いまひとたびの 13



半月ほど前、摂津の大寺院でのこと―――

京からやって来た一人の貴族が、曇天の空をまんざらでもない顔で見上げていた。

この寺では盛大な法会が数年毎に行われており、
今年はちょうどその年に当たっている。
由緒ある寺ゆえ、法会には寺院の僧侶ばかりでなく、
都の貴族も毎回大勢参集するのだ。
法会を間近に控えたその日も、多くの供物や寄進の品が寺に届いていた。

その貴族も、自らの地位にふさわしい物を寄進してきたばかりだ。
前の法会の時よりも地位が上がった分、上質なものを用意した。
今は左大弁。順当に行けば、さらに上を望むこともできる。
右大臣が登用してくれたおかげだ。

ともあれ、後は法会当日を待つばかり。

貴族は、牛車の待つ門ではなく、
法会の中心となる舞楽の舞台の方に、気紛れに足を向けた。
舞台の設えを準備しているのだろうか。
下々の者が集まり、僧も幾人かいるようだ。

しかし近づいてみると、意外な光景がそこにあった。

人垣の中心に、こちらに背を向けて若い僧が座し、
その前に座った者の話に、じっと耳を傾けているのだ。
一人の話が終わると、僧は短く言葉を交わし丁寧に頭を下げる。
するとすぐに、別の者が僧の前に座って話し出す。

顔は見えなくても、若い僧には貴人のような気品がある。
だが、一方的に話をして、最後には頭を下げられている者達は、
荒くれた風情の者や、下働き、見習い僧など、身分の低い者ばかりだ。

――取るに足らぬ者達になぜあのようなことを?
いらだたしさを感じながら、貴族は近くの者に尋ねた。
「あれは何をしているのだ?」

すると、周りの者達が一斉に答えた。
「もう少しで大変なことに……」
「このような時に争い事が起きたらどうなっていたか……」
「あの人に助けられた……」
「あっしらの言い分を端から端まで聞いてくれて……」
「あれだけ身を入れて聞いてもらうなんて初めてだ……」
「永泉様が来て下さってよかった……」

………どうやら喧嘩騒ぎが起きたらしい。
それを、永泉なる僧が収めたようだ。
……ん? 永泉……? えええっ永泉様!!?

ちょうどその時、報せを聞いた寺の僧が幾人も集まって来た。

物見高いと思われぬよう、立ち去ろうとした貴族だったが、
少し離れた場所で成り行きを身守ることにした。
内裏を泳ぐ者の嗅覚が彼を押し留めたのだ。

耳をそばだてて聞いてみると、争いの発端は些細なことだった。
この騒ぎが起きる前から、法会の準備に当たる者達の間には、
不平不満が広がっていたようだ。
天候が悪かったため、作業はかなり遅れており、
全体を仕切る者が下の者達にずいぶん辛く当たっていたらしい。
様々な持ち場同士も折り合いが悪く、
さらにはこの寺の若い僧達と、
縁あって法会の前から逗留している御室の寺の僧との間にも、
ぎこちない雰囲気があったという。

それが、ふとした行き違いで口論が起き、
留めようとした者も争いに加わり、
やがて激高する者が現れて………。

よくあることだ。
怒りに任せ、腕力に訴えようとするところが、身分の賤しい者達らしい。
だが、盛大な法会を前に、流血沙汰が起きたなら、
事は賤しい者共の起こしたことでは収まらない。

しかし、そこに永泉が通りかかった。

なんと永泉は法親王という身分は口にせず、
御室から来た一介の僧として、争う者達一人一人から話を聞いたのだという。

争いに至るまでには、それぞれの思いがある。
永泉は彼らを難じることも諭すこともせず、一心に耳を傾け、
話し終えた者には、丁寧に礼を言った。
そんな永泉に心情を吐露するうちに、怒りや不満はいつしか鎮まっていき、
互いのわだかまりも徐々に解けていったのだった。

