「泰明殿、上です! あそこに音の源が……!」
庭を見回した永泉は、空中の一点を示した。
四方八方から鳴り響く鐘の音のうねりの中から、
永泉は音の生じる瞬間を聞き取り、
全て同じ場所から発していることに気づいたのだ。
永泉の指した場所には、雨と闇に隠れて小さな凝りがある。
「よく……やった、永泉」
泰明は足を踏みしめ、呪符を投げた。
一直線に飛んだ呪符は、凝りに当たって激しく燃え上がる。
「チチチ……」
燃える炎に包まれて小さな虫のようなものが蠢き、黒い炎と共に滅した。
「あ、あの虫が音を操っていたのでしょうか…?」
「泰明さん、あそこに見えるのは糸ですか?」
空中に張り巡らされた細い糸が、呪符の炎に照らし出されている。
それはまるで蜘蛛の巣のように、虫の居場所を中心に四方に伸びていた。
鐘の音は糸を伝い、歪んだ響きを発していたのだ。
しかし虫の消滅と同時に糸はふつふつと切れ、鐘の音も小さくなっていく。
そして耳を聾する音が途絶えると、間断無い雨音が周囲に満ちた。
あかねと永泉は安堵の息を吐く。
「ああ、泰明殿……静けさが戻って参りました」
「泰明さん、永泉さん、部屋に戻りましょう」
しかし泰明は夜闇を見つめたまま動こうとしない。
――まだだ……。
蟇蛙も鐘も目くらまし。
だとすれば………鐘の音の消滅は、終わりではない。
本当の戦いの始まりだ。
泰明は印を結び、静けさを取り戻したかに見える庭に対峙した。
「道摩……隠れても無駄だ!」
刹那、壁のように巨大な漆黒の渦が襲い来た。
ばりばりと音を立てて屋根庇が砕け飛び、
渦に弾かれた雨粒が大量に降り注ぐ。
ほぼ同時に、泰明はその渦の中心に向かい全力で桔梗印を放っていた。
渦は力を失い、泰明の眼前で消える。
微かな風が余波となって、そよりと通り過ぎた。
「泰明さん!」
「泰明殿!」
「来るな! ここから離れていろ!」
駆け寄ろうとするあかねと永泉に、泰明は声を振り絞って叫んだ。
渾身の術を放ったことで、残っていた力を消耗してしまった。
全身が痺れ、声を出すことすら辛い。
この異変はおそらく……。
泰明はその理由に思い当たっていた。
蟇蛙と鐘の音を操る虫……目くらましに潜ませた狡猾な罠に。
敵は道摩と、そして時間だ。
身体が動く内に道摩に勝たねばならない。
どこに潜んでいる、道摩!
その時
「……吾はここだ」
背後から、とらえどころのない声が漂い来た。
あかねと永泉はびくりとして振り返る。
「また会うたな。法親王、
そして貴方は『神子』であったか」
永泉が摂津の森で遭遇し、市であかねの前に現れた男が、
部屋の暗がりの中、影となってそこにいる。
泰明は力を振り絞り、やっと道摩に向き直った。
炯々と光る目が、泰明を見据えている。
「ヤスアキ、瘴毒を浴びながら汝はまだ倒れぬ。
セイメイは面白き傀儡を作ったものだ」
怖ろしさを忘れ、あかねは思わず一歩進み出た。
「泰明さんのことを傀儡なんて、ひどい!」
(神子……止めろ……)
永泉は震え声で言った。
「なぜあなたは覚仁様にあのような怖ろしいことを」
(後で問え。今は神子を……連れて…逃げろ、永…泉)
精一杯声を張り上げるが、泰明の言葉は微かな音にしかならない。
道摩は口の端を上げ、目を細めた。
「ヤスアキ…汝が滅した式神は瘴毒と化し、雨気に満ち、汝の中に満ちた。
汝は隣を通った吾に気づかず、もう声も出ぬ」
――渦を消した時に、僅かに風を感じた。
あれがそうだったのか?
気づけなかったのは私が毒に冒されたためか?
