花の還る場所  第二部

7.兄と弟


怪我のために第一線を退いたとはいえ、行貞は安倍家の中でも気鋭の術者。
その行貞が抵抗すらできなかった相手とは、何者なのか。
しかも場所はこともあろうに陰陽寮の中だ。
そこに曲者――安倍泰明の言に寄れば、魔の者が侵入するとは、
由々しき事態といえよう。

事を重く見た陰陽寮の頭は、即刻、記録保管所を封じるよう命を下した。
その上で、天文博士自らが書類に欠損がないかどうかを確認し、
陰陽師は博士の護衛に当たりつつ、侵入者の痕跡を探し出すこととなった。

泰明は、安倍家に運ばれる行貞についていくことは許されず、
保管所に入ることも許されなかった。
この件の調査に協力することが第一、と陰陽寮の上部が決定したためだ。
行貞を発見し、その時に物の怪を見たのは泰明だけ。
行貞がまだ話の出来る状態ではないため、泰明から当時の状況を聞くしかない…
という理由だが、至極当然の成り行きではある。

そこまでは、いい。
しかし、調査に当たっている陰陽師のみならず、允、助、頭の一人一人に、
行貞を発見した時の話を繰り返して説明せよと命じられ、
泰明はこれ以上ないほどの仏頂面になった。
陰陽寮に出仕していた兄弟子達は、どんな無礼な答えをするかとはらはらしたが、
意外なことに、泰明はおとなしく従った。

しかし、仏頂面ながらも素直に説明をしている…と皆がほっとした頃には、
泰明はとっくに式神と入れ替わって大内裏を後にしていた。
もちろん、記録部屋に小さな蝶の式神も置いてきた。
天井に止まり、天文博士の手元を見るにはそれで十分だ。

安倍家に戻ると、行貞の様子を見にいく。
しかし、そこでも泰明は止められた。

表情は変わらぬまま、泰明の気が高まっていくのを感じ取り、
強行突破されると踏んだ年かさの陰陽師が、慌てて説明をする。

――行貞は、昨夜の話を始めると突然別人のようになり、
自ら命を絶とうとするのだ……。

泰明は、高めた気を瞬時に収める。
「そのこと、お師匠には伝えたか」
「いや、行貞殿を抑えるのに手一杯でまだ…」
泰明はくるりと背を向けた。
「私が行ってくる。行貞には強い呪詛が施されている。全力でかかれ。
生半可な抑えでは大事になると心得ておけ」





「主上、本日はお目通りをお許し下さり、ありがとうございました」
簀の子の上から控えめな声がした。

永泉はいつもこうだ。
二人の時に遠慮は無用といくら言っても、許しの言葉がかけられるまで
部屋に入るどころが、庇の下で頭を垂れたまま話し続ける。

開いた距離は、縮まることはない。

それは悲しんでも仕方のないこと。
帝を守り、自分を守るために、永泉自らが望んでそうしているのだから。

帝の血筋に生まれたばかりに、己の存在が政争の具となる。
幼い頃から人の醜い心根を見せつけられ、嘘と偽善に取り囲まれる。

人一倍繊細な永泉の心に刻み込まれた傷が癒えることはないのだろう。
それを怯懦であると、責めることができようか。

帝は立ち上がり、自ら御簾の外に出た。
「よく来た、永泉」
その言葉に、やっと永泉は頭を上げる。
しかし、帝を仰ぎ見た永泉の顔がみるみる青ざめた。
「!…主上…」
「永泉、どうした!?」
弟の異変に気づいた帝は、永泉の前に膝を付き、肩に手をかけて強く揺さぶる。

その時永泉の眼に映っていたのは、兄を取り巻く青黒い瘴気だった。
しかし、永泉がまばたきする間に、それは消え去ってしまった。

「な…何でもありません…。
ご心配をおかけして申し訳ありませんでした、主上…」
唇を震わせながら、永泉は精一杯平静を装う。
先ほどの帝の言葉に、隣の部屋で動きがあった。
聞かれている。迂闊なことは言えない……。

永泉は笛を取り出した。
「主上、何も持たぬ身ではございますが、
御心の慰めになればと思い、これを持参いたしました。
この場で奏でること、お許し頂けますでしょうか」
帝は、晴れ晴れとした笑顔になった。
「お前の笛は、私には何よりのものだ。嬉しく思うぞ、永泉」

永泉は少し頬を染めると小さく感謝の言葉を述べ、吹き口に唇を当てた。

初めの一節が響くと、風の色までもが変わった。
清らかな音に、庭の木々も耳を澄ます。
深い山の奥に流れるせせらぎのような、透き通った調べが部屋を満たし、帝を包みこんだ。