さっさと法親王の身分を明かして下賤の者共を跪かせればよかったのだ。
何という手ぬるいやり方か。

幼い頃の永泉を知る貴族には、苦々しい記憶がある。

かつての永泉は、いつもおどおどとして、うつむいてばかりの童であった。
ならばこそ、思い通りに動かすこともできようと期待した矢先、
東宮に推してやっている我々に何の相談もなく、
逃げるように出家してしまったのだ。
煮え湯を呑まされるとは、まさにこのこと。

だが………と、貴族は考えた。

あの永泉様が荒くれ者の集まりをおとなしくさせるとは……
変われば変わるものだ。
それでも人に向かって強く出られぬところは変わっておられぬ。
ふむ……。
今の永泉様なれば、今度こそよき役目を果たして頂けるやもしれぬ。
法会を前に思いがけぬ幸運に巡り会えるとは、これぞ御仏の功徳ぞ。

貴族はすぐに文をしたためて急ぎの使者を右大臣に送り、
返書は間髪入れず届いた。

――最後の好機と心得よ――と。





全身泥まみれの姿で表れた頼久に、
左大臣は驚いた様子を微塵も見せなかった。
予期していたことが起きたまでのこと。
頼久も覚悟の上で任に当たったのだ。

「ただ今戻りました。お見苦しい姿で失礼いたします」
「よい。子細を聞こう」

「行きの道は何ごともなく安倍屋敷に着き、
晴明殿に直接書状をお渡しして左大臣様の御言葉を伝えました。
すると晴明殿は一度席を外し、しばらくして小箱を手に戻られました。
そして、左大臣様の依頼は承諾したと仰って、私に小箱を託されました。
しかしその小箱は土御門に着いても決して開けてはならず、
そのまま安倍屋敷に戻すようにとのこと。
そして、途中で何者かに襲われることがあったなら、
その者達におとなしく渡すように、との仰せでした」

「ほう、箱に仕掛けを施されたか。
さすが晴明殿、面白きことを思いつかれたものよ。
しかし頼久、晴明殿にはおとなしく渡せ、と言われたはず。
帰途に賊と遭遇したようだが、その姿からすると、
小箱を守り抜いて戻ったのではないか」

頼久はがばっと平伏した。
「左大臣様へお届けするべき物を、おとなしく差し出すなどできず……
………しばし剣を交えた後、敵の足元に落として参りました。
命に背いた上は、この頼久、いかなる処罰も受ける覚悟にございます!」

左大臣は抑えきれずに笑い声をもらした。
安倍屋敷への往路で襲われることがあったなら、
書状は奪われてかまわないと、左大臣もまた頼久に命じていたのだ。

「顔を上げよ、頼久。
いやしくも源の武士たるものが、脅しに屈して懐中物を素直に差し出したなら、
かえって疑われるではないか。
お前はそれでよい。我が使いとして上々の働きであった」

「はっ!! 寛大な御言葉、痛み入ります」
頼久は深々と一礼すると、雨闇の庭に去った。





左大弁に宛てた文には「最後の好機」と書いて送ったものの、
右大臣はさして期待はしていなかった。

一時期宮中では、法親王が左大臣邸に出入りしている――と、
さかんに噂されていたからだ。

ちょうど鬼が悪さをしていた頃でもあり、口さがない噂はいつの間にか止んでいた。
それでも、法親王が左大臣方に与したのかもしれないという疑念は残る。

よい感触が得られたなら上々。
左大弁の手並みを見せてもらうとしよう。
そう右大臣は考えている。

しかし今の右大臣にとっては、いつ訪れるか分からぬ好機より、
目の前の好機こそが全てだ。

左大臣の使いから奪った書状――これが好機でなくて何であろう。
今度こそ、左大臣の鼻をあかしてやったのだ。

「左大臣に届けられた物とはこれじゃな。
口惜しさに身悶えする様が見えるようじゃ」
右大臣は小箱を手に取り、満足げな笑みを浮かべた。

「はっ! 土御門に仕える屈強な武士から
激しい戦いの末に奪い取ったものにございます」
側に控えた家人が恭しく答える。

「ふん、左大臣め。やはりおとなしゅうはできぬと見える。
だが土御門の近くに待ち伏せを置いた我が策が、あやつに一歩先んじたのじゃ。
何処の輩に助力を願ったか知れぬが、
返書を見れば悪だくみの何たるかが分かるというもの」

