「件の書状について、
泰明殿から既にお聞き及びのことと思いますが……」
来意を尋ねられた左近衛府少将は、そう前置きした後、
艶やかな笑みを浮かべて、いきなり核心に斬り込んだ。
「まずは、一番疑わしい方のお話を伺いたいと考えた次第です」
まるで、近くまで来たので立ち寄った……とでも言っているような、
さらりとした口ぶりだ。
――なるほど。これが帝の懐刀たる所以か。
心の内で呟きながらも、晴明は顔の筋一つ動かさず、短くぴしりと返した。
「何を話せばよいのか分からぬ」
しかし稀代の陰陽師の強い視線を受けても、
友雅は眼を伏せることも微笑みを消すこともなく答える。
「晴明殿の墨跡を熟知し、模し、さらには
自身の痕跡を消すことができる者を挙げて頂きたいのですが」
そう言うと、友雅は手にした扇を広げた。
「全てに当てはまる者は多くないと思われます。
……あるいは、書状の書き手が誰なのか、
晴明殿には既に心当たりがおありかと」
扇の向こう側から、今度は友雅が晴明を凝視している。
晴明は黙って腕を伸ばし、両の掌を上に向けた。
と、折り畳まれた料紙が宙に現れ、ばさりと広がってその手に乗る。
「…っ! いつの間に!」
友雅がはっとして懐を確かめた。
帝から預かった書状が消えている。
晴明は少し眉を上げた。
「失礼の段は許されよ。
この晴明を疑わしいと言い放ったことと、これであいこじゃ」
そして手にした書状に眼を落とし、隅々まで調べていく。
紙の上に再現されているのは、まるで己自身が書いたような文字。
それらが集まり、邪なる言の葉を形に成している。
だが、泰明の言っていた通り、そこには気が存在していない。
弟子達にも息子達にも教えていない術だが、
泰明ならばやってのけるかもしれない。
しかしこれは練り上げられた完璧な技。
成せるとしたら、それは晴明自身を置いてはただ一人だ。
晴明は顔を上げると、やおら口を開いた。
「少将殿、心して聞かれよ」
友雅は静かに扇を閉じると居住まいを正す。
予期していた以上のことが告げられると察したのだ。
「仁和寺の覚仁殿を呪詛した者と、この書状を書いた者は同じ人物じゃ。
今は僧形となっているが、真の姿は言の葉を操る陰陽師。
名を道摩と言う」
書状と呪詛の件が繋がったばかりでなく、同じ人物が仕掛けたものだったとは。
しかもその名は――。
「道摩……数年前に呪詛の罪で京を追われたという、あの陰陽師ですか」
友雅の顔からは、先ほどまでの笑みが拭ったように消えている。
「京に戻っているならば看過できません。
しかし、彼は市井の陰陽師と聞いています。
晴明殿の墨跡を目にする機会はあったのですか」
――ふむ、冷静な男よ。
友雅の正鵠を射た問いに、晴明は僅かに眼を細めた。
「陰陽道の我が師匠、賀茂忠行殿はご存知か?」
「かつて陰陽頭を務められた方と存じていますが、
……まさか?!」
「そのまさか、じゃ。あやつとは一時期、我が師の元で共に学んでいた。
しかしあやつは師の教えに背き、道を外れて、
己が力を邪な事共に使う、似非陰陽師と成り果てたのじゃ」
書状を丁寧に畳むと、晴明は手ずから友雅に返した。
「少将殿、油断召さるな。
人か式神か定かならぬが、すでに内裏には
あやつめに操られている者がいることであろう」
安倍屋敷を出ると、友雅は空を仰いだ。
どんよりと曇って、今にも雨が降り出しそうだ。
友雅も、書状を見た時から晴明と同じ危惧を抱いている。
帝の書状に触れることのできる者はごく限られるのだ。
――やれやれ……。こちらで一番疑わしいのが左大臣殿か。
だが先の帝、花山院の寺に打ち込まれた矢の件で、
朝廷はしばらく騒がしいことだろう。
人目に立たずに話を聞くのは難しそうだ。
頬に冷たい滴が当たって、友雅は足を速めた。
貴船社で起きた不吉な事件を、友雅はまだ知らない。
桔梗印を弾き飛ばした黒い渦は、ほどなくして消えた。
その後には、えぐられた地面から飛散した黒い土が広く散らばっているだけだ。
辺りは深閑として音もなく、何の気配も無い。
泰明は、注意深く元の場所に戻った。
上を覆っていた土が無くなったことで、
