7. 小さき祈り
それは形のないもの。
しかし、目に見えぬそれが齋の宮から立ち現れた時、
宮を囲む深い森から、鳥たちが群れを成して飛び立った。
鳴き交わしながら逃げまどう鳥たちの声と羽ばたきの音は宮司達の耳にも届いたが、
何事かと外に出た時にはもう静寂は戻り、伊勢の大宮は常の如き静謐に包まれていた。
凄まじい力が齋の宮から南に向けて飛び去ったことを知る者は誰もいない。
その力は伊勢の地を離れ、やがて海から逸れて熊野の山へと分け入る進路をとった。
名残惜しげに那智の大滝をかすめると、ふっと気配を断ってひっそり地上に降り立つ。
渦巻く力が一つの形に収斂すると、そこには真白き装束を纏った女の姿。
だがそれが人でないことは、山の獣とて感じ取ることができた。
皆怯えて巣に潜み、身を縮めてそれが通り過ぎるのを待つばかり。
女は急峻な山の道など意に介さない様子で、滑るように動いていく。
神祀りの場を見つける度に立ち止まっては、両の手を伸ばして何かを引き寄せる仕草を繰り返した。
赤い唇から、さらに赤い舌がちろりとのぞく。
小さな社、古い磐座を問わず、それの通った後には雷が落ちたような破壊の痕跡が痛々しく残った。
周囲の草木が生気を失って、ゆるゆると枯れていく。
かさり…ぱさり…冬にあってなお緑をなしていた森の葉が落ちてゆく。
――これでは足りませんわ…。
小さな神など、もうたくさん。
ああ…この地を統べる神々は、どのような味なのかしら…。
熊野の山を行く女の姿は、いつしか妖狐に乗った異形の神へと変じていた。
暗い部屋の中、望美は眼を見開いている。
隣からは朔の規則正しい寝息が聞こえてくるが、
今は休息をとるべき時と分かっているのに、なかなか寝付くことができない。
出陣した九郎を追いかけ、舟を下りてすぐに馬で駆け続けてきた。
秀衡の命で、土地に詳しい平泉の郎等が案内に付き、
朔、敦盛、リズヴァーンも同行している。
しかし夜に入り、月明かりもない夜の雪道を行くのは危険過ぎるということで、
郎等が一夜の宿を探してくれたのだった。
奥州鎌倉両軍が衝突する前に何としても…と気持ちは急くばかりだが、
たとえ夜目の利くリズヴァーンが一緒でも、慣れぬ雪の夜道に難渋することは明らか。
体力を消耗しながら幾ばくかの距離をかせいだとしても、たかがしれている。
さらには、万一道を見失ったり、吹雪に阻まれたりしたなら、
九郎達に追いつくどころではなくなってしまう。
「神子、短慮で大きな目的を見失ってはならない」
リズヴァーンに静かに諭され、望美は休息を取ることにした。
何も言わないが、朔の疲労が極限まで来ていることに気づいたからでもある。
だが、焦りの気持ちは押さえきれない。
夜具にくるまってからも、転々と姿勢を変えては、堂々巡りの思いにさいなまれている。
北国の冬の夜は長い。
望美は冷たい夜気に白いため息を漏らした。
熊野川が、黒々とした水面を広げている。
月の見えぬ夜、雲間から射す星の光は弱々しい。
かすかに鼻をつく臭気が漂い、冬というのに吹く風はどこか生暖かい。
熊野本宮を背に、ヒノエは異形の女と対峙している。
小さな篝火が、向き合う二人を照らす。
女の長い髪がゆらゆらと生き物のように揺れ、
赤い唇が開いて忍びやかな笑い声を発した。
「わざわざ出迎えて下さったの、熊野別当?」
「あんたは真っ先にここに来る、と思ったからね。
熊野別当としては、ちゃんと出迎えないといけないってわけ」
「くすくす…相変わらずおりこうさんなのね。
でも、一人でお出迎えなんて、失礼ではなくて?
あのお嬢さんは一緒じゃないのかしら?
鬼を使って助け出したと聞いていますわよ」
「自分が命令しておいて、他人事みたいによく言うぜ。
毒針を仕込んだ簪を、景時に作らせたのは誰だい?
