いまひとたびの 12



雨中に浮かんだ灯火が、ゆらゆらと頼久の前を行く。
左大臣の使いが夜闇に迷わぬように、安倍屋敷の門まで案内しているのだ。

行きの道も、このようにして晴明の元まで導かれた。
不思議な光景に最初は戸惑ったものの、
ここでは取り立てて特別なことでもないのかもしれないと、頼久は頭の片隅で思う。

だが今、何よりも心を占めているのは、安倍晴明と会うことができた安堵感だ。

武士が左大臣の使いとして貴族にまみえるのは異例と言っていい。
安倍晴明は名高い陰陽師であると同時に、昇殿を許された四位の位を持つ貴族。
使者としては、それなりの身分の者が選ばれて当然だ。
しかし左大臣はあえて頼久に対して、
晴明に直接会うようにと命じ、晴明もそれに応じた。

左大臣が明日から昇殿しないことと、この異例の任が無関係ではない…と、
分を超えた詮索をしない頼久も理解している。

政の一線から退くよう命じられている時に
あの安倍晴明に正式な使者を立てて自ら立場を悪くするようなことを、
卓越した為政者である左大臣がするはずもない。

眼を転じれば、灯火の向こうは雨と深い闇。
何も見えず、雨音以外は何も聞こえない。

しかし、ふと気配を感じて頼久は足を止めた。
眼を凝らしても誰の姿も見えないが、相手も立ち止まったのが分かる。

その者は敵ではない。むしろ、よく知っている人物――。

「失礼ながら、友雅殿では……」「おや、頼久だね……」

二つの声が重なった瞬間、視界が揺らめいて、友雅の姿が現れた。
頼久と同じく、宙に浮いた灯火が先導している。

と、どことも知れぬところから、忍び笑いが聞こえてきた。
頼久が先ほど耳にしたばかりの、安倍晴明の声だ。
  「目くらましの術を容易く破ったか。
  八葉の絆とは頼もしいものじゃ」

友雅は、中空に向かって微笑んだ。
「晴明殿もお人の悪い。
だが、これは格段のご配慮と受け取りました。
訪問者同士が顔を合わせないようにとのお気遣い、感謝いたします」
そして、頼久に向かっては、小さく眉を上げてみせる。
「おもしろい体験をさせてもらったね。
晴明殿の術を見られるなど、滅多にないのだから。
そうは思わないかい、頼久」
「はい。貴重なことと、心に留め置きます」

それ以上言葉を続けることなく、二人はそれぞれ反対方向に歩き出す。
頼久が振り返ると、式神の灯火がゆらゆらと遠ざかっていき、
友雅の姿は間もなく雨夜の闇に溶けた。

――友雅殿は、晴明殿とは面識あるご様子だった。
しかし、このような刻限に訪問とは……。
私は左大臣殿の使いということで許されたが、
友雅殿が屋敷の門を入ることができたのは……。

あれこれ考えるまでもなく、帝の懐刀が深夜に訪れたとあれば、
誰の命によっているかは明らかだ。
それほどに緊急であり、表立って動けぬ事態が起きているというのか……?

