花の還る場所  第二部

10.集う・前編


朝儀の後、自らの職務を一通り終えた左大臣は、早々に内裏を辞して屋敷に戻ることにした。
万一に備え、警護には土御門から呼び寄せた武士団が数多く加わっている。

牛車に乗り込む時、左大臣はかすかなめまいを感じて足元を揺るがせた。
側にいた随身が慌てて支える。
「大丈夫ですか? お加減でも…」
そう言いながら見れば、左大臣の顔色が悪い。
「大事ない。早う…」
左大臣はそれだけ言って座につくと、目を閉じた。

随身に耳打ちされて、牛飼童はいつもよりそっと牛に鞭を当てた。
怨霊が来るやもしれぬ…という恐怖はあるが、左大臣の体調がすぐれぬ様子。
ゆるゆると進む牛車の周囲で、随身達は腰につけた太刀の存在など忘れたかのように
あちらこちらをきょろきょろと見回して落ち着かない。

「たたた頼んだぞ。いざという時には存分の働きを見せよ」
随身達は武士団を率いる頼久を呼びつけ、青ざめた顔で念を押した。
「御意」
頼久は短く答えて頭を下げる。

頼久の指示で、先触れのさらに前に騎乗の武士が配置された。
もちろん後方の備えも固めてある。
異変を見つけたらすぐに報せるよう手筈を整え、警戒怠らず牛車は進む。
頼久の下、よく訓練された武士団の動きには遅滞も迷いもない。

しかし、怨霊への恐怖は抜き差し難い。
大内裏から土御門までの距離が、これほどに長いとは…

恐れおののく随身達ばかりでなく、牛車の中の左大臣も同じことを感じていた。

寒くもないのにがたがたと震える身体を押さえながら、
何者かに見られているような気がして、思わず後ろを振り返る。
その時左大臣の耳に届いたのは、小さな笑い声。
しかし元より、声の主の姿など狭い牛車の中には影も形もなかった。





黒い瘴気が失せると、喧嘩をしていた無頼漢達は急に動きを止めた。
まるでたった今目が覚めたかのように、きょときょとと目を瞬き、
さらには手にした刀を見て驚く始末。
あかねに斬りかかって泰明に弾き飛ばされた男は、
尻餅をついたまま周囲をぼんやりと見回している。

何が起きたかよく分からないのは、周りの野次馬も同じこと。
とりあえず身に危険が及ぶことは無くなったと見て、一斉にあれこれとしゃべり出す。

そこへ、数頭の馬が人波を分けて入ってきた。
「ケンカだとっ!? 怪我人はいねえか!」
京職の一団だ。中の一人が馬から下りて街人達の話を聞く。
人々に指さされ、あっという間に無頼漢達が縄をかけられた。
尻餅をついていた男も、刀を取り上げられて引きずり起こされる。

簪を髪に挿し直して、あかねは引き起こされた男に近づいた。
「おい、あんたか? こいつに斬りかかられた娘ってのは」
京職の一人が尋ねるが、あかねはこくんと頷いただけで、男の顔をまじまじと見つめる。
その視線に、男がたじろぐ。
「な…何だよ! 俺はお前みたいな小娘、知らねえぞ」
「私も、あなたと会ったことはないです」

京職が割り込んだ。
「嬢ちゃん、すげえ度胸だな。たとえ男だって、自分に斬りつけたやつの側になんざ、
近寄れねえもんだぜ」
今度はその言葉に、縄をかけられた男が慌てた。
「お…おい…待てよ。俺がその小娘に何かしたってのか?
人違いだ。俺は何もやってねえ」
「ざけんな!」
京職は男を一喝した。
「これだけ大勢の人間が見てたんだぞ。下手なごまかしなんざ通じねえ」
「で…でも…その…」
男はしどろもどろだ。

あかねは京職に向き直ると、口を開いた。
「この人、嘘を言っているようには思えません」
髪に挿した簪が、肯定するようにかすかに揺れたのを感じる。
京職は片方の眉を上げた。
「何言ってんだ。嬢ちゃんに斬りつけたのはこいつだろう?」
「はい、でもそのことを覚えていないというのは、本当のことだと思います」
男は大声を上げた。
「あ…ありがとうよ! おめえ、俺を信じてくれるのか」
あかねはにっこり笑って頷いた。
「お、おい、とんだお人好しだな嬢ちゃんも…」
京職があきれ顔をした時だ。

「あかね! 無事か!?」
元気のいい声がして、その場に鍛冶師の格好をした少年が飛び込んできた。
「イノリくん!」

簪についた花飾りの一房が、イノリに向かってしっしっと追い払うように動く。
それを眼にしたイノリは、にかっと笑って腕を頭の後ろに組んだ。
「何だ、泰明か。しっしっなんて、子供みたいだな」
簪がくるりと動き、あかねの髪の中に潜る。