オレもろとも望美まで焼き殺そうとしたのは?」
「答える必要はありませんわね。
あなたは答えを求めてここにいるわけではないのでしょう?
平静を装っているけれど、怒気は隠せませんことよ。
それほどに、あのお嬢さんが大切なのね。
可愛い坊やですこと。……けれど」
政子の口が大きく横に開いて笑いの形になった。
「そのために国の行く末を誤るなんて、愚かですわ」
政子の挑発には乗らず、ヒノエは淡々と言葉を続ける。
「あんたや頼朝には分からないんだろうな。
鎌倉が熊野にこれ以上手出しをしないなら、
オレはあの約定を守るつもりでいた。
だがあんた達は、その舌の根の乾かぬうちに望美を攫い、
あまつさえ神々を食らって熊野を滅ぼそうとしている。
オレはあんた達を許すつもりはないぜ」
政子は眼を見開き、口元を袖で覆いながら笑った。
「まあ…私の目的、よく分かりましたわね。褒めて差し上げますわ。
でも、あなたに許していただく必要はなくてよ」
張り詰めた静寂が周囲を支配している。
小石一つ転がるだけですぐに破れてしまうような、脆い静けさだ。
目に見えない力が内圧を高めている。
「水軍を動かせないように、オレに変な条件を押しつけたんじゃないのかい?
それだけじゃ足りなくて、源氏の軍勢より厄介なのを寄越すなんて、頼朝も悪趣味だぜ」
政子は眼をしばたたいた。
「あの方を悪趣味と仰るの? 無礼にも程がありますわ」
「あんたに頼るってことは、一度に熊野と奥州を攻めることも、
片方を牽制しておくこともできないってことだね。
つまりは、まだ鎌倉はそれほどに盤石じゃないって、自分から言ってるようなものだよ」
「ずいぶん見くびられたものですわね」
「見くびる? あんたがここにいることが、何よりの証拠じゃない?」
ヒノエは顔を上げ、異形の姿の政子に言い放った。
「熊野は、お前の思い通りにはならないぜ、荼吉尼天」
政子の気がぐわっと膨れ上がった。
みるみるうちに、その姿が変わっていく。
「生意気ね、熊野別当。
熊野の神々を食らう前に、お前にはお仕置きが必要だわ。
泣いても喚いても無駄よ。
お前を引き裂いた後は、熊野の人間達に同じことをしてやる」
幾筋もの電光が走り、びりびりとした気が満ちる。
荼吉尼天の腕が振り下ろされ、長い鈎爪がヒノエを襲った。
髪の毛一筋の間合いで、ヒノエは軽やかに身をかわす。
「なぜ…?」
荼吉尼天は妖異の顔に、訝しげな表情を浮かべた。
もう一度、長い袖を翻してヒノエに向かって鈎爪を走らせる。
今度もまた、爪の届く寸前に、ヒノエはからかうようにひらりと避けた。
荼吉尼天は周囲を見回した。
ざわざわと木々が鳴り、熊野川の流れる音が絶え間なく聞こえてくる。
「時を止めたはず…そう思ってるのかい?」
ヒノエは平然として言った。
「くっ…馬鹿な…」
荼吉尼天は大きく前に踏み出し、両腕を広げてヒノエを捕らえようとする。
ヒノエは飛び退き、篝火から燃える枝を抜いて手に取った。
あらかじめ抜き出すことを予期していたかのように、横向きに挿されていた枝だ。
「なぜだか教えようか?
あんたが伊勢に向かった時から、ここに来ることはもう分かっていた。
だからこうして、歓迎の準備をしていたってわけ」
ヒノエは手にした枝の火を足元に投げた。
枝から燃え移った炎が地面を走る。
「よく燃えるんだよ、臭水は」
炎は荼吉尼天を取り巻き、大きな梵字を形作った。
「くっ…これは…マハーカーラの…」
荼吉尼天が動きを止めた。
「どう、気に入った? これが歓迎の印だよ。
気がついてないみたいだけど、ここに来るまでの間に、
あんたは何度もこの印を踏んでいるってね」
「……まさか…寂れた王子や…末社にまで……」
ヒノエの顔から、笑みが消えている。
「それでもあんたは、小さな神々まで食らった。
立ち枯れた木は、千年を超えて熊野と共に生きてきたんだ」
炎が燃えさかり、荼吉尼天の髪が蠢いた。
「馬鹿ね。いにしえの小さな神々など、捨て置けばいいものを。
いつまで崇めていても、熊野の力になどなりはしないのに」
「異国の神、あんたには分からないのかい?
