朝議の場がどよめいた。
遅参を詫びた左大臣が口にした理由。それは…
「何ですと? 怨霊がまた現れた?」
「しかも左大臣殿の牛車が襲われたのですか?」
「その話、まことにございまするか?」
朝議に参集した面々の顔が青ざめている。
「畏れ多くもここは帝の御前。戯れ言など申さぬ」
左大臣の重々しい言葉に、一同は静まりかえった。
鬼が跳梁跋扈していた頃には、あちらこちらで怨霊騒ぎがあり、
襲われた者、命を奪われた者も少なからぬ数に上る。
もちろん貴族とて例外ではなく、皆戦々恐々としながら日々を過ごしていたのだ。
しかし鬼はいつの間にかいなくなり、大きな害を為すような強力な怨霊も
鬼と共に消え去った。もちろん小さな怨霊が時折現れることはある。
しかし左大臣の牛車を襲ったような巨大な怨霊など、鬼のいない今ではもう、
二度と現れることもないと、皆が信じて疑わなかった。
それだけに、衝撃はとても大きい。
左大臣の警護に当たっている武士団は、図抜けた使い手揃いであると、もっぱらの評判だ。
だが、次は自分が襲われる番かもしれず、
自分の所の護衛が、左大臣家の武士団に勝るとは到底思えないのだ。
皆が顔を見合わせる中、高い座から帝の言葉が下った。
「左大臣の話、あい分かった。看過できぬ大事ゆえ、皆の考えを聞きたいと思う。
忌憚なく申すがよい」
「ははあーっ」
畏まって頭を垂れながら心の中で舌打ちしているのは、右大臣だ。
……何をしておるのか、宗主めが。
怨霊を使って左大臣を亡き者にしろなどとは命じておらぬ。
しかも失敗するとは、全く当てにならぬではないか。
だが待て…宗主とて陰陽師。怨霊を調伏はしても、操るなど…。
ううう、それとこれとは関係ない…いや、関係あるのか。
宗主めを呼び出して質さねばならぬ。
とにもかくにも困ったことだ。
これでは安倍に出てこいと言わんばかり。
左大臣が晴明に祓えを命じようものなら、呪詛どころではなくなるぞ。
飛び交う言葉を上の空で聞きながら、右大臣は思わずため息をつく。
「では、右大臣殿のご意見は如何に」
その時、大納言から声がかかった。
はっと気がつけば、帝をはじめ皆の視線が自分に集まっている。
右大臣の背に冷や汗が垂れた。
「どうなされた?」
左大臣がこちらを見ている。
――やつの眼前で失態などできようか。
この後、やつはのうのうと安倍家に遣いを出し…そして…
左大臣の頬が、面白がるようにひくりと動いたように見えた。
「祓えを執り行わせ…」
悔しさの余り、考えていたことが我知らず口から飛び出る。
と、賛同の声が一斉に上がった。
「祓えか」
「よき考えかと」
「次の怨霊が出ぬよう、手を打つのでございますな」
何やら分からぬまま、右大臣はよい提言を成した形になった。
この機を逃す手はない。
右大臣は自分の機転に感激しながら、一転、攻勢に出ることにした。
「次の怨霊を封じるだけでは足りぬと考えまする。
怨霊が出るは、何かの予兆やもしれませぬからな」
「よからぬ兆しと?」
「考えすぎでは…」
そう言った中納言を、右大臣はぎょろりと睨んだ。
「では、怨霊を瑞祥とでも仰るか」
「い、いや…そういうつもりでは」
口ごもった中納言に哀れむような視線を送ると、右大臣は一同を見回した。
「大々的な祓えの儀式を挙行し、この京に安寧を取り戻すのじゃ。
異議を唱える方はいらっしゃるか」
参議の一人が言った。
「内裏の祓えで十分ではないか」
しかしすぐに反論の声が上がる。
「大内裏とて安心はできぬ」
「左大臣殿が襲われたのが洛中であったことをお忘れか」
「しかしそうなると、どこまで祓えばよいのだ」
「儀式の場は神泉苑として、陰陽師の力はどこまで及ぶのだろうか」
「いかに安倍晴明といえど、京全部を祓うほどの力は」
右大臣は内心にんまりとした。
ここまでうまく話を運んだ自分の手腕が嬉しくてならない。
さらに一押しするのだ。
「ならば、大津も使えばよいではないか」
何人かが、はたと膝を打った。
「大津と安倍が同時に二箇所で祓えの儀を行う。
さすれば、安倍だけに任せるよりもよき結果が得られるはず」
反対の声はもう無かった。
ちらりと盗み見た左大臣の顔は、心なしか不機嫌そうだ。
――してやったりとはこのことだ。
他の議題に移ってからも、右大臣は己の勝利に酔いしれていた。
帝はかすかな胸騒ぎを覚えながら、文机に向かっている。