地面の中から焦げた木の株のようなものが露わになっている。
「あれが渦の源……」
泰明はその形を見て取ると、躊躇無く近づいた。
木株は一抱えに余るほど大きい。
元はたいそう大きな木であったのだろう。
焼けた木肌に手を置いても、もう何も起こらない。
黒い渦は穢れた陰の気に満ちていたが、木にその残滓は無い。
「桔梗印が、この木にかけられた呪詛を祓ったか」
湾曲した輪郭に手を滑らせると、わずかな彫跡が泰明の指先に触れる。
間違いない。木株の元の形は、御堂に祀られた立木仏だ。
森の木に仏の形を見出した仏師が、
大地に根付いたままの木を彫り上げたのだろう。
それは不可思議な力を発し、人々の拠り来る木であったはずだ。
しかし今はその力は失われ、地中深く伸びた根から大地の脈動は伝わってこない。
道摩は何のために像に呪詛をかけたのか。
御堂を焼いたのは、仏の像を調べられることを怖れたからなのか。
それとも……目的を果たしたからなのか。
「貴方は何者か」
低く抑えた声が漂い来て、あかねは振り向いた。
「わっ! いきなり何だよ、おっさん」
「!」
イノリと鷹通も驚いて声の主を見る。
気がつけば、すぐ側に僧形の男。
しかし、近づいてくる気配は全く感じられなかった。
男の目は、あかねを射るように見据えている。
まるで、イノリも鷹通もこの場にいないかのようだ。
「あの……私のことでしょうか?」
「いいからお前は下がってろ!」
戸惑うあかねをかばうように、イノリと鷹通がその前に立ちはだかる。
僧侶の形をしているが、この男からは危ういものを感じるのだ。
正体の知れない者を、これ以上あかねに近づけるわけにはいかない。
鷹通が丁寧な口調ながら、きっぱりと言った。
「失礼ながら、法師殿、
人に名を尋ねるならば、まずご自分から名乗るべきではないでしょうか」
「名……真名は真を宿す。
が、貴方に尋ねたのは名ではない」
あかねは首を傾げた。
男の言葉は意味不明だ。
「よく分からないんですけど、何を答えればいいんですか?」
「怪しい坊さんに何も答える必要なんてないぜ!」
イノリが袖をまくった。
法師の目がきゅっと細くなる。
「離……乾……退け」
「うっ……」
「ぐっ……」
イノリと鷹通の身体が見えない力に弾かれたように揺らいだ。
「だ、大丈夫!?」
倒れそうになった二人の袖を、あかねが慌ててぎゅっと掴む。
その瞬間白い光が閃き、男は胸を押さえた。
後ずさりながら、男は低い声でつぶやく。
「貴方は、異なる者か」
「それって、どういう……」
しかし、あかねの言葉が終わらぬうちに、法師の姿はかき消えた。
貴船社に黒馬が奉納された、との報に、急遽朝議が開かれている。
右大臣が、ここぞとばかりに声を張り上げた。
「この失態は如何に!!」
その言葉は左大臣に向けられたものだ。
日頃の鬱憤を晴らすかのように、右大臣はさらに大声でまくし立てる。
「貴船社への奉納は重要な神事ですぞ。
白馬と黒馬を違えては、神の怒りに触れ凶事を招くことは必定。
神が願いを聞き届け賜うたとしても、それもまた凶事となる。
雨がさらに激しく降り続くことになれば、この京はどうなるのか。
ええい、もはや失態という言葉では足りぬ!!」
居並ぶ貴族達は、ある者は居心地悪そうに視線をさまよわせ、ある者は怯え、
またある者は皮肉な目で、黙したままの左大臣と右大臣を見比べた。
帝は一言も発することなく、御簾の内に座している。
書状に書かれていた言葉を、いやが上にも思わずにいられない。
まるで、この事件を予見したかのような文言があったのだ。
――水の社に禍つ事あり。
そしてもう一つ。
――凶事は土御門が呼びしものなり。
あれは、讒言ではなかったのか。
やがて起こる事共のかねごとであったのか。
御簾越しに外が暗くなっていくのが見え、やがて雨が音を立てて降り出した。
余があの書状を手元に納めていたことは間違いだったのだろうか。
そして、あそこに書かれたことが真であるなら………。
帝の眼は、雨空よりも沈鬱で暗い。
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2014.11.22 筆