と共に戦ったことのある兵ならば皆持っています。
しみじみと昔語りなどされた日には、それだけで士気が下がること受け合いですね」
「それを言うなら俺だって同じだ! 景時は仲間だったんだぞ。それを……」

むきになって力説する九郎を見ながら、
泰衡は、ひくひくする腹と眉間に力を入れて額の皺を深くした。
――自分の影響力をわきまえぬこのような阿呆に、奥州を任せてよかったのだろうか。

しかし泰衡の自問は、九郎の声に断ち切られた。
「兵の数は埋められない。だが俺に考えがある」
「考えとは?」
「何を思いついた?」
同時に問うた弁慶と泰衡に、九郎は一瞬笑顔を向け、次に口を真一文字に引き結んだ。
二人を見据え、静かな声で言う。

「俺と景時……総大将同士が、一騎打ちをする」

そして、一瞬答える言葉を失った二人の眼前で、
手にした剣を鮮やかな所作で腰に佩いた。
九郎の声が、総大将の響きを帯びて二人を打つ。
「弁慶、泰衡、行くぞ!」


* * * * * * * * * * * * * * * * * *



北上川と衣川との分岐の近くに、川湊の町がある。
平泉の水運の中心地として賑わう港町だが、今は冬。
しかも戦が近いとあって、人通りは少なく停泊している舟もまばらだ。

その川湊が今、騒然となっている。
見知らぬ軍船が川を溯ってきたのだ。
すわ! 鎌倉の襲撃かと一度は慌てふためいたものの、
舟上に武士の姿は無く、翩翻と翻る旗には三本の足の烏が描かれている。
交易の舟で見たことのある印とはいえ、軍船にそれがあるとなれば話は別だ。
人々の報せに駆けつけた平泉の郎等は、その旗を見るや、
藤原秀衡のいる柳御所に全速力で走った。

やがて舫綱が投げられ、軍船は港に泊まった。
軍馬が舟を幾重にも取り囲み、町の人々は港から遠くへと避難する。

しかし、張り詰めた空気の中、舟の上に姿を現したのは剣を手挟んだ若い娘だった。
周囲を取り巻く武士の一団を見ても怯える風もなく、
娘は凜とした声を上げた。

「私は熊野の春日望美といいます。
源平合戦の時には私の夫、藤原湛増と共に九郎さんの下で戦いました」
娘の後ろに、赤銅色に日焼けした男が進み出る。
さらに、ひっそりとした気を纏った美しい尼僧が一人。

意図を計りかねて、ざわざわと武士達がざわめく。
と、重々しい蹄の音がして、新たに郎等の一団が港に入ってきた。
その中に見知った姿を見つけ、舟上の男は豪快な声で呼びかける。

「取り込み中悪ぃな、秀衡殿…じゃねえ、御館!」
「何と! 湛快殿か!」
そう答えて、秀衡は馬を進めた。
「奥州は今危急の時。熊野の烏から聞き及んでいように、
なぜ今を選んでわざわざここまで来たのじゃ」

湛快はにやりと笑って、望美の隣に立った。
「だからこそ来たのよ。人使いの荒ぇ熊野別当に代わって、
白龍と黒龍の神子殿達をお連れした」

「おおおおーーーっ!!!」
「龍神の加護を奥州に?」
「神子様が助太刀に来て下さったのか?!」
どよめく武士達を、望美はすっと手を挙げて制した。

「聞いて下さい! 私は戦をしに来たのではありません。
私がここに来た目的はただ一つ。それは、この戦を止めることです。
奥州、源氏、どちらが勝っても、多くの人の血が流れます。
私はそれを、何としても止めさせたいのです!」

最前にも増して、武士達はどよめいていた。
――戦を止める?
この期に及んで正気なのか?
鎌倉が兵を退かぬ限り、そのようなことはあり得ない。
絵空事を言うために、わざわざ熊野から来たというのか?
神子というのも疑わしい。
いや、湛快殿は御館と親しい間柄。偽物の神子をでっちあげることなどすまい。
そもそも、そこがおかしい。したたかな熊野が見込みのないことをするものだろうか?