その時、頼久の前に安倍屋敷の門が現れ、音もなく開いた。
覆いのついた松明を掲げた見習いの少年が、
馬の綱を取って雨に打たれながら待っている。

少年に礼を言い、頼久は馬を引いて門を出た。
心なしか雨脚が弱くなっているようだ。

懐中に晴明から託された小箱の感触を確かめると、
頼久は松明の灯りを頼りに帰途についた。

しかし土御門の辻の近くまで来た時――

間断無い雨音に混じって頼久の耳に届くのは、馬具の立てる金属の音、
泥道を行く馬の蹄のいつもより重い音と、
雨に触れた炎が立てるちりちりという音だけ。

次の瞬間、頼久は松明を投げ上げ、馬から飛び降りた。
的を失った矢が空を切る。

雨にさらされながら松明が落ちていく。
薄暗いその光が照らし出したのは、白刃を振りかざした五人の刺客。
さらに、近くの物陰に射手が少なくとも一人はいる。

頼久は光の届かぬ暗がりに身を躍らせた。
予期せぬ反撃に刺客の動きが鈍っている間が勝負。

乗り手を失った馬が、激しく嘶く。





荒れた庭に降りしきる雨が、
かろうじて池の形を留めた水面に、不規則な波紋を描いている。
その周囲には、石のように動かぬ蟇蛙たち。

雨の庭に真向かい、道摩は結跏趺坐していた。
開け放った部屋に灯りはない。

――池に石を投じれば波紋が広がる。
幾つもの石を放てば、池の魚も騒ぐ。
だが………

「吾の石に動かぬ帝は英明か、冷たき性か……」

道摩が呟くと、部屋の片隅に脱ぎ捨てられた袍がぼんやりと光り、
中からキシキシとした声が答えた。
「賢帝とノ評バん 心労ハナハだシ」

「では次の石を放つ」
「帝は ドウマの為シたことヲ 知ッてイる」

道摩の目が細くなる。
「……早い。
いずれはセイメイが見破るはずであったが……」

「サ近エ府しょウ将ガ 帝とセイメイを繋イでいル
ソの者ハ 我ノ気配ニも気づイた」

薄ら寒い笑みが道摩の顔に広がる。
「次の石は左近衛府少将としよう。
骸を内裏に転がせ。
吾は……」

道摩は泥の中を這いずってきた一匹の蟇蛙を凝視した。
蟇蛙はつぶれた声で「グゥェッグゥォッ」と鳴いている。

「この目で確かめようぞ。
集いし離、乾、坎、艮は、奇縁か………遠き力か」






「永泉さん、どうぞ」
「ありがとうございます、神子」

泰明の家に迎え入れられた永泉は、白湯を口にするとほっと息をついた。
「ああ……あたたかいものを頂くと身も心も安らぎます」

「髪がまだ濡れていますね。もっと布を持ってきましょうか」
「い、いいえ、もうこれで十分です。
泰明殿の着物まで貸して頂いて、何とお礼を言えばよいか……」

そう言いながら、永泉がおそるおそる泰明を見ると、
思い切り不機嫌な顔がそこにある。

「神子に感謝しているなら、私に礼など不要だ。
それより、何故このような時分に来た。
(神子と私の二人きりの時間を邪魔する)理由を話せ」

「は……はい…。それが、その……行くあてがなくて……
神子と泰明殿にはご迷惑と承知してはいるのですが、
……あの、せめて一夜の宿をお願いしたいと」
「もちろんです。遠慮なんてしないで下さいね。
もう遅いし雨も降っているし、これからお寺に戻るなんて無理ですよ」

しかし泰明はかすかに眉根を寄せた。
「行くあてがないとは解せぬ。
なぜ内裏に行かない。
内裏でなくても、縁ある貴族は少なくないはず。
永泉ならば、誰の屋敷に行っても丁重にもてなされるだろう」

「すみません……。やはりご迷惑でしたね」
「詫びは要らない。私は疑問を口にしただけだ。
永泉がここに来たと言うことは、
寺にも、内裏にも、行かれないということだろう。
何があった」

「あ………あの……私は……」
口ごもる永泉に、泰明はさらに続けた。
「何から逃げている、永泉」

泰明の言葉に、永泉ははっと息を呑む。

一瞬驚いたあかねだったが、すぐに笑顔を永泉に向けた。
「永泉さん、困っていることがあるなら話してみて下さい。
力になれることがあれば、私も泰明さんもお手伝いしますから」
「私も手伝うのか」
「もちろんです」
「………分かった」

「神子、泰明殿……実は……」
うつむいていた永泉は顔を上げ、意を決して語り始めた。

庭の蟇蛙が、じり…と動く。





闇の中では、多勢よりも一人の方が戦いやすい。
相討ちを怖れず、存分に剣を振るうことができる。

土御門からほど近いこの一画は頼久のよく知る場所だ。
さらに、松明の最後の光で敵も把握した。
弓の射手の潜む場所は、矢の飛んできた方向から見当がついている。

倒された仲間の悲鳴を聞いて、敵は頼久の位置を知るが、
ぬかるんだ道を足音も気配も消して動くのは不可能だ。

二人、三人……。
びしゃり、びりゃりと音を立てて、男達は泥の中に倒れていく。
しかし、いきなり明るい光が頼久の眼を射た。
何者かが新しい松明を掲げたのだ。

光を背にした武者が二人。
そして、松明を手にした男――隠れていた射手だ。

闇に慣れた目には、松明の灯りすら眩しい。
一方、敵二人には頼久の姿がはっきりと分かる。

機を逃さず、男達は同時に斬りかかってきた。
刹那、頼久は身を屈めると、倒した男の手にあった剣を投げつける。

「ふん、血迷ったか」
「そんなものは当たらぬ」
しかし、二人の動きは僅かに乱れ、
その背後で松明の光が大きく揺らいだ。
頼久の投げた剣は、射手の肩に当たったのだ。

