「あの……すみません……。
ここはどこなのでしょう?
どなたか教えて下さいませんか。
あ、私は仁和寺の僧で永泉と申します。
決して怪しい者では……」
朝靄のかかるうらさびれた小路に立ち、
永泉は道行く者に声をかけていた。
だが、誰も足を止めようとしない。
人通りもまばらな早朝ゆえ、永泉に気づかぬはずもないのだが、
誰一人として永泉を見向きもせず通り過ぎるだけだ。
「どうか、私の話を聞いて下さい。
お願いです……どうか……」
側近く寄って声をかけても、人々の反応は変わらない。
はじめこそ、見知らぬ永泉を警戒しているのか、
あるいは疎んじているのかとも思われたが、違うようだ。
永泉の心に、怖ろしい疑念がふつふつとわき上がっている。
――自分は彼らの目に映っていないのではないか。
必死に問いかける声も、耳に届いていないのではないか――と。
気がつくと、靄に包まれたこの場所にいた。
なぜここにいるのか、どうしてここに来たのか全く分からない。
分かっているのは、これが道摩の仕業であるということだけだ。
昨夜の事件は悪夢のようだが、衣についた泥は現実だ。
その衣は泰明から借りたもの。
濡れそぼった法衣が乾くまでと、あかねが渡してくれたのだった。
ああ……神子は……泰明殿は……。
早く泰明殿の家に戻らなければ。
けれど、どちらに向かえばよいのか……。
ここがどこなのか知る方法はないのでしょうか。
うつむいて考えこんだ永泉だったが、ふと人の気配で顔を上げた。
靄の中から早足で歩いてくる大柄な影がある。
男が真っ直ぐこちらに向かってくるのだ。
咄嗟に道を空けようとして、永泉は踏みとどまった。
男は躊躇うことなくずんずんと近づいてくる。
しかし二人がぶつかる瞬間、永泉と男の間で靄が渦を巻いた。
「おっと危ねえ」
ゆらり…と、不思議な動きで永泉を避けた男が、小さく舌打ちする。
「失礼なことをいたしました。申し訳ありません」
振り返って詫びるが、男には永泉の声が聞こえなかったようだ。
「ぬかるんだ道はこれだからイヤなんだ」
男はぶつくさ言いながら遠ざかっていく。
疑念は確信へと変わった。
人々に永泉は見えず、声も聞こえず、触れることもない。
即ち、彼らにとって永泉は存在しないのと同じ。
永泉は目に見えぬ結界に閉じ込められたのだ。
「あ……道摩が言っていたのは、このことでは……」
永泉は昨夜の道摩の言葉に思い至った。
それは、意識が途切れる寸前のことだ。
あの時、道摩は怒りを露わにした。
身に纏う袈裟の袖を引き裂くほどに――。
そして、降り注ぐ泥と共に、奇妙な悪罵を永泉に浴びせたのだった。
『泥の中に倒れてなお吾に命を下すエイセン。
知るがいい。汝は土塊と変わらぬ。
汝の声を聞く者はなく、汝を見る者もいない』
永泉は悟った。
あれは呪詛の言葉であったのだ……と。
この身は道摩の呪詛によって人の世から隔離され、
己が何をしてもしなくても、何を言っても言わなくても
誰もそれを知ることはないのだ。
ふと思いついて懐に手をやるが、笛は失せていた。
着替えた後も手放さなかったはずだが、
道摩に奪われたのか、あるいは術で飛ばされた時に落ちたのか。
私は……どうしたらいいのでしょうか……。
永泉はなすすべもなく立ち尽くした。
鈍色の空は今にも泣き出しそうだ。
大切な心の拠り所も無くなってしまった。
長い間ぽつねんと佇んでいた永泉は、
やがてあてどもなく歩き出した。
歩いていれば、偶然に知っている通りに出られるかもしれない。
だが、見知った場所に行かれたとして、
誰に会えばよいというのだろう。
誰にも会うことはできないというのに……。
安倍晴明殿……あの方なら、この術を解いてくれるかもしれない。
けれどどうやって、お目にかかればいいのか……。
そもそも私のことに気づいて下さるかどうか……。
遠くで刻を告げる鐘が鳴っている。
ああ、宮中ではもう、兄上……主上がお目覚めになっているはず……
―――鐘の音!?