しかし小箱の紐を解き、中を見た右大臣はひどく落胆した。
質素な料紙に歌が一首書かれていただけだったからだ。
だが次の瞬間、詠み手の名が目に入った。

………安倍晴明。

「ひ……!」
悪い予感と悪寒に襲われ、右大臣は慌てて蓋を閉じた。
しかし時すでに遅く、
「へ……」
右大臣を見た家人が声を上げた。

「な……何じゃ。その無礼な驚き方は」
「お……お…畏れながら……ぷぷっ……ではなくて……ぷっ……」
家人は笑いをかみ殺しながら右大臣に起きた異変を伝えた。

大きな朱色の丸印が、両の頬にべったりついている、と。





頼久を下がらせた後、左大臣が寝所に入ると、土御門は静寂に包まれた。

だが褥に横たわってからも、左大臣は寝付けなかった。
降り注ぐ雨の音だけが、耳につく。

晴明に送った書状には、他愛ない遊び歌だけが書かれていた。
内容からして、身分ある者を使いに立てるものではなく、
たとえ奪われても、相手には何の益ももたらさない。

左大臣から晴明への隠密裏の依頼は、頼久に口頭で伝えさせたのだ。
――貴船社の件を調べて頂きたい、と。

貴船社に奉納した馬は、左大臣も含めた誰もが白馬と確認していた。
それが誰かの落ち度によって、貴船社に到着した時に黒馬に変じるものだろうか。

まことしやかな理由でその「誰か」を決め、口を揃えて責め立てるのは容易く、
祟りや怨霊の仕業、天罰などと断じるのも容易い。
人々は真実よりも、強い言葉に拠り所を見出し、
己に分かりやすい事共に、心の安寧を得るからだ。

だが左大臣は、その場限りの安寧など欲してはいない。
拠って立つ場所は、事実だ。
此度の神事に関わった全員と貴船社を調べなければならない。

しかし、実際の調査は不十分なものになるという。

自身の退席後の話し合いの内容を、左大臣はすでに把握している。
見舞いと称して、幾人もの参議が土御門を訪れていたからだ。

彼らの話によれば、右大臣が全てを調べると請け合ったと言う。
確かに、貴船社の神事にまつわるあれこれは、これまで右大臣が主に担ってきた。
そこまではよい。

だが、貴船社まで自ら足労して調べるものの、
同行するのは右大臣の側近に限るという。
補佐として参議も伴ってはどうか、また陰陽寮や馬寮の者も差し向けては、
という意見は一顧だにされなかった。

左大臣の胸中で、右大臣への疑惑の念が大きくなっていく。
今にして思えば、自身の立場に固執する右大臣が、珍しく重要な役目を譲ったこと。
そして、事が起きた時の勢い込んだ態度。

それでも、白馬を黒馬に変ずるような不可思議の力など右大臣は持ってはいない。
これまで側近くにそのような人物を置いたこともない。
ならば、最近になって右大臣の近辺に変化があったのだろうか。

左大臣は夜具の中でもぞもぞと身体を反転させた。

――これ以上に憶測を重ねるは無益であるな。
顕光のことは、いずれ明らかになるだろう。
頼久が襲われたのは、内情を探ろうと躍起になっている人物がいる証拠だが、
顕光の指図とすれば、今宵の内に動く素早さが奴らしからぬ。