「セイメイの気を継ぐモノよ。滅するがいい」
道摩は長い指を立て、掌を泰明に向けた。
その手に黒い渦が沸き上がる。
「泰明さん!!」
あかねが泰明に飛びつき、勢いで二人はその場に倒れた。
「危ない!!」
永泉が二人と道摩との間に割って入る。
漆黒の渦を浴び、永泉は庭まで吹き飛んだ。
「永泉さん!!」
あかねが叫ぶが、庭から返事はない。
背後から近づく足音に、あかねは泰明をぎゅっと抱きしめた。
(神子………)
触れ合った身体から、かすかに泰明の声があかねの耳に伝わる。
「泰明…さん?」
薄れ行く視界の中、泰明はあかねの肩越しに道摩を見た。
その顔には、薄ら寒い笑みがある。
「今日は佳き日よ。
吾が思いが一つならず叶うとは」
泰明は僅かに残った力であかねの手を握った。
(よく聞け……神子……)
ほどなくして、泰明の灯していた灯りがふっと消えた。
後には闇と雨ばかり――。
「急の病じゃ! 参内などできぬ!!」
右大臣は御帳台の中で衣を被ったまま宣言した。
朝の身支度すら調えず、断じて動かない構えだ。
屋敷の者達は心配顔で引き下がり、内裏に使いを出した。
左大臣殿に取って代わる大事な時であるのに、急の病とは間が悪い。
昨夜はあんなに上機嫌であられたのに、
突然どうされたのだろう。
一方、右大臣は衣の下で歯噛みをしていた。
今度こそ左大臣を出し抜いたと思っていたのが、またもや一歩先んじられ、
その計略にまんまと嵌ってしまったのだから。
土御門の武士から奪った晴明の箱は、
左大臣の動きを知ろうと躍起になっているのが何者であるか、
それをあぶり出すための罠だった。
両頬にべったりとついた忌々しい赤丸は、
一晩かけてあれこれ試しても消せなかった。
このような顔で内裏に行くことはできない。
たちどころに嘲笑の的となり、噂や憶測が飛び交うだろう。
それだけではない……。
右大臣はぶるっと身震いした。
よくよく思えば、無頼の輩を使ったのはまずいやり方だった。
手段を選ばず荒事に出るからには、それなりの理由があるはずと、
どんな愚か者でも考えるだろう。
そして口惜しいことに、左大臣は極めて頭のよい男だ。
せっかく道摩に命じて動きを封じたというのに…………。
む……!? 道摩………。
そこで右大臣は思わず声を上げた。
そうじゃ! 道摩がいるではないか!
あやつに晴明の術を解かせればよいのだ。
しかしがばっと跳ね起きた右大臣は、
主が病と信じて側近くに控えていた者達の視線を浴びた。
「祈祷師を呼びましたのでしばしのご辛抱を」
「薬師も間もなくやって参ります」
「おや? お顔の色が……」
「ええい! 人の顔をじろじろと見るでない!
