雨中の密議が続いている。
僧形の男にあれこれと命じた後も、右大臣は話を終えようとしないのだ。
圧倒的な己の優位を眼前の男に誇示しようと、
そればかりに躍起になっている。
「よいか、決して人に知られてはならぬ。
いつぞやのように、迂闊なことはするでないぞ」
右大臣は、ここぞとばかりに語気を強めた。
相対する男は、右大臣に視線を据えたまま、
口の端を笑いのような形に持ち上げている。
否……男が見ているのは、右大臣の発した言の葉が、
澱のように凝っては、右大臣自身に纏わり付いていく様子だ。
男の沈黙を、畏れからくる服従ゆえのものと確信した右大臣は、
さらに一押しとばかりに言葉を続ける。
「本来ならば、二度目はないのじゃ。
我が温情をしかと心に刻め………」
その時、男の肩がひくりと動き、口の端が僅かに歪んだ。
――吾の呪詛が……祓われた。
男は何かを探すように、視線を雨の彼方に向ける。
祓われた呪詛は、仕掛けた者に返るもの。
僧形の男の肺腑が、熱塊を呑み込んだように熱く泡立つ。
――呪詛を祓ったのは晴明か。
……いや違う。
晴明なれば………。
「ええい、脇見などして、話を聞いておるのか!」
男の異変に気づかぬ右大臣が、苛立たしげな声を上げた。
男は右大臣に顔を向けると、細長い指を立て、横一文字に動かした。
その瞬間、右大臣の口はぴたりと閉ざされ、
叱声はくぐもった呻き声に変わる。
「話の要は解した。汝は待てばよい」
それだけ言うと、僧形の男は現れた時と同じように朧な影となり、
雨中に滲んで消えた。
「…………!! ………ふざけおって!!」
男が消えるのと同時に、右大臣の口が再び開く。
そこへ、どやどやと家人達がやって来た。
先ほどからどうやっても、釣殿に近づくことができなかったのだ。
「大事ありませぬか!?」
「お怒りの声が聞こえましたが、何者かいたのでしょうか」
主を案じる家人達を、右大臣はぎろりと睨んだ。
続いて、怒りの矛先が彼らに向けられたことは、言うまでもない。
久方ぶりに静けさを取り戻した仁和寺では、
常の勤めに戻った僧達が、一心に行に励んでいた。
彼らの顔には、隠しきれない喜びと安堵の色がある。
皆がこぞって口にするのは、永泉への賞賛の言葉だ。
「覚仁様をお救いしたのは、永泉様に他ならぬ……」
「安倍の陰陽師が来た時には、どうなることかと思いましたが……」
「永泉様は、あの怖ろしげな仏頂面にも動じなかった。拙僧も心を強く持たねば……」
「あの陰陽師、腕は確かでございました。永泉様の知己であるとか……」
「そういえば、摂津の寺でも……」
「いつもは控えめでいらっしゃるが、大事に当たってこれほど頼りになるとは……」
彼らがそう思うのも当然だろう。
永泉は、手の施しようがないと思われた病の正体を呪詛であると見破ったばかりでなく、
陰陽師に祓わせてはどうか……と、大胆にも貫主に進言し、
自らその陰陽師を呼び寄せたのだ。
結果、祓えは功を奏し、覚仁は重篤な状態を脱して今は快方へと向かいつつある。
とはいえ永泉自身は周囲の反応に戸惑っている。
貫主に呼ばれ、労いと感謝の言葉をかけられても、
「い、いいえ……貫主様のご英断がなければ……その……
あの……私は何も……泰明殿のおかげで……」
と、口ごもるばかり。
いつも通りの永泉の様子に苦笑した貫主は、すぐに真顔になった。
永泉には、もう一働きしてもらいたいのだ。
「摂津での法会に関わる事共は、まだ終わっておらぬ。
それを忘れてはおるまいな、永泉」
その言葉に永泉は居住まいを正し、恭しく目を伏せて答えた。
「はい。摂津からの献上品のことは、心にかかっておりました。
随伴してこられた方々にとっては、なおさらのことかと……」
献上品とは、摂津の寺から宮中へと贈られたものだ。
此度の法会に際し、宮中から届けられた品々へのお礼だ。