この地が生まれた時から在るものの力、
神々と共に生きてきた名も無き人々の祈りが」
「お前に神が分かるものか!
人間如きが、小賢しい!!」
荼吉尼天は袖を翻して地を撃った。
燃えていた大黒天の梵字が、跡形もなく吹き飛ぶ。
異形の神は、ずしり…と重い足音を響かせてヒノエに一歩近づいた。
「身の程をわきまえないその自信が、お前の命取り。
ただ一人で私を迎え撃つなど、思い上がったものね」
さらに一歩。
ヒノエは荼吉尼天を見据えたまま動かない。
「思い上がっているのは、あんたの方だよ。
神の力が全てに勝るなんて、本気で信じてるのかい」
荼吉尼天から、凄まじい力が吹き付ける。
「私の力を少しばかり削いだくらいで、まだそんなことを」
見えぬ力がヒノエを捕らえ、その身体を高々と宙に持ち上げる。
妖異の顔から、無邪気な声がする。
「ねえ、私、迷ってますのよ。
くすくすくす…どうやってあなたを八つ裂きにしようかしら」
「ヒノエくん!?」
望美は、はっと身を起こした。
夜はまだ深く、部屋は暗闇に近い。
息が荒い。
胸が締め付けられるほど苦しい。額の一点が燃えるようだ。
指を当てると、ヒノエの宝玉と同じ場所だけが熱を帯びて熱い。
それが何を意味するのか――。
望美はぐっと唇を噛むと、夜具から滑り出た。
痛いほどの寒さが身に染みる。素足に触れる床は氷のようだ。
だが今この瞬間、遠く熊野の地で起きていることを思えば、
我が身を貫く寒さなど、些細な痛みに過ぎない。
今こそが、いつかは来る…と、ヒノエも望美も覚悟していたその「時」だ。
望美は閨を覆う暗闇の向こうに、遠い熊野を思った。
ヒノエくん……。
望美は冷え切った床に端座し、眼を閉じると両手を胸の前で合わせた。
額の熱を受けて、合わせた掌は燃えるようだ。
離れても繋がり合う手と手。
繋ぎ合った手は、二人の翼。
共に抱く同じ夢……願い。
繋ぐ思いは、一つ。
愛しきひとへの祈り。
遙か遠き南へと飛翔する…祈り。
「望美…どうしたの?」
気配に目覚めた朔が見たのは、
夜の静寂の中、淡い光に包まれて祈る望美の姿だった。
その祈りの意味することを思い、朔は続く言の葉をひっそりと止めた。
「ナウマク サンマンダ … ボダナン … マカカラヤ」
見えない力で身体を締め上げられ、苦しい息の中からヒノエは言の葉を絞り出した。
一瞬、ヒノエを束縛する力が緩み、眼前に迫っていた荼吉尼天の鈎爪が止まった。
しかし、それも一瞬のこと。
「私の正体を知っただけで、いい気になっていたようね。
確かにマハーカーラは私の敵。
でもね、人間如きが真言を唱えたくらいでは、何の意味もないわ」
さらにぎりぎりと身体を締め付けられ、ヒノエの額から汗がとめどなく流れ出る。
それでも、ヒノエは不敵に笑った。
「そう…かな。耳を…すませてみなよ」
「時間稼ぎなんて無駄よ」
荼吉尼天の口が大きく開いた。
その時、天地を揺るがして風が吹き過ぎた。
厚い雲が払われ、満天に星を散りばめた大空が現れる。
風に乗って、何かが運ばれてくる。
荼吉尼天がぐらりとよろめき、ヒノエの束縛が外れた。
「な…何なの…なぜ…こんな」
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
ナウマク サンマンダ ボダナン マカカラヤ ソワカ
一つ一つは小さな祈り。
聞こえるはずのない声。
声にならぬ祈りの声。
音の波。
祈りのうねり。
重なり合い、共鳴し、響き合って天地を満たす。
山間で、海辺で、街で、小さな村で、寺で、宮で、苫屋で、屋敷で、小屋で、厩で、
杣人が、農民が、猟師が、漁民が、水軍衆が、僧が、宮司が、巫女が、烏が、
大人が、子供が、老人が、若い娘が、父親が、赤子を抱いた母親が、
街のごろつきも、抜け目ない商家の主も、太刀を帯びた武士も、白拍子も、
