祈祷所に招じ入れられた泰明は、凄まじい力の残滓を感じ取り、
思わず足を止めた。
「分かるのか、泰明」
晴明の声には、苦渋の色が滲んでいる。
「この気は何なのだ、お師匠。まるで野分が吹き過ぎた後のようだ」
晴明は掌を上に向け、平らかな動きで腕を横に開いた。
その腕が真っ直ぐに伸ばされた瞬間、白い袖を翻し、
拳を下に向けて握りしめる。
と、中空に漂う異質な気が、バチバチと爆ぜて消えた。
すっと指を出し、泰明は爆ぜた残滓に触れる。
ちりっと熱に似た痛みを残し、それはすぐに消滅した。
しかしそれは熱ではない。泰明は正確にその痛みの正体を捉えていた。
――冷たい…。
凍てつく冬の嵐よりも、もっと…。
泰明が座すと、晴明は厳しい声で言った。
「浅茅の行方は、晴源に隠されている。
先ほどより人探しの法を行っていたのだが、固く閉ざされた扉に阻まれた。
こじ開けようと強い術を施した刹那、その扉が崩壊してこのようなことになったのじゃ」
「扉から術が放たれた…というのか?
ここは安倍家の結界の中で、しかも浄められた祈祷の場のはず」
晴明はゆっくりと頭を振る。
「扉は罠だったのだ。晴源は安倍家の人探しの法を知っている。
浅茅を探して扉に行き着いた者を屠るつもりでいたのであろう」
「では、お師匠自らが祈祷所に籠もって浅茅を探したのは、これを予期してのことだったのか?」
晴明は深い吐息と共に頷いた。
泰明は小さく首を傾げた。
「分からない、お師匠。なぜあえて危険を冒す?
確かに、浅茅は一刻も早く探し出さなければならない。
だが、罠があるかもしれないなら、他の者を同席させてもよかったはずだ」
ふっと、晴明は眼を細めた。
「案じてくれているのか、泰明」
泰明は驚いたように眼を見開く。
「当たり前のことをなぜ尋ねるのだ、お師匠?」
晴明は小さく口元をゆるめた。
「嬉しいのだ…泰明。
我が過ちを正さねばならぬこの時に、お前の心のあたたかさに触れようとは…」
だが晴明の感慨をよそに、泰明は続けた。
「過ち? それがあるから、お師匠は自分を危険にさらしたのか?
それが過ちを正すこととどういう関係があるのか、理解できない」
――こういうところは相変わらずか。
晴明は心の内で苦笑すると、厳しい表情に戻る。
話しておくべきか。
遠からず晴源とまみえることは必定なのだから…。
晴明は泰明に眼を向け、静かに言った。
「かつて安倍家に在った時、晴源は自らを死すべき宿命に追いやった。
晴源の為したことは、身を以て贖っても余りある罪。
我が過ちとは……その晴源の命を救ったことじゃ」
静寂が祈祷所を支配した。
晴明の言葉の通りならば、晴源は晴明に感謝こそすれ、
仇為すようなことをする理由とはならない。
だが泰明にして当然の疑問を口にするのが憚られるほどに、
晴明の静かな口調の中には、歳月を経てなお残る深い苦悶があった。
時が止まったかのようなその時、
泰明の首の数珠が一つ、ピシ…と鋭い音を発した。
「神子!」
音と同時に立ち上がる。
晴明が頷くと、泰明は身を翻し祈祷所を飛び出した。
東の市と西の市は、交互に立つ。
どの日にどちらの市があるのか、それぞれの市では何が売られているのか、
あかねはもうすっかり覚えている。
顔なじみの店もたくさんできた。
目的の店だけ回るのもいいが、一軒ずつ見ていくのも楽しい。
飾り紐の店の前で、あかねは足を止めた。
泰明さんの髪、このきれいな紐で結んだらどうかな…。
ちょっと想像してみて、あかねはにっこりした。
うん、きっと素敵!
