夕闇が迫る頃、安倍の屋敷の奥の間で、泰明は晴明と向かい合って座している。
「…ということだ、師匠」
鷹通の言葉を一字一句違えず語り終えると、泰明は晴明の言葉を待った。
薄闇を通して晴明の顔に垣間見えるのは、苦悩だろうか。
長い沈黙の後、晴明は小さく手を動かした。
誰も触れていないのに、部屋の扉も蔀も、全てが閉じられる。
それは泰明にとっては見慣れた光景。
しかし同時に、晴明がこの部屋に結界を張ったことに気づいた。
結界が解かれるまで、弟子達はもちろんのこと、
晴明の息子でさえも、この部屋に近づくことができない。
部屋の隅に置かれていた燈台にぽっと灯が点り、
泰明と晴明の間に滑るように移動した。
「記録では、大津の血筋は途絶えているのだな」
「先ほど言った通りだ、お師匠。
庶子は一人いたようだが、名前も行方も治部省の記録にはない」
「そうか…」
「大津の宗主は、鷹通に呪詛をかけた『宗主』と同じ人物ではないのか。
しかし同一人物とするならば、なぜ安倍の禁忌の術を知っている。
それとも、安倍家に禁忌を犯すような者がいるというのか?」
たたみかけるような泰明の問いに、晴明は再び黙した。
泰明はひたすらに待つ。
微動だにしない二人の間で、時折燈台の炎だけが、思い出したようにゆら…と揺れる。
じ…と、灯心が小さな音を立てた時、晴明が絞り出すような声で言った。
「宗主なる者は、晴源……我が弟子だ。
異界の者を使い、人の心を操り、安倍の呪詛を知る。
そのようなことができるのは、あやつしかおらぬ」
泰明が半ば予期していた答えだ。
しかし同時に、晴源はすでに亡くなっているのでは、との疑問が残る。
根拠はある。泰明はその疑問を口にした。
「だがお師匠、晴咒は私と戦っていた時に、『御師匠様』と言って祠を見た。
ちょうどその時、祠の中では、浅茅が髑髏を壊したところだったのだ。
そして祠には、他に誰もいなかった。つまり…」
「髑髏が晴源の変わり果てた姿であり、
死してなお、龍脈を穢し続けている…と考えたか」
「そうだ。師匠の髑髏が破壊されたことを、晴咒が感じ取らぬはずがない」
晴明は眼を閉じた。膝に置かれた手が、筋の浮くほどに固く握りしめられている。
「違うぞ、泰明。浅茅じゃ…。晴咒は浅茅を…『御師匠様』と呼んだのだ」
晴明の言葉に、泰明は驚愕に近い感情を抱く。
めったに驚くことなどない泰明にとっては、希有のことだ。
「浅茅が…? 浅茅が晴源だというのか、お師匠」
晴明は口を引き結び、かぶりを振った。
「その時浅茅は、自らにかけられた呪縛を破り、髑髏を壊した。
破られた呪縛の残滓を、晴咒は師匠と呼んだのだ」
「……では、浅茅を呪で縛していた者が、晴源なのか」
晴明は頷き、低い声で言った。
「そして、浅茅の父親でもある」
知らぬうちに泰明の声が高くなる。
「偽りか、お師匠」
「偽りは言わぬ」
「知っていたのか、お師匠」
「安倍家に迎えた時から知っていた」
「なぜ迎えた? なぜ黙していた? 浅茅は何も知らぬままだ」
「言葉が過ぎるぞ、泰明!」
「すまぬ…お師匠」
晴明の一喝に、泰明は我知らず高ぶっていたことに気づく。
晴明は静かな声に戻り、淡々と言葉を継ぐ。
「我が過ち、晴源が過ちを、幼子が背負ってよいものだろうか」
泰明は小さく首を傾げる。
「過ち…? よく分からない、お師匠。
晴源の為したことは、邪悪なものだ。
だが、浅茅は違う…浅茅は、邪悪ではない。
いや、むしろ…」
晴明は小さく微笑んだ。
「幼き頃より見てきたのだ。お前が言わぬでも、分かっておる。
浅茅はひたむきで、心優しく、明るき気に包まれた者だ」
その声に滲んでいるのは、悲しみの色か。
「晴源に、よう似ている…」
翌日、友雅が治部省を覗いてみると、昨日の真面目な若者が応対に出てきた。
