蟇蛙の式神は泰明の庭の泥土にうずくまっていた。
それは道摩の耳であり、目でもある。
雨音にかき消され、家の中の音は届かない。
だが、庭を通った者、迎え入れた者、
その時に交わされた言葉は、道摩を甚く惹きつけた。
――吾の呪詛を祓い、吾に返したヤスアキ、
吾の呪詛を弾き、奇病を呪詛と気づいた法親王、
そして市に現れた不可思議の気を纏った娘……。
娘は「ミコ」と呼ばれた。
真名ではあるまい。
巫女とも違う。
ならば「神子」か。
何れの神の声を聴く神子であるのか。
陰陽師は艮、法親王は坎、
市で娘に助力したのは離の鍛冶師と乾の貴族であった。
道摩は泥の中を這いずってきた一匹の蟇蛙を凝視した。
泰明の庭にいる蟇蛙の対だ。
蟇蛙はつぶれた声で「グゥェッグゥォッ」と鳴いている。
ゆらり……と道摩は立ち上がった。
「この目で確かめようぞ。
集いし離、乾、坎、艮は、奇縁か………遠き力か」
そして―――
あかねと泰明、永泉のいる部屋に灯した小さな灯りが、
ジジッと揺らめき、消えた。
雨音の彼方から、歪んだ鐘の音が響く。
一つ、二つ、鐘の音は幾重にも重なり合い、近く遠く鳴り渡る。
――これは、お師匠が聞いた鐘か。
「道摩…!」
安倍家の結界が破られ、道摩の式神が送り込まれた時のことを、
晴明自身から聞いたばかりだ。
式神が現れた時、歪んだ鐘の音が響き渡ったと言う。
「泰明さん…」
「泰明殿…」
突然の闇と異様な音に、あかねと永泉は驚き、怯えている。
「神子、案ずるな」
泰明はあかねの手を取った。
暗闇の中でも、泰明に惑いはない。
「こうすれば、闇は消える」
呪を唱えながらあかねの掌に護符を載せると、
それは小さな灯りとなってあかねと永泉を照らし出した。
「ありがとう」と言いかけたあかねと、
「どうま…とは?」と問いかけた永泉を制し、
泰明は二人の周りに結界を施した。
できる限り素早く、そして強固に。
鐘の音は耳を聾し、頭の中にまで入り込んで来るかのようだ。
一刻も早く、式神を消さねばならない。
「神子、永泉、この場を動くな!」
そう言い置くと、泰明は雨の庭に出た。
四囲を探ると、異質な気がふつふつと漏れ出ている場所がある。
「お師匠の時もそうだった。
すぐに見つかるものを、なぜ仕掛けてくる」
泰明の手から呪符が飛び、泥土に突き刺さった。
「グゥエエエッ!」
呪符に絡め取られた大きな蟇蛙が、空中に飛び出す。
「滅!」
泰明が唱えると、蟇蛙は鈍い音と共に弾けて消えた。
しかし、鐘の音は消えない。
その時別の場所がふつふつと動いた。
「そこか!」
再び呪符が飛び、蟇蛙は滅するが、
歪んだ響きはまだ続いている。
――響きの元はどこだ。
泰明のほど近くで蟇蛙がびしゃりと泥を跳ね上げた。
同時に、庭の隅でも何かが跳ねる。
続いて反対側の隅で、さらに庭の中央でも、
ふつふつびしゃりと、蟇蛙が動く。
「急急如律令!」
泰明の袖が翻り、空中に大きな桔梗印が描かれた。
雨の夜庭に浮かび上がった桔梗印は、次の瞬間、
無数に分かれて泥土を抉り、土中に潜む数多の蟇蛙を宙に跳ね上げた。
蟇蛙は泰明の術に余さず捕らえられ、
雨の中、ぷすり…ぷすり…と消えていく。
それでもなお、鐘の音は鳴り響いている。
式神は造作もない敵だ。
ただ数ばかりを増やしても何の益にもならない。
だからこそ、この状況はおかしい。
泰明は庭を見回した。
そして瞬時に晴明との会話全てを思い返す。
「なぜ、すぐに見つかるような式神を送り込んだのだろうか」
「あやつの拗じ曲がった挨拶よ」
――これは挨拶などではない。
相手がお師匠だからこそ、道摩はあのようなやり方をしたのだ。
そもそも私は道摩を知らぬ。
だが道摩もまた私を知らぬはず。
ならばなぜ、ここに来た。
「お前の祓った呪詛が我が身に返った時、
あやつは己の仕業を知られたことを察知したのだ」
――その結果、道摩はお師匠の元に「挨拶」の式神を送り込んだ。
だが同時に、己の呪詛を祓ったのが何者か知るために動いたのだ。
仁和寺の僧は私を「安倍の陰陽師」と認識するのみ。
私の名を知る者は僅かだ。
しかし道摩は過たず、その者から私の名を得た……。
ゆえに道摩は、この家に安倍の陰陽師がいると知って仕掛けてきている。
お師匠の時と同じことはするまい。
いや……それだけではない。
今ここには、道摩に関わってしまった三人がいる。
永泉は摂津の森で道摩と顔を合わせ、
神子もまた……。
市で会った神子に、道摩は異様な問いかけをした。
貴方は何者か……と。
明らかに、神子の存在が特別なものと気づいたのだ。
市から神子を追うのは容易い。
私の名から居所を知るのも容易い。
雨音さえもかき消して、
うぉぉおぉおぉぉんぉぉんおぉおん……と鐘が鳴り続ける。
――二人は無事か?
