ゆっくりと、意識が戻ってきた。
浅茅が眼を開くと、周囲はゆらゆら揺れる暗く青い光に満たされている。
背中に、ごつごつした感触。
洞窟の中…だろうか。
でも…ここって、どこなんだろう?
ぼくは、どうしてここに来たの?
記憶の中を探るが、何も思い出せない。
ぼんやりしたまま、視線を宙にさまよわせる。
と、青い光の正体に気づき、浅茅はがばっと飛び起きた。
岩壁に囲まれた天井のさらに上には、水が揺らめいている。
ここは、水の底?
でも、ぼくの周りには水なんてないし、息だって苦しくない。
出口を探すが、扉はおろか通れる隙間もないことが見て取れた。
浅茅は懐を探り、札を取り出す。
「行けっ!」
浅茅の手から、鳥の形の式神が勢いよく飛び立った。
しかし見えない障壁に阻まれ、水底まで届かない。
その時浅茅は、かすかに流れてくる力を感じた。
この力が水底を支えているのかもしれない。
もしかして、龍脈…なのかな?
ここは、あの晴咒っていう恐い人のいた洞窟に似ている。
あそこにも龍脈が流れていたんだっけ。
とその時、浅茅の中の何かが激しく動いた。
息が詰まり、がくりと膝を折る。
式神が浅茅の眼の前にばさりと落ちてきた。
「し…きがみ…さん。ごめん…なさい」
苦しい息の中で呪を唱え、札の形に戻す。
――まだ…その程度か…
天の水底に水輪が広がり、その中心からぽつり…と言葉が降ってきた。
…誰?
地に両手をつき、苦しい息の中で浅茅は思った。
顔を上げる余裕などない。
――呪縛を破ったというに、
力を使うどころか、己の力に苦しめられているとは……
…嗤っている?
暴風のように荒れ狂う力が、全身を駆け巡る。
…力って…これのこと?
――逆らうな。
…冷たい声。誰?
浅茅の視界の隅で、何かが動いた。
――その力は祝福だ。
声が、近づいてくる。
東の市を後にした一行が土御門に着き、友雅が取り次ぎを願うと、
あかねと顔見知りの女房が慌てた様子で出てきた。
「まあ!神子様、ちょうど頼久をお迎えに向かわせようとしたところでございます」
「え? 私を迎えに?」
あかねと繋いだ泰明の手に、かすかに力が入る。
「どうぞ、こちらへ。藤姫様がお待ちです」
女房の案内で、皆は奥へと向かう。
長い渡殿を歩きながら、女房は言った。
「こうして神子様や皆様のお顔を拝見していますと、去年のことが思い出されますわ。
先ほどから、法親王様もお見えになっておりますし」
女房の口ぶりは、とても懐かしそうだ。
「永泉さんにも会えるなんて、うれしい偶然です」
あかねもにこにこしながら、同意し、
「坊さんってヒマなのか」
「永泉様が? これは偶然なのでしょうか」
「内裏から直接いらしたのか。永泉様も、やるものだね」
「これで六人か」
後ろを歩く男達は、小さな声で呟く。
しかし、藤姫の用とは何だろう。
土御門でいろいろな話をするはずが、そちらが優先になった形だ。
子分の行方が心配なイノリは、カリッと爪を噛んだ。
鷹通は落ち着かない。
――私が思い出したこと……
事情を知らない神子殿達に、いったいどう話せば…。
友雅は、物陰からこちらをのぞき見ている女房達に艶然と微笑みながら、
事の成り行きに思いを巡らせている。
――藤姫が神子殿にどのような用向きか…。
朝方、左大臣殿が怨霊に襲われたばかりなのだから、
泰明殿を呼ぶなら分かるのだが。
そして、私達が神子殿と一緒に案内されている、ということは、
話を聞かれてもいい…あるいは、私達にも関わりがある…ということか。
泰明は、朝から陰陽寮、晴明の屋敷、東の市と動いてきた。
従って、左大臣襲撃の件は耳にしていない。
しかし土御門にぴりぴりした緊張感が満ちていることには、気づいている。
その中心は……
泰明は首を巡らせて渡殿から広い屋敷を見渡した。
――左大臣の居所の方か。
何か、事が起きている。だがそれが何かは、藤姫に問えばすぐに分かること。
では、この漠然とした不安の源は何なのだろう。
「呪詛は解いたぞ、行貞」
晴明の言葉と同時に、行貞はうっすらと眸を開いた。
「お師匠様…申し訳…ありませんでした」
起き上がろうとする行貞を、晴明はかすかに首を動かして押しとどめる。
「詫びを言う必要はない。お前はよくやった」
行貞は恥ずかしさで首まで真っ赤になり、思わず大きな声を出していた。
「し…失態をしでかした私に、そのような慰めは要りません!」
しかし晴明は、再び小さな所作で行貞の激高した言葉を止める。
口をつぐんだ行貞に、晴明は問うた。
