「お師匠が…?」
「ああ、先ほどから祈祷所に籠もられている」
今日は行く先々で足止めを食らう日だ。
晴明に会おうとした泰明は、今度も兄弟子達に止められてしまった。
確かに晴明の邪魔をすることはできない。
だが、終わったならすぐにでも会わなければならない。
「行貞のことは聞いているだろう。緊急の用だ。
ここで待たせてもらう」
泰明にしては聞き分けのよい答えに、兄弟子達はほっとした。
「それならかまわん」
「ついでだ。我らと共に警護に就け」
結界の張られた白木造りの部屋に眼をやり、泰明は無言で頷く。
むっつり顔の泰明に気圧されてか、その場にしばし沈黙が続いていたが、
やがて兄弟子達は雑談を始めた。
「それにしてもお師匠様は、なぜ見習い一人のために…」
「ああ、子供一人探し出すなら、我らでも十分なはず」
「どうしてお師匠様自ら、人払いまでして呪法をなさるのか」
泰明の顔が強張り、我知らず大きな声で聞き返す。
「浅茅が行方不明になったのか!?」
兄弟子達は一瞬怪訝な顔をし、次に合点がいったように首肯した。
「そういえば、お前は浅茅と一緒に呪詛を祓いに行ったのだったな」
「昨年の冬のことか」
「しかし浅茅の名は出していないのに、よく分かったな」
――浅茅がいなくなった…。
晴源の仕業か?
いや、ここは安倍家の屋敷。
異な者が入り込むことなどできないはず。
何があったというのだ…お師匠!
泰明が祈祷所に顔を向けた時、音もなく扉が開いた。
朧な形の式神が立ち現れ、晴明の声で言う。
「泰明か。入るがよい」
友雅は息を呑んだ。
自分の耳で聞いたばかりというのに、もう一度尋ねてしまう。
「永泉様、…今、何と仰ったのですか」
言ってから、しまったと思う。
案の定、永泉は戸惑ったように眼を見開き、次いでうつむいてしまった。
「あ…あの、その…私の思い違いかもしれません」
永泉の性格なら、このような反応をするのは無理からぬこと。
友雅は自信なげに眼を伏せた法親王を見た。
ここで退くわけにはいかない。だが、強く出ることもできない。
しかし次の言葉を考えていると、永泉が意を決したように顔を上げ、
友雅の顔を真っ直ぐに見返した。
「友雅殿、私一人の思い違いですむなら、これに越したことはありません。
けれどもし万一、私の見た忌まわしい瘴気が本当に主上に取り憑いているものなら…」
「永泉様…」
数珠を握った手が震えているのが分かる。
だが永泉の眼差しに揺らぎはない。
心の片隅で思う。
――このお方は…少し変わられたのかもしれない。
友雅はゆっくりと頷き、真顔で答えた。
「帝をお守りするのは左近衛府少将たる私の役目です。
もちろん安倍泰明殿にも、私から話をしておきましょう。
確かに……」
友雅の口調に苦いものが混じる。
「主上が晴明殿と直々に会って祓えを受けられれば一番ですが、
話を進めれば、宮中に噂が広がるでしょう。
永泉様の的確なご判断、感服しました」
「い、いいえ……私はそのような…」
思いも寄らぬ褒め言葉だったのだろう。永泉はうっすらと頬を染めた。
「そういえば、先日の陰陽勝負の時のお話ですが…」
友雅が話題を変えると、永泉は案じ顔になった。
「永泉様のお言葉で子鹿の身体を調べましたが、やはり傷一つありませんでした」
「そうでしたか…」
「他の者達は、子鹿が蘇った時に傷も癒えたのだと言い張りました。
大津の術に強い感銘を受けたためなのでしょう。
ですが、それに反論する術がないことも事実です」
「……仕方ないのでしょうか」
「残念ですが、今となっては、これ以上調べることはできません」
「ああ、子鹿を山に帰してやったのですね」
友雅の顔が曇る。
「鹿は春日の神の使い。丁重に世話をしてそのように…と思っていた矢先に、
子鹿は死んでしまったそうなのです」
「そ、そんな…。まだ幼き命なのに、何と哀れなことでしょうか」
瞑目した永泉から、前栽の上の空へと友雅は眼を移した。
看過できぬ大事が二つ、同時に起きた。
帝への呪詛。
そして、先ほど友雅自身が帝に奏上したこと……
大津の宗主が龍神の神子の秘密を知ったかもしれない、という可能性。
その時、帝は経緯を冷静に事分けて理解し、
あくまでも推測の域を出ないことを友雅に指摘した。
「…では、まだ龍神の神子のこと、はっきり知られたというわけではないのだな」
「おそらく」
「それに関わっているのは何者か」
「大津の陰陽師でございます。
右大臣殿が大津の陰陽師に、噂話のつもりで語ったのです。
鬼がいなくなる前、左大臣邸の娘が、
永泉様や泰明殿や私と共に京を巡り歩いていたと」
帝は長く息を吐いた。
「それだけなら、ただの噂に過ぎぬ。
龍神の神子の存在に気づくのは無理ではないのか」
しかし友雅は続けた。
「大津がその話を聞いたのは事実。
そして、大津の宗主なる人物に決して気を許してはならないことも、
これまでの調べで明らかになっています」
「その判断の根拠を」
「御意」
右大臣邸での一部始終を語ると、帝はしばし黙考した後、
友雅に明確な指示を出した。
――龍神にまつわる噂がどのように巷間に流布しているのか、
また宮中の人々の他愛ない噂も調べるようにと。
噂の断片をつなぎ合わせる頭脳と手だてを持つ者ならば、
真実の姿を紡ぎ出すことができるかもしれないのだから、と。
そして、龍神の神子にこのことを報せ、必要とあらば内密な警護を…と。
聡明で、思慮深い方だ。
民を思い、国を思い、帝としての務めを全身全霊を傾けて果たしていらっしゃる。
その帝を…呪詛?
あたたかな日というのに、友雅の背がすっと冷たくなっていく。
あかねは大宮大路を歩いている。
今日は東の市が立つ日だ。いつにも増して南に向かう人が多い。
人々の足の間を、子犬が一匹、ちょろちょろと小走りに駆けている。
家を出た時からずっと後をついてきているのだが、
あかねは気がつかない。
「ひ…」
おもしろ半分に子犬を蹴ろうとした男の顔が、突然恐怖に引きつった。
すれ違う者達は、ちらりと男を見ただけで通り過ぎていく。
その間に、子犬も人波に紛れて消えてしまった。
我に返った男は目をこすり、ぶるっと大きな身震いをすると
頭を振り振り歩き出す。
子犬が悪鬼のような顔で笑ったように見えたのは…
気のせいに違いない。
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
2.師弟
3.怨霊
4.大内裏・前編
5.大内裏・後編
6.転変
7.兄と弟
9.魔手
10.集う・前編
11.集う・後編
12.出奔
13.理に背く者
14.再会
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2009.07.05 筆