いまひとたびの 4



雨音に負けない元気な足音と笑い声が、家中に響き渡っている。
「お前ら、少しはおとなしくしてろって!」と
たしなめるイノリの声も聞こえる。

イノリと子分達が、あかねの家に雨宿りに来ているのだ。
子供達は初めて入った「おっきなうち」に大喜びで、
あちらへこちらへと走り回っている。
イノリがいくら声を張り上げても、
「うん!」
「わかったよ!」
「へ〜い、承知しやした、親分!」
「きゃっきゃっ!」
と、調子のよい答えが返るだけだ。

そして雨宿りしているのはイノリ達だけではなく……
「すみません、神子殿。私までお邪魔してしまって」
巻物を腕に抱えた鷹通が、すまなそうに頭を下げた。

「そんなことありません。
鷹通さんもイノリくんも、いつだって大歓迎ですよ。
それより、巻物は大丈夫でしたか?」
「ええ、何とか濡れずにすみました。
しかし、神子殿達と行き会っていなかったら、
どれも無事ではすまなかったでしょう。
さすがに泰明殿、不思議な布をお持ちです」
「これは晴明様からお借りしたんですよ。不濡の羽衣って言うそうです」
「そうだったのですか。まさにその名の通りの布ですね」

安倍屋敷からの帰途、泰明とあかねは鷹通と遭遇し、
続いてイノリと子供達にばったり出会ったのだ。
そして、全員が泰明の家で雨宿りすることになった。
泰明はあからさまな渋面になったが、あかねのにっこり……には抗すべくもない。

イノリがバタバタと走ってきてあかねに詫びた。
「うるさくしてすまねぇ、あかね」
「気にしなくていいよ、イノリくん。
でも、はしゃぎすぎて転んで怪我をしないといいけど」
「転ぶくらい、どうってことないぜ。
でも、あいつら、人様に世話になってるのを忘れてるからさ、
全員捕まえて、きっちり叱ってやらねえとな」

イノリが腕まくりをしたその時、
「????????」
子供達が首をひねりながら集まってきた。
「へんだなあ」
「わかんないよお」
「親分、この家は怪しいですぜ。
あっちに行こうとすると、いつの間にか同じところに戻っちまうんで」
「ぐるぐる〜」
子供達が指さす先にあるのは、泰明の仕事部屋。
招かれざる者が近寄れないのは当然だ。

「あのお部屋はね……」
あかねが子供達に説明しようとした時、
雨音に混じって馬の嘶く声がした。
続いて、「神子殿」――と頼久の声。
子供達が、声の主を見ようとまた一斉に走っていったのは言うまでもない。


しばしの後、皆は藤姫から届けられた菓子を囲んでいた。
きっちり叱られた子供達も、神妙な面持ちで座っている。
時々上目遣いに鷹通と頼久を見ては、目が合うと慌てて下を向く。
貴族と武士が同席しているとあっては、無理もない。

あかねは、みんなに会う前のこと――
安倍の屋敷に行くことになった経緯を話した。

「ふうん、じゃあ泰明は今は仁和寺にいるのか。
その坊さん、早くよくなるといいな」
むしゃむしゃと菓子をほおばりながらイノリが言う。

「泰明殿のお力があれば、快癒も近いことと思います」
菓子に手を付けるべきか否か、どちらとも決断できない頼久は、
白湯の器をぎゅっと握りしめて言った。

しかし鷹通だけは微かに眉を曇らせている。
「永泉様からの依頼があったということは、
御室の寺が泰明殿の治療を許可したのですね。
ただの病……なのでしょうか」

「そんなこと気にしてどうするんだ?」
「しかし、確かに異例のことではあるかと」
「じゃあ私、泰明さんに聞いて、後で鷹通さんにお知らせしますね」

鷹通は慌てて頭を振った。
「あ、どうかお忘れ下さい。
少し気がかりと言うだけで、神子殿を煩わせることはできません」
「でも、何か心配なことがあるなら話してくれませんか、鷹通さん」

「いえ、それほど大げさなものもないのです……」
そう言って鷹通が外に眼をやった時、ざっと音を立てて雨脚が激しくなった。
「この頃雨が多いので、少し気が滅入っているだけなのでしょう」

「へえ、鷹通にしては珍しく後ろ向きだな」
「しかし、無理もないことと存じます。
この雨が長引けば、各所に影響が出ることは必定」
「ええ、頼久の言うとおり、荘園での畑仕事は滞りがちになっています」
「そうだよな。まだ梅雨でもないのに、湿っぽい日が多過ぎるって、
鍛冶場でもみんな言ってるぜ」
「うん、かーちゃんも困ってる」
「あたいん家も〜」
いつの間にか子供達も話に加わっている。