「陰陽師に必要なものとは何か。
まやかしの言の葉か?」
今度は、別の意味で行貞の顔が満面の朱に染まった。
安倍晴明がその場限りの空言を口にするはずがないことを、
弟子である自分が一番理解しているはず……。
行貞の様子を見て取ると、晴明は「これを見よ」と言って
何も持たぬ手を行貞に向けた。
行貞が身体の向きを変えると、晴明の掌にいつの間に飛んできたのか、
小さな蝶がとまっていることに気づく。
晴明が、ほぉ…と息をかけると、
その蝶の羽が、両の手に余るほどの大きさに広がった。
「泰明が陰陽寮の保管所に置いてきた式神じゃ。
侵入した物の怪が貴重な記録を破損していないか、
天文博士が自ら調べたのだが、泰明はそこに立ち会うことができなかった」
「つまり泰明の代わりに……のぞき見」
「この蝶は役目を終え、先ほどここに戻ってきた」
「はい…」
自分が使ったことのない類の式神を、
行貞は興味と懐疑の入り交じった気持ちで注視した。
「よいぞ」
晴明が言うと、蝶ははらり…と薄い羽を一度だけ、動かす。
と、その羽にたくさんの文字がくっきりと浮かび上がった。
「これは…天文の記録…」
「そうじゃ」
行貞はかすれた声を出した。
「門外に出すのは…許されません」
晴明は少し眉を上げる。
「だが先日のこと、それを知りながらお前はここに助言を求めに来た」
行貞の顔に、再び血が上った。
「は…はい…」
「それは何故か」
「星辰の動きは政の行方をも左右するもの。
帝に奏上する内容に……間違いがあってはならないと…」
晴明は頷き、かすかに苦い口調で言った。
「だが、人は過つもの。そして天は常に動くものじゃ。
行貞、お前がこの記録から読み取ったことは、
天文の司が出した結論とは異なるものであったな」
「はい…。月の東西に雲が二筋、そして白虹、月の蝕み、彗星と、
昨冬より不吉の印が続いております。
今年はそれを受けて、殊の外多くの異変が奏上されていますが…」
「これまでに、それらはことごとく杞憂に終わっている。しかし…」
自分に向けられた晴明の視線に、行貞は深く頷いた。
晴明の掌で、蝶がかすかに羽を動かす。
「蝶がこれを身に映すのは一度きり。
誤りはないか、欠けたるところはないか、しかとその目で確かめるのじゃ」
「しかし、この式神は泰明のもの」
「泰明が知るは、天文の理。そして行貞が知るは天文の実。
だからこそ、泰明はこの式神を自分の元ではなく、安倍家に戻したのじゃ」
晴明の言葉に揺るぎはない。
行貞の心に、熱いものが灯った。
お師匠様…そして、あの泰明からの信頼、応えずしてどうする。
行貞は腕を支えに身を起こすと、端座して蝶に向き合う。
はらり…
はらり…
行貞が頷く度に、蝶は晴明の手の上で羽を閉じては開く。
と、ある箇所に来た時に行貞は眉を顰めた。
幾度もその箇所を読み返しては、己の記憶を辿る。
その額にじわり、と汗が浮かんだ。
部屋の中央に龍の宝玉。
それを囲んで、皆が顔を揃えていた。
頼久だけが、今までと同じく庭に立っている。
なめらかな真球の宝玉の形は、かつて八つに分かれていたとは想像もできない。
ましてやその一つ一つがさらなる球となり、皆の身体に埋まっていたなどとは。
今、宝玉はかすかな光を帯びている。
あかねが手を触れると、その光に五色の輝きが宿った。
そして手に伝わる、ほのかなあたたかさ…。
部屋の中は、静寂に支配されていた。
皆、ただ黙って、龍の宝玉を見つめるばかりだ。
「全ては一つの方向を指している…ということか」
沈黙を破り、泰明が感情を交えぬ声で言った。
「まるで宝玉が私達をここに呼び、それを教えたようにすら思えます」
永泉が少し震える声で続ける。
「その通り…なのかもしれません…」
藤姫は、両の手をぎゅっと握りしめている。
これまでの経緯はこうだ。
藤姫の待つ部屋に、皆が集まった後、当然のことながら、
あかねに来訪を請うた理由から話が始まった。
それは――龍の宝玉の異変。
常ならば、ただの白い石であるはずの宝玉が突然、
今皆が眼にしている通りの状態になったのだ。
となれば、藤姫が相談したいと思うのは、
龍神の神子であったあかねを置いて他にはいない。
一番心配なのは、龍脈の流れに障りが起きているのではないかということだ。
鬼が跳梁していた頃のように五行が乱れたなら、
強い怨霊がまた生じるようになるかもしれない。
すぐに占いも試みた。
しかし、どうにも読み解けない結果しか出ない。