家にいる時は、いつもと違うヘアスタイルでもいいよね。
私に髪を結わせてって、泰明さんにお願いしてみよう。
店の前にたたずむあかねを、子犬が見ている。
子犬は首をぐるりと捻ると、がちがちと牙を鳴らした。
「お嬢ちゃん、どれか気に入った?」
店のおばさんが言った。
「ええ、これをくださ…」
あかねが紐を手に取ろうとした時、近くで騒ぎが起きた。
「何しやがる!」
「この野郎!」
「許さねえ!」
「何だと!」
続いて、刀を抜く音。
無頼漢同士の喧嘩が始まったのだ。
「ひいっ」
店のおばさんは手早く売り物をまとめると、
「お嬢ちゃんも早く!」と叫んでその場を逃げ出した。
他の店からも、蜘蛛の子を散らすように店主が逃げる。
面白がって見に行く野次馬と、巻き添えにならないように遠ざかる人々の間に挟まれ
あかねはもみくちゃになった。
そのあかねに、何を思ったか、抜刀した無頼漢の一人が人波をかき分けて向かってくる。
逃げようとしても、周囲は恐慌をきたした人の群。身動きが取れない。
無頼漢の目は、何かに憑かれたように瞬きもせずあかねを凝視している。
「きゃああっ!」
刀が振り上げられ、あかねが悲鳴を上げた瞬間、
あかねの髪に挿した簪が眩く光り、ふわりと宙に浮かんだ。
「許さぬ!」
簪が泰明の声を発すると同時に、無頼漢が吹っ飛ぶ。
「や…泰明さん?」
「怪我はないか、神子」
「はい。ありがとう…」
中空に浮かぶ簪に向かい、あかねは笑顔で礼を言った。
と……「きゃいん!」
あかねの足元に、人々に蹴り出された子犬が転がってくる。
「あ!」
振り向いたあかねの眼の前で、子犬は倒れた。
人混みの中、放っておけば人々に踏み潰される。
あかねは思わず子犬に駆け寄った。
「いけない! 神子!!」
簪が動くより早く、あかねは子犬に手を伸ばした。
あかねから見えない側に傾けられた子犬の顔が、悪鬼の形の笑みを作る。
しかし、あかねの手が子犬に触れた瞬間、
グガォォォッ!!!
子犬は獣よりも恐ろしい吠え声を上げて、あかねから飛び退った。
「きゃああっ!」
「うわあっ!」
一部始終を見ていた者達が腰を抜かす。
愛らしい子犬の姿は、またたく間に黒い瘴気の塊と化していたのだ。
あかねの触れた肩口が、しゅうしゅうと溶けている。
「お前…は……やはり…」
瘴気の塊は、闇の底で蠢くような声を残して消えた。
宗主を呼びつけた右大臣は、半ば不機嫌の極み、そして半ば得意の絶頂であった。
白い顔を歪め、眉根を寄せて肩口を押さえながら現れた宗主を、いきなり大声で怒鳴りつける。
「愚か者め! 命令を取り違えて何とする!!」
宗主は己が手を肩から離し、床に手をついて右大臣を見上げた。
闇色の眼が、すうっと細くなる。
「怨霊はお前の仕業か!? わしは左大臣を呪詛せよと言ったのだぞ。
あのように派手に立ち回られては、土御門の警護も厳しくなるばかりだ」
そして、はたと気づいて右大臣は付け加えた。
「お前は怨霊も操れるのか?」
赤い唇の両端がきゅっと上がる。
「ご安心下さいませ。呪詛は…すでに終えました」
柔らかな声が紡ぎ出され、闇色の瞳に凝視された右大臣はめまいを覚えた。
朦朧としていく意識の中で、頼もしい言の葉が右大臣に届く。
「時を経ずして、左大臣殿は病に倒れることでしょう」
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
2.師弟
3.怨霊
4.大内裏・前編
5.大内裏・後編
6.転変
7.兄と弟
8.疑惑
10.集う・前編
11.集う・後編
12.出奔
13.理に背く者
14.再会
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2009.07.21 筆