振り返ると、あかねが両耳を押さえて身体を縮めているのが見える。
「神子!!」
あかねの元に戻ろうとしたその時、泰明の視界が突然揺らいだ。
真っ直ぐに出したはずの足が、がくりと崩れそうになる。
歪んだ鐘の音が耳を穿つ。
「泰明さん!!」
――あかねの声が、遠い。
「今……そちらに…行く」
足を踏みしめ、泰明は部屋に戻った。
先ほど施した結界は、消えかかっており、
あかねのために灯した灯りも小さくほの暗い。
――これは…どういうことだ?
私の力が……弱まっている?
「泰明さん、大丈夫ですか!?」
あかねは手を差し伸べて泰明を支えた。
「どこかに怪我を?」
「問題……ない」
しかし言葉と裏腹に、泰明はがくりと膝をつく。
永泉が手を貸して、泰明をその場に座らせようとするが、
泰明はその手を振り払った。
「離せ、永泉。私は問…題ない……。
道摩…の狙いは、神子…だ」
「どうま? 誰のことですか?」
「市に現れた僧形の怪しい男だ。
摂津の森で永泉と連れに呪詛を仕掛けたのと同じ者だ」
永泉が息を呑んだ。
「あ…あの……その道摩なる者が、どこかに潜んでいるのでしょうか」
「分か…らぬ。
だから…こそ、こうしてはいられ……ないのだ。
一刻も早くこの音を……道摩の術を…破らな…ければ」
「泰明さん、無理しないで!」
「泰明殿、どうかお休み下さい。
あの……私など頼りにならないと思いますが、
鐘の音がどこから来ているか、分かったような気がするのです。
それを……その……た、た、たた確かめに…行って参りますので」
「本当…か、永泉!?」
「永泉さん、すごい」
「い、いいえ……あの、もしも私の気のせいでしたら…すみません…」
唇も手も足も震えているが、永泉は精一杯毅然と立ち上がった。
「待て……私も…行く。
音の源が分かった…なら、その場で…私に教えろ。
その方が……無駄がな…い」
「私も行きます」
あかねがきっぱりと言う。
――神子を一人残しておくのも危険だ。
泰明はあかねに向かって小さく微笑むと、
よろめく足を踏みしめて立ち上がった。
「では行こう……。
頼むぞ、永……泉」
異変に気づいたのは頼久だった。
武士団は毎日夜明け前に鍛錬を始める。
頼久もまた、誰よりも早く起きて剣を取る。
傷を負っても夜戦の後でも、変わることはない。
鍛錬の前に、頼久はいつものように屋敷の中を見て回った。
しとしとと降る雨に、庭の景色が煙っている。
朝餉の支度をする者はすでに忙しく立ち働いており、
屋敷に仕える女房達の話し声も聞こえてくるが、
今日は左大臣が出仕しないためか、いつもの朝より静かだ。
だが、頼久は腰に帯びた剣に油断無く手をかけている。
静けさの底に不吉なものが潜んでいるように感じられてならないのだ。
――この気配はどこから来ている…。
まさか……!?