「くっ……」
「きええい!!!」
焦りが二人の呼吸に表れている。

頼久は、力一杯振り下ろされた一人目の斬撃を受け流して
横合いに回り込み、勢い余って前のめりになった男の襟首を掴むと
二人目に向かって押し出した。

「うわっ!」
咄嗟に剣を引いた二人目の男が、ぬかるみに足を取られて尻餅をつく。

その隙に頼久は傷を負った射手に走り寄り、松明を奪い取った。
周囲をぐるりと照らすと、近くの塀際で馬がたてがみを振って小さく嘶く。
頼久が飛び乗ると、馬は待っていたように走り出した。

「ま、待て!」
「逃げるとは臆病な!」
男達の悔し紛れの悪罵には、安堵の色がある。

――命を賭す覚悟のない雇われ者か。
これしきの雨で足元を狂わせるとは、まともな鍛錬もしていないようだ。
しかし、土御門の近くで待ち伏せて力尽くで仕掛けてきたということは、
誰かに命じられて左大臣様の動きを見張っていたはず。
それでいながら、寄せ集めの者達が使われた………。

馬具の音に気づき、剣を構えていた土御門の門衛は、
頼久の姿を確認すると脇門を開いた。
日頃から厳しい鍛錬を欠かさない武士団なればこその対応だ。

「左大臣様がお待ちだ」
頼久の姿を一瞥した武士団の棟梁は、
明らかに一戦交えてきた息子の怪我を案ずるより先に、
務めを果たすよう促した。
――これもまた、武士なればこそ。

「直ちにご報告に上がります」
短く頷いて、頼久は懐に手を当てる。
そこに、晴明の小箱は……無い。





「いいか、誰もついて来るでないぞ!」
酔って足取りの怪しい右大臣は、渡殿をよろよろ歩いていく。

「そちらは暗うございます。せめてお足元を照らす役目を……」
「ええい、いらぬわ! それをよこせ!」
右大臣は、後についてきた家臣から強引に手燭を取り上げると、
「来るな!!」ともう一度念を押して、ずんずんよたよたと釣殿に向かった。

雨が吹き込んで、床板は水浸しだ。
あっという間に右大臣の足はびしょ濡れになり、酔いが醒めていく。
手燭の火も、頼りなげに揺れる。
舌打ちしながら、大きな身体で火を覆うようにして歩くと、
豪奢な装束も雨にさらされてずぶ濡れになる。

「道摩め、命令一つ伝えるのにこんな面倒をかけさせおって……」

右大臣は道摩と密談をした釣殿まで来ると、
雨と闇で全く見えない池に向かって、ゆっくり三回手を拍ち、
耳を澄ませて待った。

と、下の池から雨音とは違う、ぴしゃり!と何かが跳ねる音がする。
「ほうほうほう」と三度呼ぶと、すぐにぴしゃり!と音が返った。

右大臣はこほんと咳払いをして、精一杯厳かな声で言った。
「左大臣は、この儂の手腕で内裏に出仕できなくなった。
だが、やつは復権のために手を打ってくるに違いない。
何としても動きを封じるのだ。
よいか、道長を左大臣の座から引きずり下ろすまでは
決して気を緩めるでないぞ」

池から、ぴしゃり!と音がして、後は雨音が続くばかり。
右大臣は腰を伸ばしてふうっと息を吐いた。

道摩が言っていた通りのやり方をした。
これで命令は伝わるはずだ。
しかし右大臣は、任せきりにするほど道摩を信じてはいない。

「道摩は気紛れな男よ。儂の命でもすぐ動くとは限らぬ。
だが道長めは決断も行動も早い。
これまで幾度出し抜かれてきたことか」

細い手燭の灯りの中で、右大臣はにんまりと笑う。
「ふん……今度ばかりはそれが裏目に出るのだ。
儂の読みが当たっているならば、そろそろ……」

右大臣の思惑に違わず、その居室には小さな箱が届けられていた。



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久々に書く剣対剣の戦いは冷や汗たらたらでしたが、
とにもかくにも
☆祝・闘分☆

アタマの中の映像を文字にするのはボキャ貧にとって難事業ですけれど、
やっぱり動くのは楽しいです。

で、敵からあっさり逃げた頼久さんのモヤッと感は、
次回に晴らしたい!
(ていうか、もう一暴れさせたかった……)


2015.6.16 筆