「あ、これは左近衛府少将殿! 今日は少丞殿が出仕されています」
嬉しそうに言って、友雅をそそくさと案内する。
通された先は、書類を保管する棚が延々と並ぶ部屋。
そこで鷹通は、てきぱきと働いていた。
友雅の姿に気づくと、鷹通は深々と頭を下げ、仕事を中断してやって来た。
「友雅殿! 昨日は…」
そう言いかけて、口をつぐむ。人の耳のあるところで、本当の事を言うわけにはいかない。
友雅は扇を広げて微笑み、周囲に聞こえるように言った。
「ああ、私の見舞いは少々遅すぎたようだね。
今日にはこうしてお勤めに出られるくらいに、よくなっていたのだから」
そして、いかにもあの橘少将…という調子で、こそりと耳打ちする。
「しかし真面目すぎるというのも困りものだね。
せっかくだから、もう二、三日休んでいればよかったものを」
友雅の真意を察して、鷹通は精一杯焦った声で答えた。
「と、友雅殿、そうはいきません。
私の分まで皆に負担をかけていたのですから」
友雅の声が、さらに低くなる。
ここまで続けば、聞き耳を立てる者ももういない。
「大丈夫…なのかな。無理は禁物だよ」
「ご心配かけました。やっと自分を取り戻せたようです」
鷹通も低く答えた。
友雅は顔を上げ、流れるような所作で扇を閉じて懐にしまった。
「鷹通の元気な顔を見て安心したよ。では、私はこれで失礼するとしよう」
悠々と部屋を出て行く友雅に、かすかな危惧を抱きつつ、鷹通は声をかけた。
「友雅殿は、これから左近衛府に?」
と、あでやかな微笑みが返ってきた。
「ふふっ、あまり野暮なことを聞くものではないよ、鷹通」
侍従の香りと、気だるい雰囲気を残して左近衛府少将は治部省を去った。
その背を見送り、同僚たちがため息をつく。
彼らのやる気を取り戻すのに、鷹通はしばし奮闘しなければならなかった。
――書類仕事の場にとって、友雅殿は天敵だ。
鷹通はため息をついたが、友雅の行く先を知ったなら、
そのため息はかなり盛大なものとなっていたであろう。
「友雅様…お久しゅうございます」
「おや、先日会ったばかりではないのかな」
「意地の悪いことですわ。
友雅様にとっては先日なのですね…。でも私にとっては」
「おやおや、ご機嫌をそこねてしまったかな。
では、正直に言おうか。私にとっても、一日千秋だったと…。
だからこそ、こうしてまだ日も高いというのに、やってきてしまったのだよ」
「まあ、お上手ですこと。友雅様にはかないませんわ」
「さて、ゆるりとさせてもらってもよいかな」
「お噂は聞いております。
橘少将様が、どうしたわけか、忙しく働いていらっしゃると」
「これは、ずいぶんな言われ様だね」
「慣れぬことをしてお疲れですか」
「ははは…読まれてしまったかな。
さすがは右大臣殿にお仕えする女房殿」
「まあ、友雅様らしくないのですね」
「おや、何か?」
「とぼけても無駄ですのに。急いていらっしゃるのかしら?
でも、すぐには教えませんわ」
「ほう、焦らされるのも悪くない。
ではゆっくりと時間をかけて、貴女から聞き出すことにいたしましょうか」
「ええ…聞き出して下さいませ…」
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
3.怨霊
4.大内裏・前編
5.大内裏・後編
6.転変
7.兄と弟
8.疑惑
9.魔手
10.集う・前編
11.集う・後編
12.出奔
13.理に背く者
14.再会
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註:「雪逢瀬」未読の方にはネタバレ…になるのですが、
泰明さんと晴明様の会話に出てくる髑髏云々のエピソードは
「雪逢瀬・第14話」
に出てくるものです。
意味不明だった方、申し訳ありません。
2009.04.07 筆