花の還る場所  第二部

4.大内裏・前編


暁の空にたなびく雲が、まだ姿を見せぬ太陽を映して、刻一刻と色を変えていく。

閨の中は、まだ暗い。
すやすやと眠るあかねを起こさぬように、泰明は細心の注意を払って褥から滑り出た。

髪を結い身支度を調えてから、再びあかねの様子を窺うと、
愛らしい笑みを浮かべた寝顔に一筋、乱れた髪がかかっている。

――神子の髪は、ずいぶん長くなった。
京に来たばかりの神子の髪は、まるで童のようで…。

甘く胸をうずかせる思い出に、泰明は小さく微笑んだ。
指先でそっと髪をかき上げ、つややかな頬に唇を落とす。

――神子、遅くまで起こしていて悪かった。
今日は少し早く行く。
このままゆっくり眠って…

その時、
「…泰明さん?」
あかねがぱっちりと眼を開けた。
すぐ近くで眼と眼が合い、あかねの顔が真っ赤になる。
泰明の方は、ほんのりと頬を染めただけ。

「きょっ…今日はもう出仕ですか」
「そうだ。少し、気になることがある」
「起こしてくれればよかったのに」
泰明は小さく首を傾げた。
「もう少し寝んでいる方が、神子のためにいいと思った。
だが、眠くとも起きる方がよいのか?」
あかねはにっこり笑った。
「もちろんです。泰明さんに、行ってらっしゃいって言いたいですから」
今度は、泰明の頬が桜の色になる。

しかし、急いで身支度をしながら、ふと思いついたようにあかねが口にした言葉に、
上気した泰明の頬は、すっと元の色に戻った。
「そういえば、浅茅くんは元気かなあ」
あかねはこちらに背を向け、髪をくしけずっている。
泰明は答える言葉を探しあぐねた。

「会っていないから分からない。浅茅が…どうかしたか」
ぶっきらぼうに答えると、怪訝な顔で振り向き、あかねは言った。
「この頃遊びに来ないから、見習いのお勉強、がんばってるのかなって」
こちらを見るあかねの視線は、何の疑いもなく真っ直ぐだ。
泰明はしばし躊躇い、偽りではない言葉をやっと探し当てた。
「浅茅は…しばらく来ない」

次の言葉を待たず、あかねを胸に引き寄せて抱きしめ、そっと唇を重ねる。
「行ってくる、神子」
「行ってらっしゃい、泰明さん」

もっと何か言いたげなあかねから身体を離すと、
泰明は朝靄の中に足早に歩み出た。

あかねに真実を全て語れないことは、泰明にとって大変な苦痛だ。
鷹通のことは、穢れにあたった…とだけ答えた。
だが…浅茅のことは、どう話せばいい?

――神子は、浅茅を可愛がっている。
その出自を知らせてはならない。

使い走りでよく外出していた浅茅だが、晴源が京にいるとなれば、危険だ。
お師匠は、浅茅を一人で外に出すようなことは許さないだろう。
様子を見に、見習い部屋に顔を出してみようか…。


この時はまだ、泰明も晴明も何も知らなかった…いや、知らされていなかった。
浅茅は安倍家の陰陽師の一員ではある。とはいえ、まだ見習いの身だ。
道で倒れてかつぎこまれるようなことがあったとしても、
いちいち上に報告されることはない。
浅茅にこれまで起きたことは、身の回りにいる少数の者しか把握していなかったのだ。





「あ゛〜? こんな時間から左近衛府が何の用だ?」
朝早く現れた友雅を、京職の男がじろじろと眺め回した。
「もう仕事を始める刻限と思って来たのだが、早すぎたかな。
少しものを尋ねたいのだが、都合が悪ければ出直してもいいのだよ」
無遠慮な視線を意に介することもなく、友雅は答える。

京職の男は、首の後ろを掻いた。
「あんたが仕事熱心とは意外だ」
「ははっ、自分でもそう思うよ。だが私はまだ名乗っていないはずだが?」
男は、にっと笑う。
「あんた、橘少将殿だろう? 噂くらいは耳にしてるよ。
本人を目の前にすればイヤでも分かるさ」

友雅は扇を広げて艶然と微笑んだ。
「その噂とやらには少々興味が湧くね。
無駄話というのはいいものだが、今はその時間がないのが残念だよ」
友雅にしては珍しく、心が急いている。
しかし、そうは見えないのが友雅の友雅たる所以か。

「時間がないってわりには、優雅だな、あんた。でもまあいいさ。
俺もこれから京の見回りに出るところだ。
お互い暇ってわけじゃなし、さっさとあんたの話ってのをすましちまおう」
「ここでは趣のあるやりとりなど、無用の長物というわけか。
私もその方がありがたいのだが」
そう言って友雅は、ぱちん、と扇を閉じた。
武官の顔が、そこにある。

