右大臣藤原顕光は極めて不機嫌だ。
牛車が自邸の堀川第に着いてからも、むすりとした渋面を隠そうともしない。
「如何なさいました」と問う家人達を「ええい、うるさいわ!」と怒鳴りつけ、
右大臣は足音も荒く奥へと進む。
こんなやり取りに慣れている家人達は、すぐに心得顔で引き下がり、
「今回も原因は左大臣殿であろうよ」などと声を潜めて話をするが、
己の背後で飛び交う言葉に、右大臣は全く気づいていない。
雨が降り出している。
右大臣は、しかめた顔のまま低く唸り、
「また雨か。うんざりじゃ」と独りごちて、その足を釣殿に向けた。
広々とした池でも眺めれば、少しは気分も晴れるだろう。
雨降りでも、薄暗い屋内に閉じこもるよりはましだ。
右大臣の不機嫌の元は、家人達の察する通りであった。
今日の朝議で左大臣の揚げ足を取ろうとして、逆にやり込められたのだ。
つい先日も同じようなことがあり、一矢報いる機会を窺っていたのだが、
結果は狙いとは逆に、左大臣との器の違いを皆に知らしめることになっただけだった。
その一部始終を思い出し、右大臣はぎりっと歯がみした。
「道長め……ほんに目障りなのじゃ。あやつさえ……」
「いなければ……か」
「ひぃっ……!」
突然背後から漂い来た言葉に、右大臣は凍り付いた。
しかし、おそるおそる振り向いてみると、長い透渡の廊には誰もいない。
「こちらだ」
今度は、釣殿から声がした。
目を凝らすと、雨の中から滲み出るように人の形が現れる。
右大臣の心の臓がドクン!と鳴った。
人の形が薄く定まらぬ内から、その正体が分かったからだ。
「変わらぬな、アキミツ」
朧な人影から発せられたというのに、腹の底にずしんと響く声。
相手を殿上人と知った上での傲岸不遜な言葉。
苦々しい記憶が蘇る。
あれは右大臣に序せられる直前のことだ。
まだたった五年しか経っていない。
いや……違う!
右大臣は気を取り直した。この座に登って、もう五年が経ったのだ。
このような者に対して動じることなどあってはならぬ。
大きく息を吸うと、威厳をこめて男を一喝する。
「身分のほどもわきまえぬ無礼者めが!」
しかし、返ってきたのは無遠慮な笑い声だけだった。
「ええい、この右大臣の言葉が聞こえぬか! すぐに消え失せよ!」
笑いが止み、朧な影は僧形の男へと変じた。
鋭い光を放つ双眸が、右大臣をひたと見据えている。
「ならば警護の武士を呼べ。さすれば、吾は去ぬ」
「ぐ…………」
右大臣は気圧されるように二、三歩下がったが、
そこで踏みとどまり、仁王立ちして男をにらみ返した。
忘れもせぬぞ。かつてこやつのおかげで、
煮え湯を呑まされるところだったのだ。
即刻捕らえさせるか。
………だが、あの時のことを洗いざらい話されたらまずい。
ではこのまま放逐するか。
しかし、それもまた難しい。
堀川第の侵入者が咎めも無しに放免されたなどと知れたら……。
右大臣はめまぐるしく頭を働かせている。
そもそも、こやつはなぜここに来たのだ。
だがこれは好機かもしれぬぞ。
今度こそ、この男をうまく使えば……。
僧形の男は右大臣の考えを見透かしたかのように目を細めた。
「座れ、アキミツ」
雨脚が強くなり、釣殿は雨のただ中に浮かぶ小島になった。
庭も池も渡殿の先の母屋も見えない。
「
「うむ……」
こうして右大臣は、危うい一歩を踏み出した。
主の身を案じた数名の家人が、釣殿に向かって駆けてきたが、
男と右大臣の言葉は雨音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
雨中に閉ざされた門の中が騒がしい。
常は静寂に包まれている仁和寺には珍しいことだ。
「永泉様にお目にかかるために来たのだが……」
南大門の前に立つ門番に、友雅が来意を告げると、
しばし待たされた後、大門の傍らの木戸が開き、
若い修行僧が迎えに出てきた。
寺で何かあったのかと尋ねたが、
修行僧が知っていたのは、「安倍の陰陽師」が来ていること、
その陰陽師が、「覚仁様」の呪詛を祓ったということだけだった。
全て別の僧侶からの聞き伝えで……と
修行僧は申し訳なさそうに付け加えたが、
若い僧が多くを知らないのは当然だ。
陰陽師が誰なのかは想像に難くない。
そして覚仁の名は友雅も知っている。
先の帝の血筋に連なる方で、
老齢の現仁和寺貫主を継ぐにふさわしいと目されている。
その方が呪詛されるとは穏やかではない。
帝に届いた書状のことが、胸をよぎる。
長い回廊を歩き、案内された僧房では、泰明と永泉が相対していた。
外は雨が降りしきり、薄暗い室内にも冷んやりとした水気が満ちているようだ。
「永泉様、御室の寺が大変な時に来てしまい、申し訳ありません」
友雅が殊勝な面持ちで永泉に詫びた。
門番に告げた来訪の目的は、
近々開かれる歌合わせへの出席を永泉に請うため――というものだ。
嘘ではない。実際に、そのような話はある。ただ、急ぎではないというだけで。
隣から泰明の視線を感じるが、それには気づかないふりをする。
「いいえ、どうかお気になさらずに、友雅殿。
それどころか、私のような者のために雨の中をここまで来て頂いて、
本当に嬉しく思っているのです」
永泉は慎ましやかな笑顔で友雅に答えた。