あかねは簪をそっと撫でて、イノリに言った。
「心配して来てくれたの? でも私がここにいるって、よく分かったね」
「ちょうど市の近くまで来てたからさ。
そうしたら、市の方から人が大勢逃げてきて、ケンカ騒ぎで女の子が斬られたって聞いたんだ。
確か今日はお前がいつも東の市に来る日だったから、
まさかと思いながらこうして駆けつけたってわけだ」
そうして、簪に向かって付け加える。
「ま、泰明が一緒だったんなら、心配することなかったな」
「ううん、ありがとう、イノリくん」

「…って、嬢ちゃんはこいつと知り合いか?」
それまで黙ってやりとりを聞いていた京職が少し驚いたような口ぶりで言った。
そこで初めて京職の顔を見たイノリは、素っ頓狂な声を上げる。
「あれ、この前の京職のおっさん」
「やっぱり、この前の見習いか」

とたんにイノリが真顔になった。
「ちょうどよかったぜ、おっさん。また子分がいなくなったんだ」
京職はやれやれと言いいたげに肩をすくめる。
「坊主、京職はこう見えても忙しいんだ。悪いが迷子探しは他を当たってくれ」
「今度はそうじゃねえんだって!
子分の母ちゃんも一緒にいなくなったんだ」

「母親も一緒に…ってか?」
京職はその言葉を噛みしめると、今度はかみつくような勢いでイノリに詰め寄った。
「いつだ! いついなくなった!?」
「昨日からだ。ここんとこ、二人揃って様子がおかしかったから、
オレ、毎日顔を出してたんだ。だから間違いねえ」

「詳しく話せ」
突如、ぶっきらぼうな声が割り込んだ。

「うわっ」
「泰明さん!」
泰明はあかねとイノリの間に、自らも割って入った。
「何だよいきなり。びっくりしたなあ」
「誰だ、お前さん。こいつの知り合いか? 見たところ陰陽師のようだが」
「イノリとは知り合いだ。だが、あかねは私の…」
言いかけて、泰明は昨日友雅が言っていたことを思い出した。
「今朝、友雅という男が訪ねていかなかったか」
「おい、橘少将殿とも知り合いなのか?」
「そうだ」

素っ気なく答えると、泰明はふいっと横を向いてイノリを見下ろした。
「誰かがいなくなったと言ったな」
イノリは少しふくれっ面になっている。
「そうだぜ。オレの子分がいなくなったんだ。これで二度目だぜ。
あいつ、インチキな陰陽師にダマされててさ、
そいつにそそのかされて、母ちゃんまでおかしくなっちまったんだ」

泰明の眼が光る。
「陰陽師…だと? その者の名は何という」
「名前は知らねえ。だが、宗主とか名乗ってるヤツだぜ。
なんでか分かんねえけど、この辺りじゃ有名なんだ」

と、その言葉を聞くなり、彼らを遠巻きにしていた人々の間から、
幾人もの男女が走り出てきた。
「このガキ、何を言ってるんだ!」
「宗主様はお優しい方なんだ。悪く言うんじゃないよ」
「誤解してるようじゃが、宗主様はすばらしいお方じゃ。
貧乏なわしらのために、お礼も取らずに祓いをしてくれる方が、
宗主様の他にどこにいる」

「ち…、やっぱりな」
京職は小さく舌打ちしたが、泰明は次々にまくしたてる人々の言葉に、じっと耳を傾けている。

「おれの嫁が怨霊に取り憑かれた時だって、礼は受け取らなかったんだぞ。なあ、お前」
「そうだよ。私たちの喜ぶ様を見るだけで十分に報われてるからって…。
ああ、宗主様…優しい心と美しいあのお姿、忘れられない」
「そりゃあ、私だって忘れちゃいないさ。
あんなにきれいな男なんて、そうそういるもんじゃない」
「美しいだけじゃないわ。若いのに腕が立つんですもの」
「そうそう、あたしゃてっきり髭の爺さんだとばっかり思ってたよ。
それがさあ…」
「ねえ…」

「若いとかきれいとか関係ないじゃん! あいつは嘘ついてるんだぜ。
そんなやつ、信じるのかよ」
イノリが叫んだ時、軽やかな蹄の音と一緒に、微風に乗ってよい香りが流れてきた。
本人より先に、香りが名乗っている。

「友雅さん!」
振り向いてそちらに駆けていこうとするあかねを、
泰明はやんわりと腕をつかんでその場に押しとどめた。

つられてそちらを見た女達が、最前の剣幕はどこへやら、
イノリからはそっぽを向き、一斉に髪をなでつけたり、着物の襟を調えたりし始める。
女達の豹変ぶりに毒気を抜かれた男達は、ぶつくさ言いながら人垣の中に消えた。

「おやおや、東の市に見知った顔が揃うとは、奇遇だね」
あかね達の前で、友雅はひらりと馬から飛び降りた。
派手な所作、ふわりとなびく髪、あでやかな模様の袖が翻る様子に、
そこかしこから、切なげなため息が漏れる。

「今朝ほどは邪魔をしたね」
友雅の言葉に、京職は女達以上の大きなため息を吐いて、
三度目の同じ質問を繰り返した。
「少将殿、こいつらはみんな、あんたの知り合いか」
「ああ、そうだよ」
京職は真顔になる。
「左近衛府が、東の市に何の用向きだ?」
対して友雅はにこやかに答えた。
「京職の職分を侵す気はないよ。気にしないでくれたまえ。
私は、このお嬢さんに会いたかっただけなのだから」

