10. 帰 還
伽羅御所に朝の陽が射している。
泰衡は早々と身支度を調え、庭に出た。
と、犬が一匹、簀の子の下から走り出てくる。
「うわん!」
犬は泰衡に向かって嬉しそうに一声吠えると、尻尾を振って駆け寄ってきた。
「金、こちらに来ていたのか」
「わんわん!!」
金は、ますます激しく尻尾を振る。
元々は、九郎が拾った犬だ。
だが平家との戦に出立する時に、泰衡に預けられたのだ。
しかし、元の主人のことは忘れなかったようで、
九郎が戻ったとたんに、後を追って高館まで行くことが多くなった。
このところすっかり姿を現さなくなっていたので、もう帰るまいと思っていたのだが、
泰衡のこともちゃんと覚えているようだ。
「くぅぅん…」
金は泰衡の手に湿った鼻面をすり寄せた。
――そんなに振ったら、尾が千切れてしまうぞ。
頭をぐりんと撫でると、金はころんと転がって腹を出す。
泰衡は眉間に皺を寄せた。
武家の屋敷に飼われているというのに、何ともだらしのないことだ。
九郎が甘やかしたに違いない。
金は泰衡を一心に見つめている。
――全く仕方のないヤツだ。
膝を屈めて、腹を撫でてやろうとしたその時だ。
泰衡は気配を感じて一気に立ち上がる。
金はくんくんと鼻を鳴らすが、知ったことではない。
直立した姿勢のまま、後ろを振り向くと、
「泰衡殿も、今日は早いですね」
こんな時、一番聞きたくない声がして、弁慶が、母屋の陰から現れた。
その後ろから、九郎が来る。
――今日という日に、金が来たのだ。
九郎と一緒に来たと、早く気づくべきだった。
見られたのか。
しかし口に出して聞くことなど、決してできない。
弁慶の口元に、うっすらと笑みが広がっているように見えるのは気のせいか。
あからさまに額の皺を深くした泰衡に、九郎はきょとんとしながら尋ねる。
「どうした、こんな日に朝から不機嫌な顔をして」
「九郎、泰衡殿にも事情があるんですから、あまり詮索するのは悪いですよ」
そして薄ら笑い。
九郎は全く気づいた様子もなく、周囲をきょろきょろ見回している。
「御館はどうした。川湊にはいらっしゃらないのか」
「いや、先に行っている。
湛快殿と飲み明かして、そのまま今様など唸りながら出かけていった」
「大丈夫なのか」
「止めても聞かん。あの年であの勢いは、はた迷惑だ。
護衛だけはつけたが」
「お元気なのは何よりですよ」
「そうだな。
ということは泰衡、俺達を待っていてくれたのか?」
「……御館が先に行ってしまったんだ。
立ち寄ると分かっている者を置いて、俺が先に行くわけにはいくまい」
「気を遣わせてすまなかったな、泰衡。
では俺達も行こう」
皆が向かう先は川湊。
今日は、望美達が熊野に帰っていく日だ。
騎乗の泰衡と九郎、弁慶が先に立ち、
郎等達が轡を並べて付き従う。
熊野には大きな借りを作った。
しかし、そう思っているのは泰衡だけのようで、
湛快も神子もあっけらかんとしたものだ。
対するに頼朝は、俘虜の身となり、さらにはあの女狐までが斃されても、
徹底して冷徹で、したたかだった。
あれが、僅か数十騎で兵を起こし、またたく間に関東武士を束ねた力か、と思う。
九郎も、似ているかもしれない。
手勢と言えば、弁慶と、道中で仲間になった伊勢三郎など怪しげな者共ばかり。
やっと平泉まで辿り着いたというのに、御館の前で、堂々と平家打倒を口にした。
しかし、とんでもない馬鹿者が来たものだと思っている内に、
九郎の熱は、いつしか平泉の郎等の間に広がっていったのだった。
そして平家打倒のため九郎が平泉を後にする時には、多くの郎等がこぞって同行を申し出た。
しかし、血を分けた兄弟であり、人々の結束を作り上げる力を持ちながら、
二人の力は互いに相容れぬものだ。
九郎と頼朝が、源平合戦以来の対面を果たした時、
瞬きもせず九郎を睨め付けて
「申し開きがあるなら言ってみよ」
と冷ややかな声で問うた頼朝に、
九郎は開口一番、こう答えたのだった。
「お願いしたき儀があります。
土佐坊殿を、手厚く弔ってあげて下さい」
――あの時の頼朝の表情を、俺は忘れることはないだろう。
だが少しだけ、頼朝の気持ちが分かるような気もするのだ。
頼朝は、政に情を交えることを徹底して嫌う。
鎌倉の支配を貫くためならば、肉親を斬り捨てることも厭わない。
――俺は……
この奥州を守るために、俺ならばどうするだろう。
他に道が無いとしたら、俺は肉親を……手にかけることもできるのだろうか。
「フ…」
泰衡は笑ってその思いを振り払った。
――俺はなぜこのような詮無きことを思っている。
「もしも」など無意味だ。言い訳も必要ない。
俺はこれからも、なすべきことをなすだけだ。
奥州国守、藤原泰衡として。
川湊は、見送る人々でごったがえしていた。
船団の前には去る者、残る者が集まり、
次々と名残を惜しみながら、別れの言葉を交わしている。
「お前にもヒノエにも、世話になったな。
改めて礼を言う。ヒノエにも感謝の気持ちを伝えてくれ」
「ううん、みんなが頑張ったからだよ。
でも九郎さん、これから奥州の人になるんだね」
「ああ、やっと訪れた平和だ。奥州の人々と共に守っていってみせる」
「九郎さんならきっと大丈夫」
「神子殿、お礼申し上げますぞ。
頼朝殿を鎌倉から連れてきたと聞いた時には心底驚いたが、
