「何ですと!? 法親王様が行方知れず?」
永泉への呼び出し状を携えて仁和寺へとやって来た使いは、
思いもかけぬできごとに驚愕した。
「いつからいないのか、理由は何か。
姿を消す前に、それと覚しき挙動はなかったのか」
矢継ぎ早に質問をするが、僧侶達の答えは要領を得ない。
もしや法親王を匿っているのでは、と一度は疑った使者だが、
僧侶達は大変に戸惑っており、隠し立てしている様子はない。
何しろ、彼がここに到着した時にはすでに
寺は上を下への大騒ぎになっていたのだから。
使いの者はううむと唸ってしばし考え、
法親王が戻ったなら手渡すようにと、書状を寺へ預けることにした。
ここは代々帝に縁ある貫主を戴く格式高い寺だ。
書状をおろそかにすることはあるまい。
「あのう、永泉様を呼び出されるとは、内裏で何かあったのでしょうか」
「手がかりがありますならお教えいただけますか」
今度は僧侶達が使者を取り巻き、口々に問いかけ始める。
「知らぬ存ぜぬ……存ぜぬ知らぬ……」
僧侶の輪からやっと逃れ出ると、使者は馬を飛ばして内裏へと戻っていった。
頬に赤い丸印をつけた右大臣は、慎重に人払いをして釣殿に出た。
先日、雨の中でやったように、今度も道摩へ命令を伝えるためだ。
その時と同じように三回手を拍ち、しばしの間待つと、
期待通り、下の池で何かがびしゃりと跳ねた。
左大臣の顔に安堵の色が浮かぶ。
此度も命令は通じるようだ。
「ほうほうほう」と三度呼びかけると、
右大臣の真下で再びびしゃりと音がする。
右大臣は舌で唇を湿して池に身を乗り出し、
屋敷の者の耳に届かぬよう、声を潜めた。
「晴明めが儂に忌まわしい術をかけおった。
一刻も早く堀川第に来てこれを解くのじゃ。
だが、誰にも見られることなく来るのだぞ。
無論、屋敷の者にも、他の何人にもじゃ」
一気に言い終えた時、何かが池から飛び出し大きく跳ねた。
「ひ……」
音の主の姿を見て右大臣は悲鳴を上げかけ、慌ててそれを呑み込む。
跳ねているのは魚とばかり思っていたが、あれは……何だ。
魚の形ではあったが、目がぎょろりと大きく、
ばっくりと裂けたような口には、鋭い歯が並んでいた。
それは水中に戻ると、目だけを出して右大臣を見ている。
まるで、こちらを値踏みしているかのように。
ぞくっと寒気がして、右大臣は身震いした。
道摩……早くあやつとは手を切らねば。
この顔を元に戻させたなら……。
いやいや、先日命じた左大臣の件がある。
その首尾を聞いてからじゃ。
ううう……忌々しい。
内裏で騒ぎを起こしていなければまだ使ってやったものを。
右大臣は水面から目を背け、急ぎ足で釣殿を離れた。
――――その前夜
泰明をかばって道摩の攻撃を受け、庭に弾き飛ばされた永泉は、
息苦しさに意識を取り戻した。
眼前に、炯々と光る目がある。
背後は雨夜の深い闇。
周囲を見回そうとするが首が動かない。
襟元を捻り上げられているのだ。
道摩の目が永泉を見据えている。
「法親王よ。汝は傀儡の盾にも足らぬ。
己が身を投げ出しても何も変わらぬ」
心を圧する強い声が、永泉の胸を貫いた。
その痛みに身がすくむ。
――まさか泰明殿が……!
では神子は……!?
泰明とあかねの危機に臨んで自分には何もできない。
否定できぬ事実が突きつけられている。
「自らも守れぬ身で他を案ずるは愚の極み」
永泉の心を見透かしたかのように、道摩は口の端を歪めた。
ふっと首を締め付ける力が抜け、永泉は泥土に投げ出された。
「無力、無様」
道摩は永泉を見下ろして嗤う。
その時、凛とした声が割って入った。
「永泉さんを侮辱しないで!」
神子!!
