9. 継ぐ者達へ…
「政子…」
頼朝は眼を見開き、空を睨め付けていた。
眸の裏には、炎を纏った鳥の残像がまだ焼き付いている。
厚い雪雲が晴れ、陽の光の降り注ぐ無量光院の庭、
朱雀の舞う空を見た三人の男が、無言で立ちつくす。
藤原秀衡は合掌し、藤原湛快はまぶしそうに拳を額に当てている。
頼朝は視線を落とすと、拳を握りしめた。
「政子…あり得ぬ」
否定する。
だが、それが否定できぬ事実であると、頼朝自身が知っている。
朱雀が頼朝に見せたものは光景ではない。
伝えたものは言葉ではない。
しかし、刹那に触れた炎神は真なる存在。
人の世のまやかしとは無縁に在るものだ。
あれは…あまりに人に近づいたゆえ、滅したのか。
頼朝は息を詰め、己の足元に広がる暗黒を見る。
瓦解。
喪失。
ただ一つ、信じる者の名を呼ぶ。
「政子…」
かすかな光が射す。
――そうだ
朱雀は真実を告げたのではないか。
……あれは消えたが、政子の命は消えてはいない。
頼朝は再び視線を上げ、空を仰いだ。
朱雀のもたらしたものは、暗黒と光明。
だが朱雀にとっては、どちらも同じ。
それを暗黒と感じ光明と感じるのは人なのだ。
神なるものとは、そのように在るのかもしれぬ。
白龍の神子に寄り添った龍神が、今はもう天に還った如く…。
あれは……私のために滅したのだ。
戦場となるはずだった広野を、風が吹き渡っている。
勇ましい鬨の声も剣戟の音も、馬の嘶きも阿鼻叫喚の叫びも無く、
穏やかな冬の日射しに、まばらな木々が葉末を揺らすだけ。
奥州と鎌倉、両軍の激突は避けられた。
しかしそれは一時のこと。
望美は東の彼方、平泉へと続く空を見やっている。
頼朝を鎌倉からここまで連れてきた。
強引な手段だったが、これしか方法がなかった。
頼朝が、不本意ながら無理矢理従わされている…という姿勢を見せながらも
徹底的に抗うことなく熊野の軍船へと乗り込んだのは、政子の存在あればこそ。
あの時は、荼吉尼天が熊野の神々を食らい、別当共々滅ぼすことになっていたのだ。
もちろん、疲弊した熊野に、朝廷はでき得る限りの援助をするだろう。
しかし、頼朝を大蔵御所から拉致するという暴挙に出た熊野が、
そのような援助を受けられるはずもない。
そればかりか、鎌倉に対して、己を窮地に追い込むための口実を与えたようなもの。
よもや、荼吉尼天が斃れるなど、疑いもしなかったはず。
―――あの夜…
望美は、大蔵御所の寝間で、頼朝に相対した時のことを思い返している。
「お願いがあります」
「聞く耳持たぬ」
「船のご用意を致しました。奥州に、私たちと共に行って下さい」
頼朝は驚愕し、次に失笑した。
「論外だ」
「とても大切なことを成して頂きたいのです。これは頼朝様にしかできないことです」
「奥州には軍を送った。それで十分」
「その軍を、止めて下さい」
さらなる驚愕と、嘲笑。
「気が触れたか、龍神の神子」
「頼朝様は、奥州の地に足を踏み入れ
たことがおありですか?
