中宮職の下級役人が、蒼白な顔で脂汗をたらたらと流している。
血走った目に浮かんでいるのは、恐怖に他ならない。
自分がそのような目で見られるのは初めてだ。
チリッと、心が痛む。
陰陽師が己自身の目的を達するために力を振るうなど、決してしてはならぬこと…と
幾度となく、師は繰り返した。
その度に、自分自身を戒めては、そのようなことを自分が為すことは
絶対にないと信じていた。
だが今、晴源は非情に相手を追い詰めていく自分を
ひどく冷静に観察している。
目の前の男の怯えた様も、自分の中の良心が呵責に耐えかねて悲鳴を上げている様も、
どちらも同じ重さ、どちらも同じ軽さ。
まるで池に泳ぐ二匹の魚を見ているかのように。
腰が抜けて逃げることも能わぬ男の額に、白い指を当てる。
男の顔が歪み、口が悲鳴の形に開くが、ひゅうひゅうとした息が漏れるのみ。
「話す気持ちになったか」
冷ややかに問う晴源に、男は必死の形相で頷く。
逃げることも助けを求めることもできない。
観念した男は、晴源の指が額から離れると、ぜえぜえと荒い息をつきながら話し始めた。
「襲芳舎に仕えていた女房は皆、次の出仕先を見つけている」
ちらりと目を上げて晴源を見やるが、こちらを見据える眼光の恐ろしさに、
慌てて言葉を続ける。
「一人だけ、更衣について髪を下ろした者がいるが…」
晴源は冷たく遮った。
「そのようなことを尋ねているのではない」
「ひ…」
男はびくりと身を縮める。
「呪詛を仕掛けたという者の名と、更衣のいる寺を答えろ」
晴源が、行き先も告げず姿をくらました。
安倍の屋敷を飛び出したところまでは、多くの者が目撃している。
常日頃礼儀正しく、規則を破ったこともない晴源だけに、
一体何があったのかと、皆訝しく思っていた。
何か急の用を思い出したか…。
まあ、子供ではないのだから、いずれ用がすめば戻るだろう。
その時には、勝手な行動は慎めと、少しきつく言い聞かせなければ。
兄弟子達はそう考えていた。
だが、日が暮れ、夜になっても晴源は戻らない。
兄弟子の一人が言った。
「間違いがあったのではないか」
だが、多くがそれを否定する。
「あの晴源に限って、危難に遭うようなことはない」
「いや、予期せぬことが起きることもある」
「情の強い女にでも、入れこんでいるのではないか」
軽口を叩く者もいる。
「堅物の晴源が? 考えられん」
「そうとも言えぬぞ。やつとて男だ」
「そういえば、この頃何やらぼんやり考え事をしていることもあったぞ」
「だったら、めでたいものだな」
笑い声が上がる。
その時一人が、はたと手を打った。
「あながち間違ってはいないかもしれん。
内裏から下がった女房のことを、晴源はしつこく尋ねていた」
「珍しいことがあるものだと思っていたが」
「まさか…」
「しかし…」
「とにかく、安倍家の陰陽師が一人行方不明というのは問題だ。
お師匠様の耳に入れておいた方がいい」
「そうだな」
しかしこの時、安倍晴明は参議の一人の招請に応じて
入内を前に物の怪に憑かれたという女の祓えに出かけていた。
松尾の大社、野宮社、釈迦堂…人の集まる寺社を外れれば、
嵯峨野は草深く、あてどなく歩く身にはあまりに広い。
さやさやと竹の葉が鳴る。
空に飛ばした式神は、深い森と竹の林の中までも見ることはできず、
かろうじて幾つかの草庵を見つけて戻ってきた。
内裏を追われた更衣は、格式ある寺に身を寄せたのではなかった。
藤原家の中でも末流の家柄の出となれば、味方につく者は内裏にはいない。
当然、事件をもみ消すためにうまく立ち回る者もなく、
襲芳舎の更衣が、権勢を誇る中宮への妬みから呪詛を施した…という作り話は、
事実へと変じた。
まことしやかに、自らが手を下したという証人まで現れれたとなれば
更衣の側にそれを覆す手段はない。
頼みとなるはずの後見の実父は、昨年逝去してしまっている。
その後は、誰が跡を取るかでもめ続けている始末。
差し伸べられる手の無いままに更衣は髪を下ろし、嵯峨野に草庵を結んだのだ。
ゆるゆると山へ続く勾配を上りながら、晴源は行き場のない怒りに震えている。
更衣と共に内裏を去ったのは誰かという問いに、
小役人が口にしたのは、あの人の名であった。
内裏で迷っていた自分を、笑いものにして楽しんでいた人々は、
今でも安穏として、あそこで暮らしている。
小馬鹿にされたことは、何とも思っていない。
そのようなことで気散じをする哀れな者は、
内裏に限らずどこにでもいるのだと知ってもいる。
だが、凜として真っ直ぐな心のあの人が、
今はこのような草深い地に…。
――あの人を探してどうするのか。
安倍の屋敷を飛び出した時も分からず、ここまで来ても、分からぬままだ。
それでも、会わずにいることなどできない。
晴源はいつの間にか道を外れ、山へと踏み入っていた。
若竹をかき分け、腰の高さほどに伸びた草をかき分け、
奥へ…その奥へと進んでいく。
入り日に赤く染まった山の中、晴源は一度だけ振り返った。
御師匠様……。
師を思うと、心が痛い。
もう戻れぬ…と、己の中の何かが告げている。
来た道に背を向け、深い草の中へ踏み出した時、
西の山に日が沈み、長い夜が訪れた。
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
2.師弟
3.怨霊
4.大内裏・前編
5.大内裏・後編
6.転変
7.兄と弟
8.疑惑
9.魔手
10.集う・前編
11.集う・後編
13.理に背く者
14.再会
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2009.09.14 筆