声のした方を見るが、闇の底にぼんやりとした光があるばかりだ。
だが、確かに人が激しく動く気配がある。
「キシ……キシ……」
「むぐっっ……放し……むぐぅ」
神子……。
何者かに取り押さえられながらも私を……。
永泉はぎゅっと唇を引き結んだ。
心の底にふつふつと熱いものが沸き上がる。
――神子は悪しき者に怯んでいないのに、
私は不甲斐なくも、道摩の力に怯えていた。
ありがとうございます、神子。
あなたはいつも私に勇気を下さる。
術を放とうと、指先を永泉に向けた道摩は、
永泉から怖れの気持ちが消えたことに気づいた。
見下ろされた者から見下ろす者へ、雨音をついて真っ直ぐな声が立ち上る。
「神子を放し、すぐに去って下さい」
敗者らしからぬその言の葉に、道摩の顔が歪んだ。
禍々しい気が指先に収斂していく。
「永せ…んぐ…!んぐっ!」
「そして約束して頂きたいのです。
神子も泰明殿もこれ以上傷つけないと」
紫電が迸り、道摩の術が放たれた。
それはぎりぎりで永泉の顔を掠め、深くえぐられた泥土が飛散する。
「永泉さん……!!!」
あかねの悲鳴。
高々と上がった泥が雨のように降り注ぎ、永泉と道摩をうつ。
泥の雨を浴びながら、道摩は己が袈裟の袖をびりりと裂いた。
「泥の中に倒れてなお吾に命を下すエイセン。
知るがいい。汝は土塊と変わらぬ。
汝の声を聞く者はなく、汝を見る者もいない」
「……!!」
遠くで、あかねの声が聞こえたような気がした。
永泉が覚えているのは、そこまでだった。
夜明け前だ。
あかねは見知らぬ屋敷にいる。
雨の中を移動した記憶はないが、気がつくとここにいた。
一つだけ置かれた燈台の光の届く範囲に、家具調度は何もない。
古い木の匂い。人の気配はない。
ただ一人、あかねの前に座す道摩を除いては。
今、あかねは道摩と一人ぼっちで対峙しているのだ。
「真名は明かさぬと?」
「はい」
「傀儡の入れ知恵か」
「傀儡なんて人はいません」
「ヤスアキの入れ知恵か」
「泰明さんから言われていてもいなくても、答えは同じです」
「捕らえられた身で自らの意志を通すか」
「あなたに自分の名を呼ばれたくないからです。
あなたが口にすると、まるで名前が人のものじゃなくて、
ただの音になってしまうみたいで、そんなのいやだな…って」
道摩は喉の奥で軋んだ笑い声を立てた。
「ならばかまわぬ。
真名は真を宿すが全てではない。
ゆえに真名の代わりに、乾、坎、艮に倣い『神子』殿と呼ばせていただく」
あかねは一瞬、きょとんとした。
――けん、かん、ごん……?
………あ、八卦のことかも。乾と坎と艮。
鷹通さんと永泉さん、そして泰明さんだ。
あかねは懐の護符に手を当て、対峙している道摩を見た。
泰明と永泉のことを思うと心が震えるが、
だからこそ、絶対に折れるものか、と思う。
「『神子』殿は手弱女ながら極めて気丈。
だが故無きことではないと吾は知っている」
「ええと……気丈って、気持ちが強いってことですよね。
その理由をあなたが知っているというんですか?」
「答えよう。
吾が京を離れた時に、「神子」はいなかった。
ゆえに貴方が「神子」と呼ばれることになったのはその後である。
次に、吾が不在の間、京は鬼の一族によって危機に陥った。
だが今は鬼はいない。何者かが鬼を排除したからだ。
人を超えた力無くしては成し得ぬこと。
その力の源は何か」
あかねは道摩から眼をそらさない。
うつむいたら負けだ。
「吾は、強き神にまつわる伝承を知っている。
京の始まりの時、「龍神の神子」と呼ばれた娘と八卦の男がいた。
彼らは鬼と戦い、京の人々を安んじたと言う」
そう言えば、東の市でこの人は私に尋ねたんだっけ。
――貴方は何者か……って。
じゃあ、この人が知りたかったのは………。
「『神子』殿の周りには離乾坎艮が存在する。
八卦の全てではないが、似ているではないか、『神子』殿」
違う。この人はもう知っているんだ。
「神子とは神に選ばれし存在。
貴方の神は大きく強き神だ。
東の市で貴方は吾に答えなかったが、吾は答えを得た」
道摩の顔に薄ら寒い笑みが広がった。
「今日は、佳き日となる」
「よき日?」
言葉の意味するところとは裏腹に、
あかねにはその言葉が禍々しく感じられてならない。
道摩はつと立ち上がると、ぱんと手を拍った。
それに応えるように、庭先でばさりと鳥の羽音がする。
道摩が使役する式神の黒鷺だ。
この後、黒鷺は東の市へと飛んでいき、
晴明の白鷺とまみえることになる。
そしてこの朝、内裏では書状がばらまかれ、友雅が異形のものに襲われ、
左大臣の屋敷に鬼神が現れて頼久と戦う。
多くのことが同時に起き、
全てを仕掛け、操る道摩は、もはや自らの存在を隠そうともしない。
この時のあかねはそれらのことを知るすべもなく、
泰明と永泉の身を案じ、
白々と明け初める外界を思うばかりだった。
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「知らぬ存ぜぬ存ぜぬ知らぬ」
ルチ将軍(CV神谷明さん)を知ってる人はおらんかね〜〜?
――それはさておき、
複数の場所で事件が並行して起きていますので、
時系列を整理する一文を最後に付してみました。
泰明さんの家で起きた「大事件」だけは、前夜の出来事です。
その結果、前話ではお師匠が泰明さんを助けようと奮闘中。
何が起きたのかは、まだ全て明かしてはいませんが、
だいたいのことは今回で書ききりました。
これから物語内の時間は、どんどん前に進んでいきます。
というか、進ませます。
次回は泰明さんの回になるはず。
引き続きよろしくです。
2016.12.1 筆