帝は深い息をつく。
このように安らいだ気持ちになるのは、幾日ぶり…いや、幾月ぶりのことか…。

永泉は祈りをこめて笛を奏で続けた。
――せめてこの笛の音で、あの恐ろしいものが薄らぎますように…。

至らぬ私には、これくらいのことしかできません。
友雅殿…泰明殿…。
どうか力をお貸し下さいと……お二人にお願いに行かなければ。
帝が呪詛を受けているなど、絶対に知られてはならないのですから。

昨年の冬、内裏が呪詛された時にも、帝がその地位にふさわしくないから…
との噂がまことしやかにささやかれたくらいだ。
帝を狙った呪詛も人々の知るところとなれば、犯人探しだけで収まることはない。

朝廷、内裏を取り巻く闇の深さを思い、永泉は小さく身震いした。





昼も日中というのに、護摩壇のある堂宇は扉を閉め切り、
炎に照らされぬ四隅は何があるのかも分からぬほどに暗い。
護摩壇の火を背に座した宗主の前に、大津の陰陽師が二人、ひれ伏している。

「早かったのですね、ご苦労様です」
柔らかな宗主の声に、二人は顔を上げた。
「分かったことを、お話し下さい」
宗主は静かな笑みをたたえて二人を見ている。

一人が書き付けを広げ、炎の灯りで確認しながら話し出した。
「土御門の左大臣邸に通っていた男は、五人でした。
鍛冶師見習いの子供、藤原鷹通という治部省の貴族、そして左近衛府少将橘友雅
さらには法親王…御室の御子様、そして、あの安倍泰明です。
毎日朝早く邸を訪れては、男二人に娘という三人連れで出かけていました」

もう一人が言葉を続ける。
「顔ぶれはその時々で違ったようですが、
左大臣家にいる者も、時に一緒に出ることがあったようです。
源頼久という、武士団の若棟梁に、装束を着崩した異風の青年、
そしてあろうことか、鬼の子供まで…」

宗主は柳眉を顰めた。
「鬼の子が、左大臣の邸にいたというのですか?
では、まだその鬼は邸に匿われているのでしょうか」
二人は首を振った。
「鬼がいなくなって以来、青年と鬼の子供は行方が知れないのです」
「娘の元を男達が訪れなくなったのも、ちょうどその頃だったようです」
「人の記憶は曖昧なもの。確かなのですか」
「街人の話だけではございません。貴族からも話は聞いております。
橘少将に懸想した女房達が、一頃、昼の参内が少ないことを嘆いていたと…」
「鬼が消えた後、また宮中に顔を出すようになったことを、
女達はよく覚えておりました」

二人は話を続けている。
それを聞きながら、宗主の眼前に一つの物語が組み上げられていく。

――あの桂にいた貴族…、藤原鷹通は土御門の娘と関わりがあったのか。
陰陽師でもなく、霊力も人並み外れて強くはない青年であった。
にも関わらず、我が呪詛に抗する強き力…。

そして昨年の水無月…鬼は消えた。
その頃に、神泉苑の上空に舞う白い龍を見た…というまことしやかな噂がある。
龍神が現れ、鬼の邪を祓ったのだと。

頃を同じくして、男達が土御門の娘を訪れることもなくなった…か。

京を加護するという龍神の存在は、多くの人々が知るところ。
だが、神は神。人の世に関わることはないはず。

しかし……

かつて安倍家の書庫で読んだ古籍……
そこには、古き言い伝えの痕跡があった。

――龍の言葉を聞く娘と、それを守る八人の男。

宗主は両手を広げて微笑んだ。
「ありがとう。あなた達の助力、感謝します」
「もったいないお言葉!」
「宗主様の御為なれば、これほどのこと、何でもございません」
二人の男は喜々として堂宇を去った。

炎の熱が、宗主の背を焙っている。それでも宗主の額には汗の一粒も浮かばない。

闇色の眼を半眼に閉じ、赤い唇がすうっと横に広がる。
邪な笑みの形。

――件の娘…
男好きのするただの女か
はたまた龍の神子か……
この眼で確かめにいくとしよう。



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―― 花の還る場所 ――
第二部
1.惜春  2.師弟  3.怨霊  4.大内裏・前編  5.大内裏・後編
6.転変  8.疑惑  9.魔手  10.集う・前編  11.集う・後編
12.出奔  13.理に背く者  14.再会

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2009.06.22  筆