とにかく儂は誰にも会わぬ! 会わぬぞ!!!」
慌ててまた衣をひっかぶり、右大臣は怒鳴った。
人払いしても、屋敷の者達は目を離してくれないだろう。
道摩を呼び寄せるにはどうしたらよいものか……。
この顔を見ているのは唯一、無頼の武士を手配した腹心の家人だけだ。
彼ならば、道摩との繋ぎを果たせるやもしれなかった。
だが、秘密を漏らされることを怖れるあまり、固く口止めした上、
昨夜の内に遠国の荘園へと出立させてしまったのだ。
進退窮まった右大臣はうんうんと唸るばかりだ。
雨の上がった夜明けの空に、真っ白な鷺が飛び立った。
力強く羽ばたくその眼下には大内裏。
勤めに向かう貴族が行き交っている。
しかし都大路を下るにしたがい、人影はまばらになっていく。
やがて白鷺は東の市まで来ると、ふわりと立木に舞い降りた。
昨日には市が立ち、賑わっていた道も、
今朝は一人二人と街人が通り過ぎるばかりだ。
元より白鷺に目をくれる者はいない。
白鷺はほっそりした首を巡らせて周囲を見回した。
道の端には、崩れた祠がある。
祀られていた小さな神が消えて久しいのだろう。
小鬼共が怖れ気もなく辺りを徘徊している。
その時、羽音もたてずに黒い鷺が祠の残骸に降り立った。
炯々と光る赤い目が、白鷺を見る。
『セイメイか…』
『やはり道摩…!』
白鷺と黒鷺は微動だにせず互いを凝視した。
刹那、立木と祠の残骸が同時に吹き飛んだ。
通りかかった商人が泥道に尻餅をつく。
二羽の鷺は上空高く舞い上がった。
しかし白鷺の飛び方がぎこちない。
翼が傷ついているのだ。
商人を攻撃の余波から守ったためだ。
『無様。愚かさの報いよ』
黒鷺の放った気が、刃となって白鷺を襲う。
『効かぬ』
刃は反転して黒鷺に向かった。
が、刃は寸前で空に呑まれて消え、その間隙から黒鷺が飛びかかる。
予期していた白鷺はふわりと身をかわして黒鷺の後を取った。
白鷺の細く鋭い鉤爪が黒鷺の背に食い込む。
黒鷺は嘴を震わせて、嗤い声のような音を発した。
『今日は佳き日よ』
次の瞬間黒鷺は消え、白鷺の爪は黒い札を掴んでいた。
札は炎も出さずにちりちりと焦げていき、灰も残さず滅した。
一条戻り橋の館で、晴明はゆっくりと印を解いた。
昨日、東の市に道摩がいたと泰明から報せが届き、
もしや……と思ったのだった。
晴明の予感は的中し、今日もまた道摩は現れた。
何かが繋がりそうで、繋がらない。
そして「佳き日」とは何か。
不吉な胸騒ぎに、晴明は眉をひそめた。
その時、高弟が慌ただしく入ってきた。
ただならぬ様子で差し出された書状は土御門からのものだ。
それに目を走らせた晴明の顔色が変わる。
ほどなくして、高弟三名を従えて晴明は館を出立した。
――今日は佳き日よ。
道摩の言葉はこのことであったか。
だが、これだけではなかったのだ。
その頃、内裏では件の書状が見つかり、大きな騒ぎが起きていた。
友雅は怪しい貴族を一人で追っていた。
そして泰明の家で起きたことを、晴明はまだ知らない。
土御門―――
先ほどまでとは打って変わって、水面は波一つ無く平らかだ。
しかし頼久は剣を構え、水の動きに気を集中している。
いつ破れるとも知れない静けさ。
屋敷はびりびりとした緊張感に包まれている。
その中で最も落ち着いているのは他でもない、
水に閉じ込められた左大臣自身だ。
「安倍に早馬を送りました」
屋敷の者が報告すると、左大臣は御帳台の内から奇妙な命令を出した。
「内裏にも人をやるのじゃ。
本日の朝議を休んだ者の名を調べて参れ」
ご自身は出られぬのに、なぜそのようなことを?
屋敷の者はいぶかしく思いながらも、すぐに使いを手配した。
「では儂はもう一眠りしよう」
「お、おそれながら、このような時にお眠りになるなど……」
「このような時だから朝寝ができるのじゃ。
頼久、見張りは頼んだぞ」
「はっ!」
左大臣はごろりと寝転んだ。
打つ手は打った。後は腹をくくって待つだけだ。
水底の化け物がこちらを襲う機会は、これまでに何度もあった。
誰にも気づかれず、命を取ることもできたのだ。
だが結局は家人を追い払ったのみで、
今も頼久と睨み合ったまま動こうとしない。
察するに、こちらの動きを封じるのが目的のようだ。
ふいに化け物の気が変わらぬとも限らないが、
その時こそ頼久の出番だ。
晴明殿もいずれ来る。
――昨夜なかなか寝付かれなかった分、
ゆるりと眠らせてもらうとするか。
左大臣は目を閉じると、気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
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2016.2.8 筆