藤原秀衡様や、泰衡様と言葉を交わしたことがあるのですか?」
「何が言いたい」
「あなたが滅ぼそうとしている地に、立って下さい。
人々に会って、話して」
「くだらぬ話はもうよい!」
「戦で倒れる人達は、自分の命をくだらないなんて思っていません」
その時、頼朝はふっと歪んだ笑みを浮かべたのだった。
そして冷ややかな声で言った。
「奥州に行ってやろう、龍神の神子」――と。
したたかな計算を胸に秘め、頼朝は今頃、湛快、秀衡と相対しているはず。
――朱雀は、平泉の方へ飛んでいった。
三人も、朱雀を見ただろうか……。
そう…両軍の間に訪れた静寂は、いつ破られるかしれないのだ。
全ては、三者が何を話すか話さぬか、にかかっている。
敵対する奥州と鎌倉、そして中に立つ熊野。
時代の行く末を決める話し合いは、
船が川湊に着いた昨日ではなく、今日…今この時に行われているはずだ。
望美は我知らず両の手を胸の前に合わせ、瞑目していた。
陣幕を張った中に、九郎、敦盛、傷の手当てをすませたリズヴァーンがいる。
口べたと無口が揃ったわりには、会話が弾んでいるというべきか…。
「先生、お久しぶりです。敦盛も、元気そうで何よりだ」
「総大将の役目、立派に果たしているようだな」
「鎌倉の手に捕らえられた…と聞いたが、よく逃れたものだ」
「弁慶や仲間の者達が協力して助け出してくれた。やつらには感謝してもしきれない」
そして九郎は姿勢を正すと、リズヴァーンに向き直った。
「幽閉され、鎌倉へと護送される間も、先生の教えが心を支えてくれました。
逆境の中でも折れずにいられたのは先生のおかげです。改めて、感謝いたします」
「礼は必要ない。学んだことを生かすも生かさぬも、己次第。
私はよき弟子に恵まれたということだ」
「しかし…血を分けた兄弟だというのに…頼朝殿のなさりようは…分からぬ。」
九郎は眼を伏せる。
「俺にも、理由は分からん。
だが、俺を罠に陥れたのは兄上自らの意志だ。
そして、奥州に難癖をつけて大軍を派遣したことも…。
平家に勝てば、平穏な世が来ると思っていた。
兄上もそれを望んでいると、信じて疑わなかった。
それが間違っていたとは……」
リズヴァーンはゆっくりとかぶりを振った。
「信じる強さが、九郎の力だ。
これからも、信じる心のままに在りなさい」
九郎は、かすかに唇を震わせて言った。
「先生……ありがとうございます」
雲の吹き払われた空に、鳥が高く飛んでいる。
森の中からは、鳴き交わす小鳥たちの声が聞こえてくる。
雪原を占拠している人間達を疎ましく思いながらも、
鳥たちにとっては、今日はいつもと同じ冬の一日なのだろう。
空をまぶしそうに見上げていた敦盛が、ぽつんと聞いた。
「……九郎殿はこの地で…生きると決めたのか」
九郎も空を見上げ、躊躇いなく答える。
「ああ、そうだ」
その声の底には、静かな喜びが息づいている。
「生きる場所を得たか。よかったな、九郎」
「はい、先生…」
そう言って九郎は少し言い淀んだ。
「どうした?」
「いえ…その…まだこのまま戦が終わると決まったわけではありませんが、
先生はこの後、どうされるのかと……」
「…………」
「申し訳ありません。出過ぎたことを尋ねてしまいました」
「九郎は確か、平家との戦が終わった時にも同じことを尋ねたな」
「はい…」
リズヴァーンはかすかに微笑んだ。
「あの時の言葉を、私は違えてしまった。
助力を請うた九郎に、私は答えたのだったな。
もう人の世と関わることはない…と」
「…あの時は、自分を恥じました。
世を離れて暮らしておられる先生を戦場に駆り出しておきながら…と」
「あれからまだ一年と経っていない」
「私には……遠い昔のことのように思えます」
「ああ、俺もだ。あれからいろいろなことがあり過ぎたせいかもしれないが」
リズヴァーンは顔を上げ、遠くに連なる白銀の山並みを見た。
「九郎はこの奥州の空の下で生きていくことを選んだ。
人は動き、時は動く。
人の世から外れた者もまた同じだ。
敦盛も決めたのだろう? 己の行く道を」
「はい、リズ先生」
こくりと頷いて、敦盛は小さく笑った。
「望美さん」
雪を踏む忍びやかな足音に振り向くと、そこには弁慶と泰衡がいた。
「陣の中は、一段落したんですか?」
望美の問いに弁慶はにこやかに頷くが、泰衡は眉間にぎゅっと皺を寄せる。
だが望美は、そんな泰衡に動揺する様子はない。
――この表情、挨拶代わり程度に思われているのか…