その時は正直、このように平穏な日が訪れるとは思わなんだ。
いやはや…龍神の神子とは、美しいばかりでなく、
なす事もお考えになる事も大きいものだと思い知りましたぞ」
「い、いいえ御館、それは褒めすぎです」
「ははは、恥じらう顔も美しゅうございますな。
湛増殿も幸せ者じゃ。
早う、よきややこに恵まれることを祈っておりますぞ」
湯気が出るほど赤くなった望美を、朔がそっと御館から引き離した。
舟の下では、湛快が荷物の積み込みを指図している。
水軍衆も慣れた様子で、作業はどんどんはかどっているようだ。
「景時さん…今頃どの辺りかな」
望美の問いに、朔は少し考えてから答えた。
「頼朝様がご一緒だけれど、動きは軍よりも早いはずよ。
そうね…もうすぐ白河の関にかかる頃かしら」
「頼朝様は、景時さん達と馬で帰ったんだよね」
一段落した湛快が、二人の話に入ってきた。
「ああ、熊野の舟でお連れしたからには、
同じ舟で送り届けるのが筋ってもんだ。
そのつもりでいたら、『私は二度と舟には乗らぬ!!!!!』と断られた」
背中でその会話を聞いていた泰衡が、深く頷く。
無理もない。
熊野の舟は、間違いなく最悪だ。
頼朝が川湊に着いた時には、顔は土気色でまるで病人のようだったと聞く。
それが、まっとうな反応だ。
「もったいないなあ。絶叫系の乗り物みたいで、楽しいのに」
「波に乗って高く上がったり、急に落ちたり大きく揺られたり、
あの気持ちを、すりると言うのだったわね、望美」
「うん、そうだよ」
「帰りも楽しみだわ」
「ええ、私もです」
側にやってきた朔の母も、にこにこしながら同意した。
「景清殿と初めてお会いした時のことを思い出しました。
あの時も、とても胸が高鳴ったものです」
「いいねえ、お嬢さん達に惚れそうだ。
熊野男にとっちゃたまらねえ言葉だぜ」
「朔に懸想してはなりませんよ」
「分かってるって」
――こいつら全員……あの苦しさを味わうといい!!
「泰衡、拳を握りしめてどうした?」
「な、何でもない!!」
「先生、どうかお元気で」
「うむ。九郎もしっかりやりなさい」
「敦盛、平家の残党狩りは厳しい。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「かたじけない…心しておく」
「おい、弁慶」
湛快が、人波をかきわけて来た。
「早いものですね。もう船出の日ですか」
「元気でな…って、薬師のお前に言うのも変か」
「不養生はお手の物ですよ。せいぜい気をつけます」
ひょいと手を挙げて行きかけた湛快は、思い出したように振り向いて言う。
「お前が置き去りにした薊っていう別嬪さんだが…
今は熊野で元気にしてるぜ」
弁慶の返事を待たず背を向けた湛快は、そのまま舟に乗り込んだ。
舟の上と下で、秀衡と湛快が最後の挨拶を交わす。
「わしの桜によろしくな」
「ああ、如月の頃には、この酒を持っていって花の下で一杯やるさ」
「いいのう。ではその頃には、わしも平泉で一献傾けようぞ」
しばしの後、湛快の野太い声が川湊に響いた。
「行くぜええっっ!! 野郎共!!!」
舟の舳先に立ち、海風に髪をなびかせながら
望美は波の彼方を見つめている。
水平線に、こんもりとした緑の線が島影のように現れた。
なつかしい熊野はもうすぐだ。
幾羽もの海鳥が、舟に寄り添うように飛ぶ。
やわらかな風も淡く霞んだ空も、春の息吹に満ちている。
望美は、嵐のように過ぎ去ったこの一年を思い、
遙かな時空の彼方を思う。
――譲の見た悪夢
青龍と白虎の相撃つ運命、奥州の滅びを、止めた。
泰衡は頼朝に屈せず、九郎を裏切ることもなかった。
私の世界と同じ道を辿るかもしれなかった歴史は…変わった。
人の意志が、変えた。
水平線を断ち切って、熊野の峰々がはっきりとその形を現した。
冬の冷たい風が吹く中、奥州に向けて出発した日、
私はあの熊野の山をずっと見ていた。
ヒノエくんと守っていく…あの地を。
望美は顔を上げ、上空を飛ぶ海鳥を見た。
これからどうなるのかなんて、誰にも分からない。
ただできることは、今という刹那の中で、
一生懸命生きることだけだ。
それが、大きな時を作っていく。
私は、この世界で生きるのだ。
……ただ一人の、愛する人と…。
湊が見えてきた。
望美は思わず身を乗り出す。
小舟が一艘、こちらに向かって漕ぎ出した。
乗っているのは……
望美の胸が痛いくらいに高鳴る。
思い切り手を高く上げ、ちぎれるほど振る。
小舟の漕ぎ手も、手を振り返す。
遠い影が次第に人の形になり、
燃えるような髪の色が、
緋色の服が、
笑顔が
近づいてくる。
小舟の上で、ヒノエが両腕を広げた。
「お帰り、オレの姫君!!」
「ヒノエくん!!」
望美は舳先を蹴って身を躍らせ、
愛しい人の腕に飛び込んだ。
[1. 星夜]
[2. 帰郷]
[3. 下命]
[4. 出立の時]
[5. 向かうべき場所]
[6. 嵐の前]
[7. 小さき祈り]
[8. 飛翔]
[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
[エピローグ 去りゆく者へ…]
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2009.8.22