花の還る場所  第二部

3.怨 霊


がさごそと草をかき分ける音がした。
「おい浅茅、泰明さんがお師匠様の部屋から出てきたぞ。
用があるんなら、早くしろよ」
先輩の声だ。
庭の植え込みの奥で術の練習をしている浅茅を、わざわざ呼びに来てくれたのだ。

「あ、ありがとうございます!」
浅茅は結んでいた印を解いた。
暗がりにほんのりと浮かんでいた桔梗印が、すうっと消える。

「急げよ」
「はいっ!」
浅茅は門に向かって駆け出した。

雑用係兼見習いから、見習い兼雑用係に昇格して以来、
勉強で忙しくなった浅茅には、泰明と話をする機会がほとんどなかった。
一方の泰明も、安倍家では別格ともいえる存在。
泰明でなくてはできない勤めは、数え上げたらきりがないほどだ。

過日、忠告された通り、身体の異変のことを相談しようと思っても、
多忙を極めている泰明の時間を割いてもらうのは、やはり気が引ける。
長く引き留めたら悪いので、今日の所は泰明に大まかな話だけしておくつもりだが…。

――泰明さんには大切な仕事がたくさんあるのに、
ぼくのことで、何だか悪いなあ…。

そう思いながらも、浅茅自身、少し心配になっている。

もぞり…もぞり…
浅茅の中で、またあの感触が動く。
前よりずっと頻繁に、動きも大きくなってきているようだ。

――そうだ、近道をしよう!

浅茅は建物の床下に潜り込んだ。周囲はほとんど真っ暗だ。
しかし、その瞬間…

もぞり…
あの感覚。そして、

おぉぉぉん
身体の中から聞こえるのに、とても遠くで鳴り響く音。

浅茅の視界の中に、早足で歩く泰明の姿が映った。
真正面に向けたその顔は、いつものように無表情だ。
周囲は薄暗いが、安倍の屋敷に間違いない。

……これは…何?
今、起きていること?
式神もいないのに、なぜ?

もぞりもぞりもぞり…
おぉぉぉぉ…ん

二つの異なものが、共鳴している。

あの時と同じだ。
泰明さんの家の前で、イノリさんと会った後の…

泰明が門をくぐり、出て行くのが見える。
視界が霞んでいく。

よろけながら、浅茅は進んだ。

冷たい…

氷よりも冷たい暗黒が、浅茅を包んでいる。
暗黒の底から水泡の形の声が浮かび、ぷつんと弾けて言の葉になった。

……あ…さ…じ…
我が声……聞こえるか……





夕風が、火照った身体に心地よい。
帰りあぐねた蝶が、前栽の花の上に頼りなげに舞っている。
乱れた髪をかき上げ、友雅は庇の内に戻った。

懸盤に、酒と菜が用意されている。
杯を取ると、隣に座した女房が酒を注いだ。

杯を干す友雅の仕草をうっとりと見つめながら、女房は口を開く。
途絶えていた会話の続きだ。

「友雅様の仰っていた通り、大津の陰陽師は堀川を訪れましたわ」
「それはいつ頃だろうか」
「この前の逢瀬と、今日の逢瀬の間…」
「謎かけだね。どうやって解けばいい?」
「解き方などお教えしません。せいぜいお困りあそばせ。
私に淋しい思いをさせていた間も、友雅様は…」
「もちろん、貴女のことを思いながら、
冷たい夜を、一人で過ごしていたのだよ」
「まあ、そのように微笑んでみせても…」
「微笑みだけでは…、足りないのかい」
「……足りませんわ」
「手厳しいのだね…」
「ああ…もちろんですわ」

かたん…と、杯が落ちる。

「もしかして、陰陽師が訪れたのは昨夜のことではないのかな」
「…意地悪ですのね。知っていらっしゃるのに尋ねたのですか?」
「一足飛びに答えだけ欲しがるなんて、味気ない話だと思わないかい?
美しい唇から聞きたいのだよ。たとえ無粋な陰陽師の話でもね。
さあ、もっと話を聞かせておくれ。
私は貴女の唇に見惚れていることにしよう」
「右大臣様と、内々のお話をしていましたわ」
「そうか…では話の間は人払いされていたのだね」
「ええ。けれど、下がる直前まで、左大臣様のお話が多く出ていました」
「お二人の仲がよくないのは誰もが知っているが、
ことさらに、悪し様に言っていたのだろうか」
「ええ」
「他には?」
「そうですね…確か、去年のことも」
「去年の…?」
「内々のお話が終わった後ですわ。おそばに控えておりましたら、
陰陽師に向かって、鬼がいた頃のことを。
前からのお話の続きのようでした」