これは疑惑ではなく、ほぼ確信に近い。
「兵の士気は完全に緩んでしまった。
総力戦を前にして、突然休戦の指示を出された軍がどうなるか、
分からぬ神子殿でもあるまい」
望美は黙ってにっこり笑った。
泰衡は続ける。
「知らぬ間に、熊野もずいぶん好き勝手をしてくれたものだ」
「御館と頼朝殿の直談判なんて、僕では到底考えつきません。
でも確かに、上に立つ者同士が決着をつけるのが一番早いし、効果的ですね」
「フン…」泰衡は鼻で笑った。
「決裂したなら、全面対決だ」
望美は真顔で頷く。
「その通り、このやり方は諸刃の剣です。
でも、一時的に衝突を回避しただけでは、結局また戦いになってしまいます。
この世界の平泉が……」
そこで望美は慌てて口をつぐむ。
そして眉を上げた泰衡に向かい、ぺこんと頭を下げた。
「一度、謝らないといけないと思ってました」
「一度…だけか?」
「はい。あの…詳しくは言えませんけど、
泰衡さんと九郎さんは仲が悪いんじゃないかって疑ってたんです」
泰衡の外套がばさりと音を立てた。
背を向けた泰衡は、「くだらん」と言い捨てて、その場を立ち去る。
――龍の神子が別の世界から来たとの噂は本当なのか…。
とすれば、どうやらその世界にも奥州はあるということか。
そして、九郎がいて、俺がいる。
どうやら俺は、そこではとんだ悪役のようだ。
眉を顰めたまま、泰衡はくすり、と笑う。
その時、陣の中から笑い声が聞こえてきた。
日の高い内から酒も入らぬと言うのに、艶めいた自慢話をしているらしい。
少年の甲高い声と老兵のしわがれ声が混じる。
本当に士気が下がってしまった。
今この時、総攻撃の命が下ったらどうなるのか。
しかし……
あのまま両軍が衝突して、ここが戦場となっていたなら、
彼らがこの時間に、こうして笑い声など上げることはなかったのだ。
人の命は儚い。
足の下に広がるこの大地に、これまでどれほどの血と涙が流れてきたのだろうか。
御館……
泰衡は平泉の空を振り仰いだ。
「朔殿、陣からあまり離れられては危険です」
平泉の郎等が控えめに声をかけてきた。
気がつけば、鎌倉の陣がよく見える場所を探して、
雪野原の中をずいぶん歩いてきてしまっていた。
奥州軍の陣を見ると、望美がこちらに向かって手を振っているのが見える。
「朔〜〜〜!」と呼ぶ声も小さく聞こえてくる。
「ええ、戻りましょう」
朔の返事に、郎等はほっとした様子を見せた。
――兄上…
今まで、どれほど辛かったの…。
朱雀は告げた。
荼吉尼天は消えた、と。
朱雀を見上げたまま、景時は魂が抜けたように呆然とたたずんでいた。
――兄上だけが、知っていたのね。
政子様の正体を。
そして、全部背負いながら、私たちを守ろうとしてくれたのね。
ありがとう…兄上。
朔は、もう一度、鎌倉の陣を振り返る。
景時には、頼朝の小刀の他にもう一つ、古い櫛を渡した。
それは、母が長年使っているもの。
母上のことも心配ないのよ。
だからもう、恐れないで。
母上も私も…兄上を信じているわ。
さく…さく…
秀衡と湛快が、黙したまま雪の庭に歩を進めていく。
間に挟まれて頼朝が歩む。
雪に覆われた金鶏山を背に、視界いっぱいに凍った池が広がり、
池の水際に建つ両翼を広げた御堂が、氷上に鈍い色の影を落としている。
頼朝が足を止めた。
「これは…宇治の阿弥陀堂か」
「見事なもんだ。最高の工人を集めたな」
湛快はそう言って、ぐるりと四方を見渡した。
「金鶏山に入り日が射す頃には、さぞ神々しいことだろう」
秀衡が眉を上げる。
「そこまでよう分かったな、湛快殿」
「海に出たら、頼りになるのはお日さんとお星さんだ。
太陽の方向を見るのは癖みたいなもんさ」
秀衡はそのまま奥へと歩み入り、湛快と頼朝を御堂の中へと導いた。
見上げるばかりに広い堂宇には、阿弥陀像が静かに座している。
それを囲んで、楽を奏でる天人の群舞。
音無き御堂に、天の楽が満ちる。
池の氷から気まぐれに反射した光が、半ば開いた格子の間でちらちらと踊っている。
湛快が深いため息と共に口を開いた。
「奥州の地に、どえらいものを作ったもんだな。
この寺だけじゃねえ。街も人も、全部だ」
「それは褒めているのか、湛快殿」
「もちろんだ。世辞なんかじゃないぞ。本心だ」
「山深い熊野にとっては、人の造ったものがそれほどにありがたいか」
頼朝が醒めた声で言う。
「奥州の黄金を使い、藤原がやってきたことはこれか。