……まあよい。晴明殿が面白き趣向を施してくれた。
まずは楽しみに報せを待つとしよう。

いつの間にか、雨音が静かになっている。

――少しの間でも止むとよいのだが……。
とにかく貴船社を……早う解決して……正しくお祀り申し上げねばならぬ。

左大臣の思考が、次第に間遠になっていく。

――忘れていた……。明日は朝寝ができるのだ。
打つ手は打った。時にはゆるりと休むのもよいかもしれぬな。


やがて左大臣は眠りに落ち、
雨に閉ざされた土御門で動くものは不寝番の武士達だけになった。

夜と朝の一瞬の間隙――――

赤黒い光を放つくちなわが、左大臣の足元でゆらりと鎌首をもたげた。





雨音が部屋を満たしている。
永泉は、摂津の寺でのことを話し終えると、
うつむいて手の中の数珠を握りしめた。

「――翌日には、寺中に知れ渡っておりました。
考えてみれば、取るに足らぬ身で、身の丈に合わぬ事をしたのが
間違いの元だったのでしょう。
そもそも、私は本当に何もしていないのです。
争っている方達それぞれの話を聞かせて頂いただけで……。
ただ、その時の様子をご覧になっていた左大弁殿が……その……
以前、私を東宮に推した方の一人で……」

「その者が何か言ってきたのだな」

泰明の問いに、永泉は弱々しくうなずく。
「はい……もう少し頻繁に内裏に顔を出してはどうかと、
そう仰ったのです」

あかねはきょとんとした。
「それだけ……ですか?
永泉さんが内裏に行くのは、そんなに特別なことなんでしょうか」
「あ、あの……そういうわけでは。
ただ、左大弁殿が仰るには、側近くに心を許せる話し相手がいれば
主上はさぞお心強いだろう……と」

「ううん、何だか奥歯に物が挟まったような言い方ですね」
「すみません……」
「神子、左大弁は、殿上人にありがちな言い回しをしただけだろう。
彼らは言葉の裏に別の意を込めることを好む。
そして永泉は、その意図を察したのだ」

「ええ……私の誤解であってくれればよいのですが」
「誤解であれと願ったところで、相手の気持ちは変わらぬ。
要は、再び永泉を使って自らの利を得ようとしているのだろう」

「それって、永泉さんを無理矢理東宮にしようとした時と同じじゃないですか。
そんなひどい話、きっぱり断ればいいと思います」
「それが……その……私は修行中の身ですし、
私のような者では主上のお話相手は務まらないと申し上げたのですが……」
永泉は再びうなだれた。

「簡単には退かぬか」
「はい……。左大弁殿は私の言葉を笑顔で否定されるばかりで、
まともに取り合って下さらないのです。
このままでは、まるで蜘蛛の糸に絡め取られるようで……」

「だから逃げたんですね」
「はい。今日は摂津の寺の方々と共に内裏に行くはずだったのですが、
そうすると左大弁殿と顔を合わせるかもしれません。
なので、私は……気分がすぐれぬと偽りを言って、寺におりました。
けれど、私が行かなかったことで、すぐに左大弁殿から文が届き、
右大臣殿に近い数名の方と共に、明日見舞いにいらっしゃると……。
御室までご足労頂いておいて、会わないわけには参りません」

「逃げてきたってことは、もちろん黙って出てきたってことですよね。
今頃お寺では大騒ぎになっているんじゃ……」
「ああ………私がいたらぬばかりに、皆様に大変なご迷惑を……」

あかねと永泉のやり取りを聞きながら、
泰明はあの書状のことを考えている。
墨跡も鮮やかに書かれた、あの一言

――法親王に異心あり

永泉に異心がなくても周囲が祭り上げれば同じこと。
権謀術数渦巻く内裏では、些細なことが火種になる。

それゆえ、あれは巧みな讒言だ。
あの一言しか無いことで、人はかえってあれこれと思いを巡らす。
心の隙に悪意が塗り籠められていく。

帝があの書状を秘匿したのは正しい。
道摩の仕業と知れたからには、
万が一にも人目に触れぬよう、即刻始末すべきだ。

その時――
部屋に灯した小さな灯りがジジッと揺らめき、消えた。

雨音の彼方から、歪んだ鐘の音が響く。
一つ、二つ、鐘の音は幾重にも重なり合い、近く遠く鳴り渡る。




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シリアス展開が続くと、ちょっと息抜きを入れたくなります。
で、右大臣殿はお師匠の術で、「ゲットでチュウ」的なほっぺに


2015.8.20 筆