――そうだよね。
去年は雨がなかなか降らなくて、今年は雨ばかりで……。

あかねは、雨に煙る庭を見た。
桜の木も小さな池も、どこにあるのかすら分からない。

泰明さん、もう仁和寺に着いたかな。
帰りには晴れているといいけれど……。

あかねはそこまで考えて気を取り直し、
部屋に眼を移してにっこり笑った。
「みんなが来てくれて、にぎやかになってよかった。
ゆっくりしていって下さいね」

「わ〜い!!!!」
薄暗い室内に、子供達の歓声が弾ける。

「頼久さん、遠慮は無しですよ。お菓子をどうぞ」
「……し…承知いたしました、神子殿」





雨が止み、泰明と友雅は御室の寺を辞した。

ぬかるんだ道に友雅の馬はゆっくりと歩を進め、
泰明はその脇を、いつもと変わらぬ足取りですたすたと歩く。
鈍色の空に、入り日の方角だけがうっすらと朱い。

真っ直ぐ前を見たまま、泰明が口を開いた。
「友雅、永泉を訪れた本当の理由は何だ」
友雅もまた、前方から視線を動かさずに答える。
「さすがだね、泰明殿。なぜ分かったのかな」

「歌合わせの日はまだかなり先だ。
今日でなくとも不都合はないものを、雨をついてまで来た。
つまり、歌合わせの話は口実にすぎない――これが理由だ。
次は友雅が私の質問に答えろ」

いつもながら直截で簡潔明瞭な言葉だ、と友雅は思う。
泰明を相手に、その場限りの方便は通用しないことは分かっていた。
しかし、どこまで明かしてよいものだろうか……。

「図星だよ、泰明殿。
私は最初から隠し事などするつもりはないのだが……」
友雅は、紙片を泰明に差し出した。
「実は泰明殿に相談したいことがあってね、
御室に来る前に、陰陽寮に行ったのだよ。
そこで、これを拝借してきたというわけだ」

泰明は紙片を一瞥し、素っ気なく答える。
「お師匠からの呼び出し状だ。
式神が持ってきたものだが、これに何かあるのか」

友雅は懐から書状の一つを取り出した。

――右大臣が左大臣を呪詛している。
というものだ。

「では、こちらも見てもらえるかな。
泰明殿を訪ねたのは、この書状について意見を聞きたくてね。
だが、呼び出し状なる物を見て、事が複雑になってしまったのだよ」

泰明は友雅から受け取った書状に眼を落とすと、
顔色一つ変えずにその文面を読んだ。
次に筆の跡を指で辿り、掌で紙面を隅々までなぞる。
さらに裏側からその紙を調べ、無表情のまま友雅に返した。
そして素っ気なく言う。
「お師匠ではない。だが、文字の形は極めてよく似ている」

「つまり、この書状を書いた人物は……」
「お師匠の文字を模すことができた者だ」
「だとすると、これは晴明殿の周りにいる人物が書いたということになる」
「そういうことだ」
泰明はあっさりと答えた。
自分が疑わしい人物の範疇にあることなど、全く気にしていない。

泰明はさらに続けた。
「この筆跡には、もう一つ重要なことがある。
文字には書き手の気の痕跡が残るものだ。
この書状の文字は、形こそお師匠のものと酷似しているが、
そこに残されたものが……」
「晴明殿とは異なるのだね」
「そうではない。何も残されていないのだ」

背に薄ら寒い物を感じながら、友雅は尋ねた。
「気の痕跡というのは、簡単に消すことができるのかな」
「できない」
「書の達人や童だったらどうだろう」
「無理だ」
「では、どのような人物なら可能だろうか」
「己の気を熟知し、完全に操れる者。あるいは心を持たぬモノならば可能だ」

友雅は薄墨色に沈む空に眼を移した。
「泰明殿は淡々と怖ろしい事を言うのだね」
「友雅の質問に答えたまでだ。
私が答えずとも、事実に変わりはない。
友雅がその人物を探すなら、心しておいた方がいい。
書状に書かれた呪詛云々が真ならば、一刻も早く止める、それだけだ」

その通りだ。だが、どちらも難儀なことに変わりはない。
友雅がふっとため息をついた時だ。

「つまり、永泉について書かれた書状もあるのだな」
泰明がぶっきらぼうに言った。

手綱を握る手に力が入り、友雅の馬はぴたりと足を止めた。
友雅を、左右で色の違う眼が凝視している。

泰明は、さらに続けた。
「そのために、雨の中を仁和寺まで馬を走らせた。
友雅がそこまでするのは、帝の命によるものか」

どこまで明かすか……などと考えるだけ無駄だった。
友雅は肯定の代わりに、僅かに肩をすくめて
永泉を告発する書状を泰明に渡した。

「書状は帝に送られたのか」
「ああ、そうだよ。
言うまでもないが、晴明殿以外他言無用だ。
もちろん、神子殿にもね」
「無論だ。神子は巻き込まぬ」

夕暮れの道を急ぐ人々の声が、道の向こうから聞こえてきた。
「今日はここまでとしようか、泰明殿。
覚仁様の呪詛の件は、よろしく頼むよ」
「分かった」

雲間にぽつんと光る夕星の下、二人もまた帰途に着いた。
あかねが渦中の人となることを、この時はまだ知る由もなく……。



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2013.11.03 筆