「鬼がいた頃…か」
「ええ、友雅様が内裏にお見えにならないと、皆が噂し合っていた頃ですわ。
私もよく覚えておりますもの」

友雅の眼に鋭い光がよぎる。が、それは一瞬のこと。
秘密めかした声で、友雅は女房にささやいた。
「昔のことなど、忘れておくれ。
それより、肝心な話をまだ聞かせてくれていないね」
「何ですの? 私もう…何も隠し事などできませんのに」
「これ以上私を焦らさずに、正直に教えてはくれまいか。
大津の陰陽師に、貴女はこの白い手で、酌をしたのかい?」
「まあ…友雅様」
「そうだとしたら、妬けてしまう」
「妬いて下さるのですか?」
「さあ、どうだろう。嫉妬する男は嫌いかな?」
「素敵ですわ。友雅様ならば…。
では、陰陽師が帰った後に、右大臣様が呟いた一言をお教えしましょうか」
「独り言は、小さな声で言うものだからね。私の耳元でその言葉を言っておくれ」
「…左大臣め、今に目にもの見せてくれる…と」
「何とも風情のないことだ。
艶やかな唇にはふさわしくない言葉を、言わせてしまったようだね」
「ふさわしい言葉とは、何でしょう」
「これから貴女が紡ぐ吐息…とだけ答えようか」





ズゥゥン!!
地響きと共に、地が揺らぎ、牛車が大きく揺らいだ。

行く手に忽然と姿を現したのは、雲を突くような青い巨躯。
頭には大きく曲がった角を生やし、尖った牙をがちがちと鳴らしている。

「ひいいっ! お…怨霊!」
「た…助けてくれ!!」
牛車の先導をしていた随身達は、怯えて腰を抜かした。
護衛の武士が一斉に抜刀し、怨霊の前に飛び出す。

「ギャァァァッ!!」
斬りつける剣を歯牙にもかけず、太い腕が振り下ろされた。
「うわあっ!」
「ぐっ!!」
避け損ねた者が二人、木の葉のようにはね飛ばされる。

「怨霊とはまことか、頼久」
牛車の内から、重々しい声がした。
「はい」
「朝議に遅れるわけにはゆかぬ。しかと任せたぞ」
「御意!」

頼久は向き直り、怨霊と戦っている武士達の元に走った。
「お前達は戻れ! 牛車を守りながら退く!」
「しかし、こやつを倒しませんと!」
「すぐに追いつかれてしまいます」

頼久は走りながら剣を抜き放った。
「私がやる!」

叩きつけられる巨大な拳の下をぎりぎりで駆け抜け、足を薙ぎ払う。
怨霊が苦悶の声を上げ、ぐらりとよろめいた。

「おおっ! さすが若棟梁!」
「我らは、一太刀も浴びせられなかったのに」
頼久は振り返ることなく叫んだ。
「早く行け! 左大臣様を!」
「はっ!」
はね飛ばされた者も一緒に、牛車へと駆け戻っていく。

「ギィ! グォッ!」
怨霊がそれを追って、腕を伸ばした。
「行かせぬ!!」
頼久は怨霊の懐に飛び込んだ。
もう片方の足を、袈裟懸けに斬る。
「ギャァァッ!!」
ずしんと、膝を付いた怨霊の足に飛び上がり、
頼久を掴もうと伸ばされた手から身をかわして、
分厚い胸板の中心に、一気に剣を突き立てた。

刹那、赤い光が閃き、次にずぶずぶ…と黒い瘴気が泡となって溢れ出る。

頼久は深々と刺さった剣の近くに足をかけ、
引き抜き様にその反動で、思い切り後ろへ飛んだ。

ずぶずぶ…ごぼごぼ…
怨霊の形がみるみる崩れていく。

それが跡形もなく消え去るまで見届け、頼久は剣を鞘に収めた。

「ようやった」
「もったいなきお言葉」
重々しい声に、頭を下げて答える。

牛車は何事もなかったように、再びごとり…と動き出した。

――なぜ、このような怨霊がまた現れたのか。

油断なく四囲に目を配りながら、頼久は思う。

――神子殿なれば、封印の力で二度と怨霊を蘇らせることもないのだが、
もしもまたこのようなことが起きたら…。

大内裏の門が見えてきた。
そこに信じられぬものを見て、頼久は眼をこすった。

――あそこにいるのは…まさか、友雅殿?

頼久はもう一度、ごしごしと眼をこする。

しかし、それは間違いなく、内裏へと急ぐ友雅であった。



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―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春  2.師弟  4.大内裏・前編  5.大内裏・後編  6.転変
7.兄と弟  8.疑惑  9.魔手  10.集う・前編  11.集う・後編
12.出奔  13.理に背く者  14.再会

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泰明さんが急ぎ足なのは、もちろん、
早くあかねちゃんの待つ家に帰りたいからです。
むっつり二歳児なんだからもう(笑)。

友雅さんは…すうぱあぱわあですね。
赤面でございます。

頼久さんの出演が、やっと叶いました。
これからの活躍を期待しています。



2009.04.24  筆