永泉は足を止めた。
眼を閉じて、次の鐘の音に耳を澄ます。
上無調の響きの中に余韻が立ち現れ、
色を変え、さらなる音が次々に生まれていく。
永泉の繊細な耳は、消え入りそうに淡い音まで余さず捉えた。
それは幾度となく聞いたことのある音だった。
幼い頃の思い出に刻み込まれた鐘の音……。
この響きは清水寺のもの。
音の方向と大きさからすると、私がいるのは洛東でしょう。
そして………
永泉はぐっと顔を上げた。
ああ、なぜ昨夜のうちに気づかなかったのでしょうか。
泰明殿の家で聴いた、不気味な鐘の音………。
どこかおかしな感じがしていたのに、
あの時は異様な響きに気を取られるばかりで……。
私は同じ鐘の音を、洛西の寺で聞きました。
あの時感じた違和感は、洛西の鐘の音が、
洛中にある泰明殿の家で聞こえるはずがないということだったのです。
鐘の響きを操っていたのは、道摩の式神。
式神といえど、元の音を知らなければ、あのようなことはできないはず。
つまり式神は、実際に鐘の音を聞いたのです。
そして式神にそれを命じたのは道摩。
けれど、鐘の音を覚えさせるためだけに
道摩が洛西の寺まで足を運ぶとは思えません。
それよりも、道摩の居所が洛西にあるのではないでしょうか。
鐘の音を繰り返し聞けるほど寺に近い所に……。
そこを探せば………あるいは………。
思わず知らず永泉は早足になっている。
何としてもこのことを泰明に伝えなければならない。
しかし泰明の家へと急ぎながらも、
そこには誰もいないのだろうとも思う。
昨夜、永泉が意識を失ったその後に、
道摩がおとなしくその場を去ったはずはない。
ああ、お二人ともどうかご無事で……。
永泉は心の中でひたすらに経を唱え続けた。
堀川第の広い母屋は、朝餉の時間を過ぎても静まりかえっている。
主の右大臣が徹底的に人払いをしたためだ。
側近く仕える家人も女房も例外なく、
さらに警護の武士までも遠ざけてしまった。
右大臣が部屋を出て呼ばわるまでは、
母屋に通じる回廊を歩くことすら禁じられている。
わけのわからぬ命令はよくあることだが、
護衛すら遠ざけるとは尋常ではない。
家人達は、母屋から離れた所に集まり、
あれこれとささやきかわしている。
「このやり方は、いつもの気紛れとは違うぞ」
「いったいどうされたのだ?」
「つい先日は大層な上機嫌であられたというのに」
「あれから特別なことはなかったはずだが」
「しかも右大臣様はずっと邸におられたのだ」
「いやいや、内裏から一人、見舞いが来たではないか」
「そういえばあの後、唸り声が漏れ聞こえたような……」
「だとすれば内裏で何ごとか起きたのであろうよ」
「では内裏の出来事と此度の人払いと繋がりがあるというのか?」
「そう言われると………分からぬ」
「そうだな、分からぬ」
「……となると、考えても無駄ではないか」
「その通りだ」
「ふむふむ、全くだ」
家人達の当惑など、右大臣は気にも留めていない。
何しろ、忌々しい安倍晴明の術で、自分の顔がひどい有様になっているのだ。
一瞬ごとに怒りと苛立ちが募っていく。
「ええい、道摩はまだか!?
右大臣たる儂からの呼び出しなのじゃ。
寸刻でも待たせるなど、あってはならぬのじゃ!」
頬に朱い印をつけたまま、怒りに燃えた形相で部屋を歩き回り、
右大臣は丸い拳を振り上げた。その瞬間、
その拳に何かが触れた。
見れば、中空に男の右手……だけがある。
「ひっ!」
思わず後ずさりすると、宙に浮かんだ手は長い指を動かし、印の形を結んだ。
「だ……誰か……」
右大臣は掠れ声を振り絞り、辺りを見回すが、
もちろん近くに警護の武士はいない。
怖ろしさに腰が砕け、ぺたりと尻餅をつく。
と、腕が声を発した。
「アキミツ」
その声で右大臣ははっと気づき、瞬時に恐怖は怒りへと変じた。
「ええい、おどかすでない! 儂はお前の主ぞ!!」
「
印を結んだ指が右大臣に向けられると同時に、道摩が姿を現した。
喉の奥からくぐもった嗤い声。
だがその顔に笑みの欠片は無い。
右大臣の心の臓が、どくんと打った。
悪寒が背筋をざわざわと這い上がってくる。
「終わりだ、アキミツ」
道摩の指がつい…と動いた。
――やられる!!