遊び女も、物売りも、一人の者も、家族と共にある者も、仲間と一緒にいる者も、
同じ祈りの言の葉を、唱えている。
その言の葉に応えるようにごうごうと山が鳴り、
遠く離れた海から激しい風が吹き寄せた。
地が轟き、巨木が身を揺らす。川が渦巻き、波立つ。
「熊野が…動いた……」
ヒノエは空を仰ぎ、大地に足を踏みしめると
朗々と響く声で呼ばわった。
「かけまくも畏き熊野の神々よ!」
ずしんと地が揺れた。
山が木々を鳴らした。
「諸々の禍つ事罪穢れを 祓え給い浄め給えと白す事を聞こし食せと」
海の彼方から、地の内から、川の中から、深い森から、
淡い光が無数に立ち上る。
荼吉尼天は身を捩り、その腕が宙をかきむしった。
「恐み恐み白す!!」
光は渦となって荼吉尼天を飲み込んだ。
断末魔の悲鳴と共に、その身体がゆっくりと倒れていく。
しかし最後の瞬間、荼吉尼天は顔を上げ、ぎりっとヒノエを睨んだ。
くぐもった声が怨嗟の言の葉を投げる。
「お ま え も 道 連 れ に し て く れ る」
そのまま荼吉尼天は倒れ、その身体から矢よりも速く妖狐が放たれた。
狐は牙を剥き出して、ヒノエに飛びかかる。
避けられない!
しかし、ヒノエに牙を突き立てようとした刹那、妖狐は炎に包まれた。
ヒノエ自身も、同じ透き通った炎の中にいる。
だが、熱さはない。
その炎から伝わるのは、あたたかく優しくなつかしい声。
炎はヒノエを守り、大きな赤い翼の形に広がってはばたく。
「お の れ」
荼吉尼天は鈎爪を地面に突き立てた。
「無 念 こ の よ う な と こ ろ で」
やがて光の渦が荼吉尼天を離れ、静かに消えた。
異形の身体は、みるみるうちに小さく縮んでいき、
ヒノエの眼の前で、それは北条政子の姿に変わる。
ヒノエを包んでいた炎の翼がふわりと羽ばたき、宙へ浮かび上がった。
見上げる空は、かすかに明るくなっている。
淡く消えゆく星々の中で、明けの明星だけが強い光を放ち、
やがて東の山の端が鮮やかな色に染まる。
ヒノエは、上空をゆっくりと舞う炎の鳥に呼びかけた。
優しく答える声が、心の中に流れ込んでくる。
「ありがとう…朱雀」
曙光がヒノエの横顔を照らし、炎の鳥は光に向かって飛び去った。
「頭領!」
「別当様!」
大勢の男達が走ってくる。
水軍衆と烏たちだ。彼らは皆、ヒノエの命を受け、
熊野の隅々にまでマハーカーラの真言を伝えに行ってくれたのだ。
にも関わらず、荼吉尼天との決戦を遠くで見ているしかならず、
これまでほぞをかむ思いをしていたに違いない。
副頭領が巨躯を揺らしながら、ノスリやミサゴに劣らぬ速さで突進してくる。
皆の顔には、晴れ晴れとした笑顔がある。
ヒノエは倒れたままの政子に近づき、地に膝をついて助け起こした。
うっすらと眼を開いた政子はヒノエを見ることもなく、
かすかに唇を動かした。
「あなた…」
瞳から一筋、涙が流れ落ちる。
ヒノエは朱雀の飛び去った空を見上げた。
全ては終わった。
熊野で成せることは、成した。
望美…
来てくれたんだね、ありがとう。
眩い朝日に向かい、ヒノエは手を伸ばした。
まるで朝の光をつかみ取るように。
遠く離れていても、想いは一つ。
翔べ! オレの翼!!
[1. 星夜]
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[5. 向かうべき場所]
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[7. 小さき祈り]
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[9. 継ぐ者達へ…]
[10. 帰還]
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2009.8.1