土御門の藤姫の部屋。
あかねは険しい顔になった一同を見回して、にっこり笑って言った。
「大丈夫ですよ。私、もう神子じゃないんですから」
しかし当然のことながら、皆の顔は晴れない。
「だから、案じている」
泰明が即答した。
「お前、さっき東の市で襲われたばっかだろう、もう忘れたのかよ」
イノリが怒ったように言う。
「おかしな子犬がいた、と言っていたね。
神子殿が触れると黒い瘴気を出した…と」
友雅の言葉に、藤姫が頷いた。
「間違いなく、魔のものだと思いますわ」
鷹通も続ける。
「神子殿を襲った無頼漢は、操られていたのではないかと思います。
その子犬と無関係ではないでしょう」
最後に永泉が、おずおずと言った。
「あ、あの…神子、申し訳ありません。
私にはもう宝珠も玄武の加護も無く…。
皆様のお話を聞きながらも、
どのように神子のお役に立てばよいのか、迷うばかりです。
けれど、神子をお守りする気持ちに変わりはありません。
どうぞ、このことだけは…」
「気持ちだけでは役に立たない」
永泉の言葉を泰明が遮った。
「泰明さん!」
あかねが言いかけるが、泰明は言葉を続けた。
「だが、永泉の言っていることは正しい。
この身から宝珠が失われたことは事実だ。
そしてすでに八葉は八葉に非ず。
神子を守るべき地の理が二人、欠けている」
言うまでもなく、天真と詩紋のことだ。
二人はすでに、蘭と共に元の世界に還っている。
「ちぇ、詩紋のヤツ、早く帰りすぎだ。仕方ないけどさ」
「そうですね、いない人のことを嘆いても仕方ありません。けれど…」
皆の眼が、龍の宝玉に集まった。
藤姫が両手を胸の前で組み、悲しげな声で呟く。
「龍の宝玉は、再び八葉の皆様に宿ろうとしているのかもしれません。
けれど、天真殿と詩紋殿がいらっしゃらないために、八つに分かれることが…」
あかねもまた、宝玉を見つめている。
これまでの話を聞いていても、どうしても実感が湧かないのだ。
東の市では、正直心底恐かった。
けれど、京の平穏がかき乱されることと、
それを裏で操っているらしい人物に、龍神の神子の存在が知られること、
そして自分に危機が訪れる…ということが、繋がらない。
龍神の鈴の音を聞かなくなって、すでに久しく、
泰明と共にささやかな幸福を感じながら暮らす毎日は、
あの、大きな力を自分の中に宿していた不思議な日々からあまりにも遠い。
私が龍神の神子だったこと…そのことで、みんなを巻き込んでしまうの?
このことが、今は何よりの気がかりだ。
その時、庭に立つ頼久の沈痛な面持ちが、あかねの眼に入った。
思わず立ち上がって、庇の下まで出る。
「頼久さん、どうしたんですか。何か心配なことがあるみたいですけど」
「み…神子殿…!」
頼久は慌てて地面に膝をつき、頭を垂れた。
「申し訳ありません! どうかお気になさらずに」
「何だよ頼久、そういう言い方って、気分悪いぞ」
イノリが少し怒ったような声でなじる。
しかし友雅と鷹通は顔を見合わせ、次にあかねを見た。
怨霊と戦った頼久が懸念していることは、すぐに察しが付いたのだ。
庇に出てきた泰明が、後ろからあかねの肩に手を置き、自分の元に引き寄せた。
白い指が、あかねの肩をぎゅっと掴んでいる。
「頼久、これだけは言っておく。
怨霊との戦いに、今さら神子を巻き込む必要はない。
神子が京に来るまで、怨霊を封印できる者がいることを、
誰も知らず、誰も信じなかったのだ。
その頃に戻ったと思えばいい! だから神子を…」
あかねは振り向くと手を伸ばし、さらに言い募ろうとする泰明の頬に触れた。
「泰明さん…」
張り詰めた真剣な瞳に向かって、静かに微笑む。
泰明はあかねの手に自分の手を重ね、戸惑ったように小さく首を傾げる。
その時、館の一角で悲鳴が上がった。
口々に何か言い合いながら人々が出入りする音。
藤姫の顔が、みるみるうちに青ざめる。
友雅が立ち上がった。
「左大臣殿に何かあったようだ。行ってくるよ」
そう言うなり、もう部屋を出ている。
「私たちも行きましょう」
あかねが藤姫の手を取って立ち上がらせた。
「あの時…なのか」
頼久が食いしばった歯の間から言う。
泰明が鋭い視線を送ると、頼久は「後ほど…」と短く答え、
庭伝いに建物の角を曲がって、左大臣の部屋に向かった。
「呪詛か? しかしそれにしては…」