左大臣の眠る母屋に、頼久は急いだ。
蔀が閉ざされたままで中の様子を窺い知ることはできないが、
不吉な「何か」は、間違いなくそこにいる。
頼久を圧する異様な何かが……。
その感覚は正しかった。
頼久の報せを受けて左大臣の寝所に急いだ者達は、
ある者は悲鳴をあげ、ある者は腰を抜かした。
部屋は一面、黒々とした水をたたえた沼と化していた。
そのただ中に御帳台だけが島のように取り残され、
館の主である左大臣もそこにいる。
夢か、幻か……。
否、得体の知れぬ水は紛れもない現実だ。
そして左大臣が水に隔てられ、その場から身動きならぬことも。
「左大臣様!」
「今お助けいたします!」
「早うこちらに!」
屋敷の者達が水に入ろうとしたが、
「来てはならぬ!」
「お待ち下さい!」
左大臣と頼久が同時に制止する。
しかし次の瞬間、水面から大きな波が立ち上がり、
真っ先に水に入った者を崩れた波頭が手ひどく打ち据えた。
そのまま水中に引きずり込まれそうになるところを、
飛び込んできた頼久が救い出す。
「見事じゃ、頼久!!」
御帳台の内から左大臣が言葉をかけた。
頼久は左大臣に一礼すると、水に真向かい剣を構えた。
これは、ただの水ではない。
黒い波の中に、一瞬だけ朧な形が見えたのだ。
赤かがちのような目をした、巨大なくちなわの姿が。
「これは……何なのだ?」
「真であれば一大事じゃ……」
「帝はご存知なのか?」
内裏は朝から騒然としている。
貴族達が手にして騒いでいるのは、
帝が手元に置いていたはずの書状だ。
それらが無造作に、内裏のここかしこに投げ捨てられていたのだ。
どれもが不穏な内容ばかり。
しかも法親王や皇后、左大臣を名指ししたものまである。
「左大臣殿が不在の折にどうしたものか……」
「右大臣殿を忘れてはなりませんぞ。
朝議を取り仕切っていただこう」
「それが、急の病とかで今日は来られぬそうな」
「ともあれ、帝にご裁断を願わねばなりませぬな」
相次ぐ事件に騒ぎは大きくなるばかりだ。
その様子は清涼殿の帝にも伝わっている。
目覚めてすぐに文箱を改め、
隠していた書状が失せていることに気づいたが、
その時はすでに遅かった。
やはり、側近くにいる者の仕業だったのか……。
帝は焦燥の念に胸を灼かれる思いだ。
今日から友雅が、帝の身辺を調べるはずであった。
その矢先だ。
証拠とする一通を残し、後は全て焼き捨てようとも考えていた。
だが昨日は体調がすぐれず、それが果たせなかった。
たった一日、たった一晩のことだ。
しかし、そこを突かれた。
ただ一つ、確実に分かったことがある。
それは、道摩の手の者が内裏に入り込んでいるということだ。
――友雅、後は託したぞ。
刻を告げる太鼓が鳴り、帝は朝議に向かった。
長く孤独な戦いの場へと……。
その朝、内裏の門をくぐった時からずっと、
友雅は背後に気配を感じていた。
虫が背筋をさわさわと這い回るような、嫌な感覚だ。
――この異様な気配には覚えがある。
昨日、鷹通と別れて内裏に入った時に感じたものだ。
その時、友雅の背を剣が襲った。
直前で横に動いた友雅の袖が、ざくりと裂ける。
友雅は身体をひねりざま、剣を持つ刺客の腕を捉えた。
が、刺客は一瞬でその手をすり抜けると、
前に傾げた姿勢のまま、内裏の回廊を駆けていく。
――やれやれ、朝から走るのは疲れるが、
取り逃がすわけにはいかないか。
友雅はため息と共に、刺客を追った。
逃げる刺客は、物陰に潜んでは急襲を繰り返し、
友雅はそのたびに鮮やかにかわした。
そして幾度目のことか、刺客はまたもや姿を隠した。
そこは人気のない渡殿で、
この先は塀に囲まれた小さな庭があるばかりだ。
周囲には人の声もなく、雨の気が満ちている。
柱の陰に刺客がいることはすぐに分かった。
「こそこそ逃げ回るのは止めにした方がいい。
私に不意打ちなど無駄だよ。
これでも武官なのでね」
友雅の言葉に、刺客がゆらりと姿を現した。
それは一見、背の高い痩身の貴族に見える。
しかしその異様な動きは人ならぬもの。
貴族の装束を纏った、異形の存在だ。
「イチげキで 黄泉国におクるは 情ケ。
トモマサは ナサけヲ ムダにシた」
のっぺりと細い顔に、ぞんざいに線を引いたような細い目と口。
だが、言葉は宙に漂い出るのに、その口は動かない。
――人ではない。
なかなか厄介な相手のようだ。
友雅は剣を構えた。
異形のものは一気に間合いを詰め、
凄まじい速さで打ちかかってきた。
斬撃を受け流し、体を入れ替えるが、
それは友雅とほぼ同時に向きを変えていた。
重さというものが全く感じられない動きだ。
「トモマサニ 逃ゲ場はなイ。
トモマサの むクろを 内裏にコろがス」
「私をここまで誘い込んだつもりなのかな。
残念だが、思い通りにはいかないよ」
友雅の剣が一閃し、異形の手から剣を払い落とした。
そしてすかさず、返す剣で攻撃する。
しかし剣は空を薙いだだけだった。
異形のものの躯が、胴の真ん中でかくんと二つに折れている。
装束の中には、何もない。
首がくるりと反転して友雅を見た。
「トモマ サの むク ろ 」
線のように細い目と口が大きく広がり、
キシキシと音を立てる。
刹那、異形のものはその場に崩れ落ち、輪郭を失った。
その後には、解けて糸になった装束があるだけだ。
「これは……!?」
息を呑む友雅に向かって糸が走り、足首を捉えた。
反射的に身を退き、剣で糸を断とうとするが、
糸はそれより早く友雅の手に絡みつき、自由を奪う。
動けぬ友雅の足元に解けた糸が集まり、
再び装束の形に戻っていく。
友雅を覆い隠すように………。
刻を告げる太鼓が響いた。
間もなく朝議が始まる。
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2015.12.18 筆