「単刀直入に聞こう。京の街に異変は起きていないだろうか」
男は眉をひそめた。
「異変? それを言うなら、毎日が異変だらけだぜ。
七条八条あたりともなれば、有象無象がひしめいてるんだ。
ケンカ、かっぱらい、人さらいから殺しに怨霊騒ぎまで、何でもあるさ」
「では、さらわれた様子もないのに、大の大人が突然いなくなる…というのは」

男が真顔になった。
「近衛府がなぜ、そんなことを知りたがるんだ?」
「ほう、そう言うからには、行方不明になる人が少なからずいるのだね」
「ああ、人がいなくなるなんざ、京では珍しくもねえ。
だがここのところ、偶然にしては少しばかり多すぎると思って、調べてた所だ」
「それで、何か分かったのかな? 偶然ではあり得ないようなことが」

男はまた首の後ろを掻いた。
「どうもな…街のヤツら、貴族相手だとあまり話したがらねえ。
そこかしこの立ち話で、今度は誰それがいなくなった、とかいうのが聞こえてくるんだが、
俺が行くと、ぴたりと話を止めやがる」
「それで? そのまま君が引き下がったとも思えないが」
「ああ、とっつかまえてどこの誰がいなくなったのか、ちゃんと聞き出してるさ」
「これはまた乱暴なことだ。街人は災難だね」
「ちっ、あんたどっちの味方なんだよ。
とにかくだ、一番不思議なのは、いなくなった者を探そうとするヤツがいないってことだ」
「確かにそれはおかしいね。まさか、いなくなったのは身寄りのない人ばかりだった…
とかいうのではないだろうね」

男はかみつくように怒鳴った。
「あんた、何か知ってるんだな! だったら教えろ!!」
友雅はにこやかな笑みを返す。
藤原家の荘園でのことを、ここで明かすわけにはいかない。
「自分のお勤めにそこまで熱いとは、少しうらやましいよ」
「返事になってねえ」
「ああ、失礼した。だが、ただの推測なのだよ。
誰も探そうとしないのは、家族がいないからではないか、とね」

男は合点がいったように頷いた。
「そういうわけか。確かに、一人暮らしのやつばかりだったぜ。
これに関しては、一人ずつもっと丁寧に調べた方がいいのかもしれん。
威勢のいいガキにも噛みつかれたことだし、もっと本腰入れるか」
「ほう、他ならぬ君に噛みつくとは、子供ながらたいした度胸だね」
ふと、心に引っかかるものを感じて、友雅はさらに言葉を継いだ。
「どんな子供だったのかな?」
「鍛冶師の見習いとか言ってたな。
子分がいなくなったと検非違使に訴えたら、相手にもされなかったと
かんかんに怒って俺のとこに来た」
「子供がいなくなったのかい?」
「ああ、だが間違いだったみたいだ。
後で謝りに来たぜ。子分は戻ってきたってさ」
イノリの怒った顔も、謝る時のしおらしい顔も、眼に見えるようだ。
思わずこみ上げた笑いを、友雅は押し隠した。

そろそろ行かなければならない。
朝議が終わる頃だ。帝に目通りを願わねば。

「邪魔をしたね。では私はそろそろ失礼するとしようか」
「ああ、役に立てたんなら、何よりだ」
最初の時より、かなり和らいだ態度で、京職の男は答え、さらに続けた。
「右京の管轄の方が、いなくなったヤツは多いようだぜ。
あっちは問題にもしていないみたいだが」

右京…桂の荘園には近いが、今の時点では結論に飛びつかない方がいいだろう。
「ありがとう。覚えておくよ」
「で、あんたはまだ答えちゃいないぜ。
なぜ左近衛府のあんたが、京の街に興味があるんだ?」
「さあ、なぜなのか、自分でも分からないのだよ。
まだ調べている途中なのでね」
「あんた、顔に似合わず食えないな」
「お褒めにあずかった、と思っていいのかな」
男は笑った。
「ああ、そうだぜ。だからついでに言っておくよ」
男の笑いが引っ込む。
「行方不明の件と関係があるかどうかは分からないが、
街衆の間に、変な噂が広まってる」

行きかけていた友雅は、足を止めた。
「噂…?」
男は低い声で言った。
「噂と言うよりは、信仰めいたものだ。
貧しい者を救ってくれる、宗主様…とやらのな」



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―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春  2.師弟  3.怨霊  5.大内裏・後編  6.転変
7.兄と弟  8.疑惑  9.魔手  10.集う・前編  11.集う・後編
12.出奔  13.理に背く者  14.再会

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2009.05.16  筆