数え切れないほどの寺を建て、仏を造り…まるで京の街と同じではないか」
湛快はからからと笑う。
「人が造った建物も、地面から生えてる木も、どっちも大切な熊野だ。
ここは少し熊野と似てるかもしれねえ。あの世とこの世が一緒ってところがな」
「その通りじゃ。浄土を現世に実現する…この寺は、人々の祈りの結実」
「じゃあ俺達はさしずめ、阿弥陀浄土に立っているってとこか」
頼朝が低い声で言った。
「無意味だ。浄土など、死んでから行けばよい。
湯水の如く黄金を注ぎ込み、何を成すかと見れば、
僧侶を喜ばすことばかりか」
秀衡はぎろりと頼朝を見据える。
「戦無き世…これも戦乱の中にあっては浄土。
源平の合戦の間も、あえて兵を動かさなかった奥州の真意、分からぬか」
「京を遠く離れてさえ、朝廷の権謀術数に長けておられる藤原秀衡殿が
そのように言葉を飾るとは笑止」
「あらゆる手だてを使い、国を守るは国守たる者の務め。
だが詭弁を弄し、果ては人を裏切ってまで、他国を奪い取ろうとするようなことはせぬ」
「上に立つ者の言葉とも思えぬな。
世を揺るがすのは、人の愚かさではないのか。
そして人は愚を繰り返す。
そうさせぬためには、戦うことができぬまでに屈服させればよい」
「そうして、無駄な血を流すのか。
奥州で繰り返された争乱で散らされた命は数知れぬ。
彼らの後に生きる我らが、この地に浄土を築かずして如何にせん」
頼朝は歪んだ笑みを秀衡に向けた。
「奥州藤原氏の高き志には敬服する。
だが、時が移れば人の心は変わり、
心が変わらずとも、人には終の時が来るのではないか」
秀衡はきっぱりと言った。
「人の祈りに終わりはない。
祈りは過去のものではなく、常に生まれ続けるもの、
明日へと続いていくものじゃ」
「人の祈り? 脆いものに頼っては支配はできぬ。
人の心などを拠り所にする奥州にも九郎にも、
世を治める何ものも見えていない」
その時、湛快がひょい、と懐から数珠を出した。
「そういや、いきなり言い争いが始まったんで、
ありがたい阿弥陀様を前にしながら、まだ拝んでいなかったぜ。
とんだ罰当たりなことをしちまった」
そして、秀衡と頼朝を交互に見やる。
「俺は元神職だが、数珠を持って悪いってことはねえよな?」
秀衡が、半分頷いた。
「安心してくれ。ここで柏手を打つようなことはしねぇ」
「無論じゃ」
「ちょっとばかり長ーく祈るつもりなんで、
その前に熊野水軍の元頭領として言っとくが、
お互い気に入らない所ばっかり言い合ってたら、交易なんてできないってな」
「何を言っておる」
「せっかくこうしてエラいもんが三人集まったんだ。
後で美味い酒呑むためにも、頭冷やそうぜ」
言うだけのことを言うと、湛快は阿弥陀像に向かって合掌し、
低い声で淀みなく阿弥陀経を唱え始める。
秀衡はばんと己が膝を叩いた。
「そうか、神子殿の言っておられたのはこのことであったか。
礼を言うぞ、湛快殿」
そして、居ずまいを正して頼朝に向き直る。
「ここにこうして敵同士、百年の恩讐を刻んだこの地で、
俘囚の長たる我と、源氏の棟梁たる頼朝殿が剣を持たずして相まみえたこと…
決して無駄にはすまいと思う。
頼朝殿の願うものとは何か、お聞かせ下され」
秀衡の眼を見返しながら、頼朝は腹をくくった。
――どうやら、
くだらぬ話し合いを決裂に持って行くという目論見は
崩れてしまったようだ。
ならば……
頼朝はゆっくりと口を開いた。
無量光院の庭では、数多の僧侶、平泉の郎等、鎌倉から随行してきた武士が
抱えきれぬ思いを持て余しながら、待っている。
やがて永遠とも思える時がゆるゆると過ぎ、夕暮れが近づいた。
山に入り陽が映え、金色の光を御堂に降り注ぐ。
溶けかけた池の氷に眩いきらめきが揺れる。
皆が見守る中、阿弥陀の御堂の扉が静かに開いた。
そして御堂から歩み出た三人の男は、
冬の夕日に黄金に染め上げられた池を渡り、此岸へと戻ってきた。
[1. 星夜]
[2. 帰郷]
[3. 下命]
[4. 出立の時]
[5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]
[7. 小さき祈り]
[8. 飛翔]
[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]
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2009.8.20