咄嗟に右大臣は頭を抱え、がばっと身を伏せた。
こんなに急に、命の終わりが来るのか。
できるなら、痛くない方がいい。
だが、痛くないはずがない……。
わなわなと手足が震える。
――――――が、何も起こらない。
周囲に異変の様子もない。
それでも、顔を上げる勇気はない。
と、頭上からずしりと重い声が降ってきた。
「この後は汝次第。吾は去ぬ」
本当か?
このまま行ってくれるのか?
かすかな希望。
ならば早く行ってくれ。
もう二度と儂の前に現れるな。
………いや待て!!
こやつにはまだ……。
顔を上げる勇気のない右大臣は、
頭を抱えたまま、己の声に精一杯の威厳をこめた。
「ささ…さ左大臣めはどうなった。
土御門でおとなしくしておろうな」
「吾が鬼神を送り込んだ」
「ほ……ほっほほほめてつかわす」
「だがセイメイに斃された」
「なにぃっ!?」
怒りが恐怖に勝ち、右大臣はぐいっと首をひねると、
自分を見下ろしている道摩を睨め付けた。
「儂との約定が果たされていないではないか!
安倍晴明にいいようにされるなら、お前などに頼むでなかった!
それに何故儂に黙って讒言の書状など書いたのだ!
内裏は大層な騒ぎになっておるのだぞ。
畏れ多くも帝が御自ら、お前の所業と仰ったとか」
右大臣は詰問した。
見上げる態勢が我慢ならず、気がつけば立ち上がっている。
だが道摩は動じた風もなく、炯々と光る目で右大臣を見据え、
再び同じ言葉を言った。
「汝は吾のアルジではない」
「何をふざけたことを言うておる。
みみみ身分が圧倒的に違うではないか!」
道摩は薄ら寒い笑みを刷いた。
「何がおかしい!?」
「約定とは己が身を削り果たすもの。
汝は値せぬ」
「無礼者があああああっ!!!!」
轟き渡る大音声に、家人達が何ごとかと駆けつけてきた。
人払いは命じられているが、ただ事ではない。
「すわ! 曲者!!」
「いかがなさいましたか!?」
しかし彼らが見たのは、
肩を震わせ、ぜえぜえと荒い息をする右大臣の姿だけだった。
「これは……いったい……」
頼久は、呆然として周囲を見回した。
漠たる不安が的中してしまった。
藤姫の使いで泰明の家に来てみれば、
そこに人の気配はなく、庇や蔀の残骸が庭に散らばっている。
「失礼します」
それでも丁重に一礼して、頼久は家に入った。
ここにはつい先日、来たばかりだ。
笑顔のあかねに招じ入れられ、
雨宿りの鷹通、イノリと子分たちとひとときを過ごしたのだった。
だが今この家は静まりかえり、動くものもない。
あの時のにぎやかさが遠い日のことのようだ。
屋内を一渡り見て回るが、やはり誰もいない。
――何事が起きたのか。
ん? 椀が三つ……。来客か。
誰が来ていたのだろう。
再び外へと出て、泥土に残された足跡を調べる。
下駄の跡だ。
後ろに何か重いものを引きずっていたようだ。
やや深い溝が二つ。
人の足か。
下駄は大人の物よりやや小さい。
すぐにイノリが思い浮かぶ。
引きずられていたのは誰か。
大きさからして大人の男だが……。
「……っ! 何者!?」
突然、寒々とした気配が襲い来て、頼久は剣に手をかけた。
振り向くと、そこには
「泰明……殿?」
「頼……ヒ…サ……」
泰明の髪は解け、衣には泥土がこびりついている。
頼久はすぐに抜刀できる体勢のまま、泰明に相対した。
泰明から放たれる強烈な気が脈動し、暴風のように吹きつけてくる。
かくん…と、泰明は一歩踏み出した。
頼久はぬかるむ足元を確かめながら、じりっと一歩退がる。
かくん……。さらに一歩。
頼久の額にじわりと汗が滲む。
たとえ泰明といえど、ここで剣を引くことはできない。
戦いを生業とする武士なればこそ、分かる。
――今の泰明殿は……危険だ。
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あとがき
前話から一年以上も間が空いてしまいました。
待っていて下さった方、申し訳ありません。
カメより遅い更新ペースですが、
応援の言葉を寄せて下さった方、読んで下さっている方、
そして「遙か」な世界の存在に感謝です。
2018.6.2 筆