摂津の森、焼けた御堂の前に泰明はいる。
兄弟子達は京で道摩の行方を追っているが、
泰明は晴明から別の命を与えられたのだ。
「この庭に、あやつが式神を送り込んできた」
「お師匠の結界が破られたのか!?」
「うむ。だが、そこにこだわってはならぬぞ、泰明」
「分かっている。
そもそもお師匠の結界を破るのは容易いことではない。
つまり、道摩はこの屋敷の近くにいたことになる。
憂慮すべきは、道摩が誰にも知られることなく術を施したことだ」
「その通りじゃ」
「だが、分からないこともある。
なぜそうまでして、すぐに見つかるような式神を送り込んだのだろうか」
「あやつの拗じ曲がった挨拶よ。
京に戻っていることを、この晴明に知らしめたかったのじゃ」
「………そのように無駄なことを為す意味が分からない。
よからぬ企みをする者が自分の存在を明かしてどうするのだ」
「呪詛を祓うとは呪詛の正体を見極めることに他ならぬ。
お前の祓った呪詛が我が身に返った時、
あやつは己の仕業を知られたことを察知したのだ。
それでも引く気はない……。
式神の意味は、そういうことじゃ」
「お師匠には道摩の心が読めるのか?」
「何十年にも渡って互いにやり合っておれば、自ずと分かるものよ。
あやつとはいずれ決着をつけねばならぬ」
だが、道摩の居場所を調べるのは安倍の高弟達をもってしても難しい。
一方、確かにいたと分かっている場所が、一つだけある。
永泉が道摩と遭遇した摂津の森だ。
「かの御堂を調べてみねばなるまい」
晴明の言葉に従い、泰明はすぐに京を発ったのだが――
御堂は焼け落ちていた。
かろうじてその輪郭を保ってはいるが、
黒くすすけた壁は崩れ、屋根も落ちている。
手を触れると、炭化した柱がぼろりと崩れた。
雨が続き、何もかもがたっぷりと水分を含んでいるこの時期に、
たとえ雷が落ちたとしても、これほどひどく燃えるはずもない。
御堂は火を放たれたのだ。
――調べられることを見越したか。
だが……道摩がこの場所を焼いたことこそが手がかりになる。
泰明は建物の周囲に呪符を置いた。
ここには、知られてはならぬ「何か」があるのだ。
そしてそれは、持ち去ることのできない「何か」なのだ。
焼け跡に向かって泰明が呪を唱えると、
呪符から呪符へと五本の光が走り、御堂を桔梗印が囲んだ。
刹那――気配を感じて泰明は大きく後ろに跳ぶ。
御堂の中心に黒い渦が立ち上ったかと見る間に、
桔梗印が一瞬で消し飛んだ。
友雅の前で、大きな門扉が音もなく開いた。
しかし、周囲を見回しても人の姿はない。
「噂には聞いていたが、さすがは晴明殿のお屋敷だ。
では、遠慮無く入らせて頂こうか」
一歩足を踏み入れると、背後の扉が消え、
視野の端で、あでやかな芍薬の花が誘うように揺れた。
「何とも趣のある道案内だね。
大いに楽しませてもらうよ、晴明殿」
友雅は、安倍屋敷の奥へと歩みを進めて行く。
今日は市の立つ日だ。
雨は夜明け前に止んだ。
相変わらず空は一面の雲に覆われているが、
暗い雨空に慣れた目には十分に明るい。
店の前のぬかるんだ道には、多くの人々が行き交っている。
売り手も買い手も時折空を眺めては、
せめて今日だけでも降らないでほしいと心の中で願う。
しかし人は多いものの、市にはいつものような活気がない。
店先に並べられた数少ない作物は育ちが悪く、川魚の類も同様だ。
そして、売り子の呼び声や賑やかな笑い声よりも、言い争う声の方が耳に付く。
誰もが鬱屈し、苛立っているのだ。
雨が続いた影響は、人々の心にも影を落としているようだ。
「……と同じ」
市の片隅に立つ祠の前で、法師が低く呟いた。
その目に映っているのは、人々の営みと薄皮一枚で隔てられた異界の風景だ。
異形のもの達が、あるものはうずくまり、あるものは貪婪に目を光らせて、
人々の足元、店の陰、塀の際で蠢いている。
布施を乞うでもなく、人を待つでもなく、
じっとして動かぬ法師のことを、気に留める者はいない。
その時、近くの店で騒ぎが起きた。
店主の男が凄い形相で男の子の襟首を掴んでいる。
「捕まえたぞ、この泥棒め!」
「うわっ! なにするんだよ! おいら盗みなんてしてないよ!」
「うわぁぁぁん! おにいちゃんをはなしてぇぇぇ」
子供の泣き声と大人の怒声に、通りすがりの人々は一瞬何事かと振り返るが、
飢えた子供が盗みを働くのはよくあること……と、足を止める者はいない。
法師は影のように佇んだまま。
が、何かに気づいたようにその目が動く。
激高した店主が棒を振り上げるのと同時に、
人混みをかき分けて、若い娘が走り出てきた。
そして「止めて!」と叫びながら店主と男の子の間に一直線に飛び込む。
がつっと鈍い音がして、棒が娘の肩をしたたかに打った。
前のめりに倒れそうになりながらも、娘はぐっと踏みとどまり、
肩を押さえながら、店主を振り向いた。
「ひどいじゃない! 子供をぶつなんて!」
――あれは……異なるものか?
法師は娘を凝視した。
「お前も仲間か! 許さねえ!!」
店主が再び棒を振り上げようとした時、誰かがその腕を押さえた。
何者かと見れば、若い貴族だ。
「邪魔しないでくれ!」
「いいえ、邪魔をしているのではありません」
食ってかかる店主に、若い貴族は穏やかな口調で答える。
「あなたは怒りを向ける相手を誤っているようです。
まずは落ち着いて下さい。これは預かっておきますので」
そう言って、若い貴族は店主の手から棒を取り上げた。
鮮やかな手際に、周囲がざわめく。
――乾。
その時、子供の声が聞こえてきた。
「親分、こっちですぜ!」
「おう!」
親分と呼ばれた少年が、ぬかるんだ道に下駄を取られもせず走ってくる。
――あれは、離。
と、娘と貴族と少年が同時に驚いた顔をした。
「あ!」
「これは、奇遇ですね」
「うわっ、びっくりしたぜ」
法師はゆら…と動き出す。
影のように気配もなく、真っ直ぐに進む先には、
乾と離の間に立つ娘がいる。
「こ……これは……」
「白馬が………」
「ひ……ひぃぃぃ……」
一頭の黒い馬を取り囲み、
貴船神社の神官達が、わなわなと震えている。
馬は、晴天を祈願して朝廷から奉納されたものだ。
その色は白でなければならず、先ほどまでは確かに白かった。
しかし今、神官達の目の前にいるのは、夜のごとき漆黒の馬。
その色は、降雨を求める祈りの色だ。
このような間違いなどあってはならぬこと。
「凶事の……前触れか」
「は、早う、左大臣殿にお知らせを!」
直ちに出立した使いの頭上に大きな雨粒が落ち、
一呼吸と置かぬうちに土砂降りの雨となった。
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2014.08.21 筆