友雅はあかねに向き直り、泰明が反射的にあかねを後ろにかばう。
それを見たイノリが、やっぱりな…とでも言いたげな顔をした。

「お久しぶりです、友雅さん」
「今日も愛らしいね、あかね殿」
イノリはまた、やっぱりな…と言いたそうな顔になったが、
気を取り直してにっと笑う。

「本当に久しぶりだよな。こうして顔を揃えるなんてさ」
「そうだね、これで鷹通さんが来たりしたら…」
「んなわけないじゃん」
「いや…そうともいえない」
泰明が言った。
近づいてくる蹄の音を聞いて、かすかに眉を曇らせた友雅も言う。
「…そのようだね」

そして…
「皆さんお揃いでしたか!」
本当に鷹通が現れた。
いつものように礼儀正しく、初対面の京職の男にも挨拶をする。
しかし、心なしか普段とは様子が違うようだ。
かなり速く走らされたとみえ、馬の毛が汗で光っている。

京職は自分の馬に跨った。
「もう同じことを聞く気はしねえや。
俺はこれから戻って、喧嘩騒ぎを起こしたヤツらをたっぷり絞り上げることにするぜ」
部下に合図をすると、縄をかけられた男達が次々に引き立てられていく。
周りにいた野次馬達も潮時と見たのか、三々五々その場を離れていった。

「さて、せっかくこうして集まったんだ。
これからみんなでゆっくり話をする…というのはどうかな」
「いいですね」
友雅の提案に、あかねが嬉しそうに笑う。
「オレもいいぜ。っていうか、泰明がいるならちょうどいいや。
あの野郎の話も聞いてくれよ」
「話したくなくても、話してもらう」
泰明はイノリに答えると、友雅に言った。
「なぜ神子を探していた」
友雅は扇を広げて微笑んだ。
「大切な話があるから…ということにしておこうか。
どんな話かは、土御門でゆっくりと…ね」

「ええっ! 藤姫の家に行くんですか?」
「ああ、藤姫も喜ぶだろうしね」
「でも、急に行ってもいいのかな」
「神子の来訪を喜ばぬはずがない。
それよりも解せないのは、なぜ土御門かということだ」
「私もそう思います。何を考えているんですか、友雅殿。
このような時に、秘密めかした態度はよくありません」
扇の向こうの眼が笑った。
「このような時? 何かあったのかい、鷹通」
「そ、それは……」

鷹通は、あかねが襲われたことを知らない。
知っていたならば、まずあかねを案ずる言葉を口にしたはずだ。

しかし、友雅はそれ以上追求する気はなかった。
鷹通はまだ、ここに来た理由を話していない。
それでも、おおかたの察しはつくというものだ。
泰明も同じと見え、友雅と視線が合うと、小さく頷いた。
鷹通が焦っているのは、例の呪詛に関することだろう。
確かに人々の行き来する道端で話すべき事ではない。

だが泰明には、もっと心にかかることがある。
「土御門には、頼久がいるな…。なれば、五人…集うことになる」

友雅は扇をたたみ、流れるような動きで懐にしまった。
「確かにそうだね。失せた宝玉が何をやろうとしているのか…」
「どういうことだよ、はっきり言ってくれなきゃ分かんねえじゃん」
「友雅殿、もしかして、ここでこうして四人の八葉が揃ったのは偶然ではない…と
お考えなのでしょうか」
「私に、その答えが分かればいいのだが」
友雅は煙に巻くような笑顔で答えた。
「よし! とにかく藤姫の館に行けばいいんだな。
そこでみんな、あらいざらい話すことにしようぜ。
遠慮や隠し事は無しだ!」
イノリが拳を立てて頷く。

泰明はあかねの手を強く握った。
「神子…これから先は、私から絶対に離れるな」
「泰明さん…?」
きょとんとして顔を上げたあかねに、泰明は微笑んだ。
「お前が何より…大切だ」



その頃土御門では、法親王の突然の来訪に誰もが慌てふためいていた。

嵐の只中で永泉はちょこんと座り、奥への取り次ぎを待っている。



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第二部
1.惜春  2.師弟  3.怨霊  4.大内裏・前編  5.大内裏・後編
6.転変  7.兄と弟  8.疑惑  9.魔手  11.集う・後編
12.出奔  13.理に背く者  14.再会

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友雅さんや鷹通さんは国家公務員。
対するに京職は、京という首都のお役人というような感じでしょうか。
江戸の町奉行に近いという喩えを、読んだことがあります。
大内裏は国の行政機関が集まっている所なので、
地方機関の京職のお役所は当然別の所に。
なので、鷹通さんとは顔を合わせる機会なっすぃんぐのはず。

なんちゃって平安で、どこまでこだわればよいのか…(苦笑)。
京職は公式でもおなじみの職ですので、出しちゃいました。



2009.07.31  筆