泰明はあかねの隣につき、長い渡殿を急ぐ。
誰かが、近づいてくる。
身体の中で荒れ狂う痛みに翻弄されて、
浅茅は身構えることさえできない。
しかし、眼の隅で捉えているその動きが、
どこか不自然なことに、浅茅は気づいた。
そして、
「顔を上げよ、浅茅」
自分の真上で声がした時、浅茅はその理由を知った。
声の主は、宙に浮かんでいるのだ。
驚愕しながらも、以前、同じような場面に出くわしたことを思い出す。
だが、浅茅はもう一つのことに気がついた。
心臓がドクンと音を立てる。
――ぼくの名前を、知っている…。
と、まるでその考えを読み取ったかのように、再び声が降ってきた。
「私がお前の名を知っていることが、訝しいか」
「な…ぜ……」
身体を抱え込むように身を縮めたまま、浅茅はやっと声を出した。
その時、見えない力で浅茅の身体がぐるりと反転させられる。
「お前は、顔を動かすこともできぬのか」
冷たく斬り捨てるような声。
身体が上を向くと、自分の真上には、青い光の中にゆらりと立つ若い男の姿があった。
長い髪を垂らし、女のように美しい顔立ちをしている。
切れ長の瞳は闇の色だ。
浅茅と視線が合った刹那、その瞳に幽かな光が閃いた。
赤い唇が、小さく震える。
しかしそれは一瞬のこと。
そのように見えたのは、浅茅の気のせい…だったかもしれない。
男は浅茅を見下ろしたまま、揶揄するように言った。
「晴明がお前を必死で探している」
――お師匠様が…ぼくを…?
浅茅の顔に驚きの色が浮かぶのを見て、男は口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「稀代の陰陽師安倍晴明が直々に、まだ見習いにすぎぬお前を…だ。
なぜか分かるか?」
浅茅は混乱した。
安倍家の見習いにとって、晴明は天上の人と同じ。
浅茅はほんの数回、直接言葉を交わしたことがあるだけだ。
だがそれは特別なことなのだと、兄弟子達からは繰り返し聞かされている。
でも、それだけでお師匠様がぼくを?
浅茅には全く分からない。
しかし、浅茅のことばかりでなく、師匠の晴明をも嘲笑っているようなこの男の様子に、
怒りに似た感情がこみ上げてくる。
「お…お師匠様は…厳しいけれど、とても優しい人だから…」
一言絞り出す毎に、身体中に不快な痛みが突き抜ける。
それでも精一杯言い放つと、浅茅は男をにらみ返した。
しかし浅茅の虚勢は軽く一蹴された。
「優しい…だと?」
くっくっくと、喉を鳴らして嗤う声。
「浅茅、お前は可哀想な子供だ。何も知らされていないのだな」
気が遠くなりそうな痛みの中で、浅茅はぼんやりと思った。
――この人は…何の…ことを言ってるんだろう。
「お前は、自分の父が今どこにいるか知っているのか?」
かすれた声で答える。
「父さんは、ぼくが小さい時に病気で死んだから…もういない」
哄笑が青い空間を満たした。
「母にも騙されているか、哀れな子よ」
男が両手を広げると、浅茅の身体が中空に浮かび上がり、
男の眼の高さで止まる。
闇色の眼が、浅茅を見据えた。
男は禍々しくも美しい笑みを浮かべる。
仏の像にあれば慈しみの形であろう。
しかし浅茅の心には、いいしれぬ恐怖が沸き上がった。
「お前は晴咒を知っているな」
浅茅は眼を見開いた。
男の視線が浅茅を射る。
「晴咒を造ったのは、お前の父だ」
次の言葉を聞くのが、恐い。
耳を塞ぎたくても、身体は金縛りにあったように動かない。
「晴明がお前を探すのも無理はない。
私は安倍晴源……
浅茅、お前は私の子だ」
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
2.師弟
3.怨霊
4.大内裏・前編
5.大内裏・後編
6.転変
7.兄と弟
8.疑惑
9.魔手
10.集う・前編
11.集う・後編
12.出奔
13.理に背く者
第三部
1.小さな影の蠢く時
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やっと話が動き出しました。
第三部は怒濤の展開……になるといいなあ、と祈っています(誰に)。
読んで下さっている方々がいることが、何よりの励みです。
これからも一生懸命書いていきますので、
どうぞ引き続き、おつきあい下さいませ。
2009.09.28 筆