そこに入ったのが、父である左大臣が怨霊に襲われたという報せだ。
館の者全員、生きた心地もなかったが、左大臣は無事に帰宅した。
そこで藤姫は直ちに、頼久に遣いを依頼したのだった。
怨霊の事件を知らなかった面々は、とても驚いた。
もちろん、その場にいて怨霊を撃退した頼久に、話が回る。
だが頼久は、己の武勇の部分の話は簡単にすませ、
ずっと抱き続けている懸念を口にした。
「確かにその場では、怨霊を退治しました。
しかし怨霊は、一度倒してもいずれまた復活するもの。
このままで収まるとは思えません」
「確かにその通りだね、頼久。
朝儀の席でも、怨霊のことが話し合われたそうだ」
友雅が頼久の話を受けて言った。
「そこで、祓えの儀式を大々的に執り行うことが決まったのだよ」
「祓え…だと?」
泰明が眼を細くした。
「ああ、右大臣殿の提案でね。安倍と大津双方の陰陽師に、
二箇所で同時に儀式をさせるおつもりのようだ。
間もなく正式な命が下りるはずだよ」
「大仰な」
泰明はにべもなく言い捨てたが、ふとあることに思い当たり、顔を上げた。
「今度は、大津の宗主自らが出てくるか…」
「宗主だって?!」
イノリが大声を出した。
「そいつ、子分や街の人をダマしてるのと同じヤツか?
貧しい人間の味方だとか言ってるけど、内裏のヤツらにも取り入ってるのかよ」
イノリの剣幕に、藤姫が後ろに身を引いた。
「イノリくん!」
あかねにたしなめられて、イノリは「悪ぃ…」と一言謝ったが、
それでも気持ちは収まらない。
「アイツは、病気を治したり憑き物を落としてくれたりするけど、
やってることは、それだけじゃない。
インチキな術を使って、みんなをダマしてるんだ。
オレの子分は、宗主が、死んだ父ちゃんに会わせてくれたって言ってた。
そんなこと、できるはずないじゃん。それなのに、他にもダマされたやつは…」
イノリの話を聞いた鷹通の顔が、蒼白になる。
荘園から消えた村人達の話、思い出したばかりの自分の体験……
全てが一つに繋がっていく。
鷹通は大きく息をすると、きっぱりと言った。
「その宗主の話、嘘とは言い切れません」
「な、何だよ鷹通、お前って、こういう話は全然信じないと思ってたぜ」
鷹通はあかねを見やり、次いで泰明に視線を移した。
無言の問いに、泰明は答えた。
「神子にも真実を話すべき時だろう。続けろ、鷹通」
「賛成するよ、泰明殿」
友雅の言葉に、泰明の眼が鋭く光る。
そんなやりとりに怪訝な顔をしたあかねだが、すぐに気を取り直した。
泰明が何か隠しているのは、とうに気づいていた。
それが自分を思いやるゆえのこと、とも分かっている。
しかし事は鷹通だけに関わるものではなく、もっと深刻な様相を帯びてきたらしい。
だからこそ、泰明は「真実を話すべき」と言ったのだ。
心が、しん…と静まりかえっていく感覚。
知らぬ間に近づいていた嵐の予兆。
あかねは鷹通の話に耳を傾けた。
鷹通は、これまでの経緯を冷静に語り始めた。
泰明と友雅に話したことと同じ内容だが、
始めて耳にする者にとっては驚きの連続だ。
鷹通の真面目な性格を知らなければ、作り話と思われても仕方ない。
だが次に、鷹通はさらに信じがたいことを口にした。
それは、泰明も友雅も初めて聞くことであった。
「泰明殿に呪詛を解いて頂いた後も、
記憶の中に、まだ靄に覆われて見えない部分があったのです。
宗主の元に案内された時のことが、全く思い出せません。
ただ…繰り返し記憶を探る内、ぼんやりと見えてきたのが
強い光を放つ、闇よりも黒い双眸でした。
その時私は確かに、宗主の前にいたのだと思います。
私の耳に柔らかく…それでいて冷ややかな声が届きました。
私は何かを…答えたようです」
鷹通は少しうつむき、指先で眼鏡を押し上げた。
息を整えると、意を決して皆に視線を向ける。
「宗主は少し…笑ったように思えました。
そして白い指がすうっと動いて、それの示す先を見ると……
そこには、優しい笑顔を浮かべた…母が……いたのです」
―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春
2.師弟
3.怨霊
4.大内裏・前編
5.大内裏・後編
6.転変
7.兄と弟
8.疑惑
9.魔手
10.集う・前編
12.出奔
13.理に背く者
14.再会
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2009.09.03 筆