朝議は、ことの外長引いた。
怨霊の一件のために時間が取られたのだ。
今になってまた怨霊とは……。
胸騒ぎの原因はここにある。
朝議の場には、左大臣を除き、龍神の神子の存在を知る者はいなかった。
つまり誰もが、怨霊が京からいなくなった本当の理由を知らないのだ。
朝議の結論は、京の鬼門と裏鬼門で祓えの儀式を執り行うというもの。
安倍晴明の力に対して疑念はない。
だが、大津の陰陽師に感じる漠然とした不安感は何なのだろう。
内裏は権謀術数の入り乱れる場所。
陰陽勝負の裏で取引があろうと、確たる証拠を明らかにできなければ
不正に言及したところで見向きもされぬ。
密かに貴族の間に入り込んだ大津の人脈を断つのは、帝の立場を以てしても不可能だ。
己が身の栄達と利と安穏とを求め、他の者にはその真逆となるを願う。
内裏とはそういう場所。
その中で、帝として成さねばならぬことはあまりにも多く、重い。
帝は顔を上げ、庭にそよぐ木々の葉を見た。
そして、まだ日も高くならぬ内から疲れている自分を叱咤する。
眠れぬ日が続いていることなど、言い訳にはならない。
自らの務めを果たさなければならないのは、民草も貴族も帝も同じこと。
――それに今日は、久方ぶりに永泉が訪れるはず…。
弟を思うと、思わず微笑みがこぼれる。
永泉も立派な僧となるべく努めているのだ。
私も気を取り直して、執務に励まなければ。
その時ふわりと侍従の香が漂い来た。
「友雅にございます」
香りの後から、本人の声が名乗る。
「入ってよい」
帝は庭に眼をやったまま答えた。
友雅が庇の下から、音もなく現れる。
「用向きは何か」
一瞬躊躇った後、友雅は低い声で言った。
「急ぎ、主上のお耳に入れたき事がございます」
「許す」
その言葉に、友雅は帝の側近くまで進み出た。
そして、最前よりもさらに低い声で一言…
「龍神の神子の存在…、気づかれているかもしれません」
時間は、朝議の前まで溯る。
この時、泰明もまた大内裏にいた。
陰陽寮の中にある天文の司。
出仕にまだ間のある刻限のため、人の姿はない。
しかしそれに構わず、泰明はつかつかと中へと入った。
開け放った扉から朝の光と風が流れこむ。
泰明が向かったのは一番奥にある部屋。
軋む扉を開くと、澱んだ空気が流れ出た。
門外不出の、天文の記録が保管されている部屋だ。
ここの記録と日月星辰の観測を元に、天文博士は様々な密奏を行っている。
足を踏み入れようとして、泰明は異変に気づいた。
次の瞬間、泰明の指先から鋭い気が放たれる。
それが中空で何かに弾かれるのを待たず、泰明は部屋に飛び込んだ。
奥の暗がりに、闇よりも黒い塊が蠢いている。
泰明の呪符が青い矢に形を変え、塊に突き刺さった。
しかし黒い塊は、矢をぬるりと振り落としたと見る間に、ぷす…と音を立てて消えた。
「逃したか…」
塊の消えた後には、ずたずたに破れた紙片が散らばっている。
それらを拾おうとした時、泰明はもう一つの異変に気づく。
部屋の反対側、泰明のいる場所からはちょうど死角となる場所に、人が倒れている。
それが誰かは、近づくまでもなく分かった。
「行貞!」
ぐったりした身体を抱え起こすと、行貞はかすかに身じろぎをした。
胸に手を当てると、心の臓はしっかりと拍っている。
「しっかりしろ! 行貞!」
「う……」
行貞がうっすらと眼を開いた。
「や…すあき…」
かすれた声を絞り出したその口には、乾いた血がこびりついている。
「あ…れは…化け物…か」
そのまま再び眼を閉じそうになる行貞を、泰明は容赦なく揺さぶった。
命に別状がないと分かれば、遠慮など無用。
「何があった、行貞」
「この部屋に…侵…入した者がいた。
捕らえようと…ここに来たら…途方もなく強い…何かが…突…然」
「お前ほどの者が、あっさりやられたというのか」
行貞の頬がひくりと動いた。笑ったようだ。
「ああ…俺…ほどの者でも…全く歯が…立たなかった」
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
2.師弟
3.怨霊
4.大内裏・前編
6.転変
7.兄と弟
8.疑惑
9.魔手
10.集う・前編
11.集う・後編
12.出奔
13.理に背く者
14.再会
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2009.06.04 筆