騒然とした場の中で、望美は揺るぎない眼差しで立っている。
湛快、朔も、武士達の様子を静かに見守っているだけだ。
湛快と秀衡の視線が、ぶつかり合う。

厳しい表情で黙していた秀衡が、合図をした。
桟橋と舟の間に板が渡される。

軽い身ごなしで舟を下りた望美は、秀衡に深々と頭を下げた。
「お前が白龍の神子か」
歳月を刻んだ声が、望美に問う。
「はい。私は白龍の神子でした」
「今は違うというのか」
望美は頷いた。
「白龍は力を取り戻して天に還りました。
神子の役目はその時に終わったんです」
「では、今は龍神のためではなく熊野のために在るのじゃな」
望美は少し考えて答える。
「私は、熊野別当のヒノエくんと結婚しました。
その意味では、私はいつも熊野のことを思っています。
けれど、白龍がなぜ神子を必要としたのか、その理由を考えるなら、
白龍の願ったことと今の私の願いは同じ…なのだと思います」

秀衡の表情は厳しいままだ。
「その願いとは何じゃ」
望美は真っ直ぐに秀衡の眼を見た。
「人の世の平穏が龍神の願い。 私の願いは、この戦を止めることです」
「避けられぬ戦もある。源氏と平家の戦いも同じではなかったか」
「平和の世に、あえて戦乱を起こすことはありません」
「それは頼朝殿に言うべきこと。奥州は退かぬ」

「そこんところで抜かりねえのが俺だ」
湛快が割って入ってきた。
望美の視線を感じて、「抜かりねえのが熊野だ」と言い直して、
秀衡に何やら耳打ちする。
「な…何と…!!」
秀衡は驚きの声を上げるなり、絶句した。
しばし大きく深呼吸を繰り返し、やっと望美に向き直る。
「大それたことを…なさいましたのう」

そして、先ほどとは打って変わった深い声で言った。
「神子殿、先ほどあなたは、奥州、源氏、どちらの血も流したくない…そう言われたな?」
「はい」
秀衡は瞑目し、小さく呟いた。
「清衡公の祈り…か」

不思議そうな顔をした望美に、秀衡は初めて笑顔を向けた。
「御曹司からも、我が子泰衡からも聞いておる。
神子殿はまこと、途方もないお人じゃ。だが、不思議と信じたくもなる」

望美はにっこり笑い、すぐに真剣な表情に戻った。
「お願いです、九郎さんに会わせて下さい」
秀衡は黙って郎等を手招きすると、手早く指示を出した。
「おい、まさかもう…」
湛快の声が大きくなる。
秀衡は頷いた。

「御曹司は、泰衡、弁慶殿共々もう出陣された。
今、御所一番の駿馬を連れて来るよう命じたところじゃ。
お急ぎなされ、神子殿。間もなく両軍は激突しましょうぞ」


* * * * * * * * * * * * * * * * * *



伊勢。
外宮と内宮を拝した北条政子は、幾人かの供を連れて齋の宮に入った。
鎌倉の戦勝を祈願するためだ。

禊ぎの部屋には政子ただ一人が籠もり、
付き添いの女房、警護の武士は次の間で控える。

白い装束に着替えた政子は、供の者達に向かって言った。
「では皆様、待っていて下さいね。
頼朝様の下、奥州が平らかになるよう、私、一生懸命お祈りして参りますわ」
武士達が頭を垂れる。
「我らはこちらにおりますゆえ、何事かありましたら、すぐにお呼び下さい」
古参の女房も両手をついて言った。
「御台様、お一人で幾日も籠もるなどお心細いことでしょうけれど、
私たちも一緒でございます。この宮から外には出ませんので、どうぞお心強く」
政子は白い袖を口元に当てて微笑んだ。
「くすくす…ありがとう」

そして扉を開け、皆に背を向けて小さく言う。
「あなたたちにも、協力していただきますわ」

その言葉が終わらないうちに、かくん…かくん…と、魂が抜けたように供の者達が床に倒れた。
政子はくるりと振り向く。
「私が戻るまで、そうしていなさい。
ここには誰も近寄らないんですもの、ゆっくり眠れましてよ」

政子の眼に狐火が燃え上がり、次の瞬間、その姿はもうどこにも無かった。




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[1. 星夜]  [2. 帰郷]  [3. 下命]  [4. 出立の時]  [5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]  [7. 小さき祈り]  [8. 飛翔]  [9. 継ぐ者達へ…]  [10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]

[後書き]

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2009.7.24