宮中に上がるということで、寺からは高位の僧侶が同行している。
「うむ。本来ならば、もう帰途についておられるはずの時期。
我が寺の事情で、ほんに長らくお待たせしてしまった。
すぐに準備にかかり、できるだけ早く内裏にお届けしよう。
じゃが、役に当たるべき覚仁は、本復にはまだ間がある。
そこでじゃ永泉、代わりを務めてはもらえぬか」
突然の貫主の申し出に、永泉はぎくりとして身を縮めた。
「貫主様……あの、私にはそのような大役など……」
「己を卑下するでないぞ、永泉。
謙譲も過ぎれば、成せることも成せなくなる」
「ど、どうか……お許し下さい」
永泉は肩を震わせて両手をつき、頭を垂れた。
「その……覚仁様が快方に向かったとたん、
身体中から力が抜けてしまい……。
自分でも情けないのですが……足元がふらついている有様。
内裏で粗相をしては、かえって皆様のご迷惑になるかと……」
それほどに気を張っていたのかと、貫主は改めて永泉を見た。
――此度の働きぶりを鑑みれば、無理からぬことやもしれぬ。
永泉がうつむいて目を伏せたままなのは、
ひどく疲れているためだろうと考えた貫主は、
内裏へは別の僧侶を遣わすことに決め、永泉を下がらせた。
安倍屋敷に戻るなり、泰明は晴明のもとに直行した。
「尋ねたいことがある、お師匠」
唐突に切り出した泰明に、晴明は黙って頷く。
仁和寺での経緯、さらには帝に届いたという書状――
泰明の話が進むにつれ、晴明の表情は厳しさを増していった。
「呪詛の件は陰陽師の仕業だ。
言の葉を操る呪詛の使い手に、心当たりはあるか、お師匠」
「……ある」
短く答えた後、晴明は目を閉じ、口をつぐんでしまう。
夜の庭から、芳しい花の香が流れ来た。
微風が吹き、燈台の火が僅かに揺れる。
長い沈黙の末、晴明は目を上げて泰明を見た。
泰明は先ほどと同じ姿勢のまま、微動だにしていない。
「道摩法師……言の葉を操る者じゃ。
その呪詛は、あやつにしかできぬ。
書状の件も、無関係ではあるまい」
「法師?」
泰明は首を傾げた。
「陰陽師ではないのか」
「僧形になった時に名を変えておる。
以前の名は道満。泰明も聞いたことがあろう」
「道満……兄弟子達が話していたのを聞いた。
左大臣に呪詛を仕掛けたが、お師匠に見破られて京から姿を消した……と」
「端から見た者が知るのはそこまでか。
見破ったとは、何とも甘い言い方よ」
「甘い、とはどういう意味だ、お師匠?」
「あやつが幾重にも仕掛けた呪詛を、一度に全て返したのじゃ」
泰明は大きく眼を見開いた。
「お師匠の呪詛返しを受けて、道摩は無事だったのか」
「一時は酷い有様になったが、命は長らえた。
しかし、左大臣への呪詛を依頼した者は、とうとう分からなかった。
あやつが沈黙を守り通したからじゃ。
そして、あやつは京から永久に放逐された」
「放逐? それでは野放しも同然だ」
「そうじゃ。だがそれが、お上からの命令だった。
ゆえに、あの時許されたのは、あやつに警告することのみ。
『再び呪詛を仕掛けることあらば、お前の心の臓を目がけて返す』とな」
そう言って、晴明は小さく首を振った。
「だが、あやつは昔から聞く耳など持ってはいなかった」
晴明の声は苦い。
しかし、泰明は既に次のことを考えている。
すぐに道摩を探し出さなければならない。
そのためには――
「お師匠、道摩のことをもっと教えてほしい」
――相変わらず、無駄のない考えをする。
厳しい晴明の顔に、かすかな微笑みの色が浮かび、すぐに消えた。
晴明は、両の手をぱん!と打ち合わせた。
と、部屋の外に式神が現れる。
晴明は朗々とした声で命じた。
「高位の弟子を全て呼び集めよ。
家に戻っている者、陰陽寮に残っている者も呼び戻すのじゃ」
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2014.02.11 筆