――いつもと変わらぬ、永泉様だ。
だが、ご心労が重なったためだろう、少しおやつれになったようだ。
摂津への長旅を終えるやいなや、この騒ぎでは無理もないが……。
泰明の素っ気ない声が、友雅の心の内の呟きを断ち切った。
「友雅、歌合わせとやらの話は後だ。
聞いていると思うが、ここの高僧が呪詛されたのだ。
すでにそれは祓ったが、永泉にいろいろ尋ねたいことがある」
「私も同席してもかまわないかな。
帝の血筋の方への呪詛とは、左近衛府少将としても聞き捨てならなくてね」
「問題ない」「もちろんです」
泰明と永泉は同時に答えた。
泰明は前置きもなく質問を始める。
「永泉が呪詛に気づいたのはいつだ」
「あ、あの、気づいたというか……あれが呪詛と確信したわけではないのですが、
覚仁様から呪詛の石と似たような気配を感じたものですから。
けれど、その……せっかく泰明殿に来て頂いたというのに、
寺の者達が失礼をしたのではないかと……申し訳ありません」
「話をそらすな。
あの僧は、いつから不調になった」
「それは、私達が帰京してすぐのことでした………」
覚仁は仁和寺の総代として、摂津の大寺院で行われた法会に出かけ、
寺からは少なからぬ人数が供をした。
永泉は、覚仁に次ぐ立場の僧として同道したという。
しかし、無事に仁和寺に帰着した早々、
覚仁は原因不明の奇怪な病に冒されてしまった。
薬石も行法も効かず、僧侶達は途方に暮れるばかり。
その時、苦しむ覚仁から呪詛の気配を感じた永泉が、
安倍家の陰陽師を呼ぶようにと、貫主に願い出たのだ。
「ということは、覚仁様はおそらく……」
友雅の言葉を、泰明が続けた。
「摂津への旅で呪詛を受けたと考えられる。
永泉、法会の間に異変は感じたか」
「異変……と申しますと、どのような……?」
「つまり何もなかったということか」
「え……私はまだ何もお答えしては……」
「では、帰途に何かなかったか」
「あ、あの……」
矢継ぎ早の質問に焦る永泉に、友雅が助け船を出す。
「永泉様が何もお感じにならなかったのなら、異変はないと言うことです。
泰明殿は永泉様の感覚を信じている、そうだね、泰明殿?」
「そうだ」
「あ、ありがとうございます」
永泉は心を落ち着けて眼を閉じ、帰り道の出来事を胸の中で辿った。
――そういえば、一つだけ、ある。
あの時の、異様な寒気は……。
「思い当たることがあるようだな」
永泉は頷いた。
「事の前後を詳しく話せ」
「はい……。思い出せる限りのことをお話しいたします。
あれは、摂津の森を抜ける途中でのことでした。
私は覚仁様と並んで歩いていたのですが、
急に霧が深くなり、気づいてみれば供の方達とはぐれて
見知らぬ細道に迷い込んでおりました」
思い切り声を上げて呼んでみたが返事はなく、
霧が薄らぐのを待って、永泉と覚仁は来た道を戻ろうとした。
しかし、視界が少し開けたと喜んだとたん、
折悪しく激しい雨が降り出してしまった。
おろおろするばかりの二人の前に、土砂降りの雨の中から一人の法師が現れた。
『迷い人の声が聞こえた。来られよ。近くに御堂がある』
「私達は、その御堂で雨の止むのを待ち、
すぐに皆の元に戻りました。
法師殿が、帰りの道も教えて下さいましたので……」
そこまで話すと、永泉はぶるっと身震いをした。
「助けて下さった方を疑うようで心苦しいのですが……
御堂の中から、法師殿が別れの言葉を仰ったその時、
私は理由もない寒さに襲われたのです」
泰明の眼が光った。
「その法師は何と言った」
「それが、その…途中までしか聞こえなかったのです。
私が聞いたのは確か、『つつがなき旅を。御室の……』と」
「そこで、異様な寒さを感じたのだな」
「はい」
「そうか……」
それだけ言うと、泰明は口を閉ざしてしまった。
次の言葉を待っても仕方がないと判断した友雅が、泰明を促す。
「泰明殿、これだけで何か分かったようだが」
「分かった。だが当然、全てが分かったわけではない。
お師匠に聞かなければならぬことがある」
「あの………泰明殿、分かったこととは」
「永泉様は当事者だよ。
今、分かっていることだけでも教えて差し上げるべきではないかな」
泰明は顔を上げ、永泉を凝視した。
「真を知りたいか、永泉」
「はい」
永泉はきっぱりと頷く。
「では、言おう。
あれは、言の葉に乗せた呪詛だ。
だから、永泉も呪詛を受けていたはず。
しかし永泉の霊力は極めて高い。それゆえ、事なきを得たのだ」
「そ……そんな………」
永泉は絶句した。
「永泉様も狙われたというのか……。
何ということだ。その法師をすぐに探し出さねば」
真顔になった友雅が、はっとして泰明を見る。
「泰明殿、もしかして晴明殿ならば
その法師の正体を知っているかもしれないと?」
泰明は頷いた。
「お師匠ならば、強い力を持つ陰陽師は全て知っている」
「つまり、その法師は……陰陽師」
「そうだ。僧形は偽りの姿。
そして、その陰陽師は、言の葉に強力な呪詛を乗せて人を呪う術を知り、
初めて会った者に、死に至る呪詛を仕掛ける者だ」
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2013.10.14 筆